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丑と寅の翼 

自分が乳がんに罹患して、真っ先に思い浮かんだ人がいます。

高校の同級生、しもー君(愛称)。
6年ほど前に亡くなりました。
乳がんに罹患して10年後再発、そして帰らぬ人となりました。

横浜で療養していたけれど、最後はご両親のお住まいの近くの病院に転院し
安らかに眠りについたそうです。

高校卒業以来会ったことはなかったので、私の中のしもー君はいつもキャッキャとよく笑い、その抜群の成績と可愛らしさでクラスの中心にいたときのままです。

葬儀には出られそうになかったので、喪主さまに弔電をお送りしました。
「美しく聡明なタカコさんはずっと私の憧れの的でした」と。

訃報を知らせてくれたのは、中高の同級生のクロちゃん。
彼女はおそらく自主的に、クラスの同窓会の取りまとめをしてくれています。
クロちゃんから電話がかかってきて絶句しました。
「お互いに健康には気をつけないといけないね!」と言って電話を切ったのに…。

先日は、住所公開にOKを出したクラスメートの名簿を制作、送付してくれました。
すでに3人、旅立っていました。それを知らせるクロちゃんも辛かったことでしょう。


同級生のうち九州を出たのは私ともう一人だけ。
残りの同級生は皆、九州、というかほとんどの人が実家の近くに住んでいました。

旧高女からの共学普通科進学校。
高1のときは入試のときの成績でバランスよくクラス分けされますが、
高2からは文系・理系、そして成績順のクラス分けになります。

女子には大学教育は不要といった、九州の圧はたしかにありました。
でも高校では 熱心な「進路指導」のもと、圧と成績の塩梅の取れた進路決定がなされていました。
そしてそんな中でもみんな部活にも勉強にも打ち込んでいました。もちろん♥️にも。

昭和36年、37年生まれ。
共通一次2年目、大卒時はまだ男女雇用機会均等法施行以前の世代です。

以前お話した通り、母の希望は
「県立短大に進学し、銀行か市役所に勤務し、市役所の人と結婚して近所に住む」ことでした。

母はなかなか自分の意見を言わない人でした。
「だれだれがああ言っている」、「おばさんたちもこう言っている」と。
それは10歳で終戦を迎えた世代の、私には想像もできない青春を送ってきた人の影の部分だったのかもしれません。

バリバリの九州男児の父は、逆に何も言わずに私の進路を応援してくれました。
これは交通事故で急死した父の兄が、娘をふたりとも東京の大学に進学させていたことの影響もあったのだと思います。

こうして私は九州を出て、親元を離れて学生生活を堪能しまくりました。

一方、私より遥かに成績の良かった友人たちは、九州外の大学は「滑り止め」で受験。
本命は地元の国立大学。
本人も希望もしていただろうし、ご家族のご意向もあったことでしょう。


朝ドラ「寅に翼」を見ていると、主人公の学生時代が戦前の話とはいえ、
「東京」というアドバンテージはあるよね、と思いました。
選択肢が多い!

大学卒業後の同級生たちは、地元で教職や官公庁職員に。

今もまだ働き続けている人もいるそうです。
CiNiiで検索すると名前が出てくる人もいます。

同級生たちの背中の大きな翼、はっきりと見えます。
みんなあの頃のまま、今も地元で頑張ってるよね!
子育てに専念した人も、家庭を持たず仕事に没頭した人も、それぞれの役割を見事に成し遂げていることでしょう。

もし「お母さんに青春時代があったなんて信じられない」なんてこと言うご家族がいたら、飛んでいってお話して差し上げたい。
どれだけ輝かしい時代を過ごしていたのかを。
そしてそれは今も続いているということを。


そしてもう一人。思い浮かぶ友人。

小学校からの同級生。

色々あって、九州のホスピスで働いているという話でした。
長女が小さい頃に会ったのが最後になりました。

いつのころからか年賀状が届かなくなりました。
たまたま両親の暮らしていた施設のすぐそばにご実家があったはずなので、
先日弟に確認してもらいました。

「更地になってたよ。お兄さんが鹿児島市内に住んでるらしい」

情報はそこまででした。

元気でいるのならいいけれど。

いつか、私がホスピスにお世話になる日が来るとしたら、彼女のいるところがいいな、と思っていました。
その気持は今もあります。

彼女の大きな翼のもとなら安らかな時を迎えられるかもしれない。

あ、でもあと30年くらい先の話です。
その時は彼女も見事なおばあちゃんになってるでしょうね。





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