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じゅんぴぃを明るく見送る会

2024年9月14日、最終便で相方と次女が実家に向かいました。
誰も住んでいない実家はガスは止めているので、夕方うちで入浴してからの出立。

到着時間が遅く、レンタカーの手配ができず、弟が迎えに来てくれることになりました。

通夜会場に着いた、とLINE。

弟夫婦×2だけ。
甥っ子は海外(ほぼ)移住とか、乳幼児2人いるとか。
姪っ子は妊娠初期。
というわけです。
うちの長女も、土日祝は絶対休めない仕事。
義父のときはなんとか人をやりくりしてお通夜だけ参列できました。

というわけで、大人6人のお通夜。

母の実弟にはその次男のいとこに連絡しました。
この叔父もいま施設に入っていて、認知症が進んでいるようです。
京都の伯母には、しばらくしてから私から伝えます。
たぶん、すぐに忘れてしまうことでしょうが。

父の妹たち、いとこたちには全部済んでから、いとこ会LINEで報告することになっていました。
ただ、父のすぐ下の妹と、その長女には連絡しました。
この従姉妹は遠距離に住むうちの姉弟に代わり、入院の付き添いや、日常品の買い出しなどで本当にお世話になりました。

この叔母からそこの長男に連絡がいき、その長男がいとこ会LINEにお悔やみを。
そうするとつぎつぎにいとこたちから連絡が来て、結局叔母たち、いとこたちが夕方お通夜に来てくださったとのこと。

相方と次女が到着したのは9時半くらいだったので、もう弔問客もなく、翌日の葬儀の打ち合わせ兼遅い夕食でした。
その打ち合わせに私もLIN通話で参加しました。

今回初めて家族葬で執り行います。
一体どんな施設なんだろうと思ったら、一日1家族のみの葬儀らしく、こじんまりとした斎場はすべてうちの貸し切り。
しかも、夜間職員さんは不在なので、弟いわく「やりたい放題」。
めっちゃ性善説な斎場。
しかも、遺影を映し出しているモニターについては「これを消してテレビ見ますか?」なんてことも言われたそうです。
流石にそれは…
ただ、遺影の天井のLEDライトが七色に変わっていくのがなんともいえず、これ、葬儀というより披露宴じゃない?なんて思ったり。


でも、「明るく見送ろう」という、我が家のコンセプトには合ってます。

ちなみに、棺の中の母ですが、昔ながらの白装束に頭に三角のアレ、ではありませんでした。
白は白だけど、画像で見る限りは木綿じゃないみたいな。
そして、左の肩辺りに布製の大きなバラが添えてありました。
次女によると「ファンデーションにラメが入ってて、めちゃきれいに輝いてる」そうです。


ところで。
うちの宗派は僧侶に対する縛りがあまりなさげで、同じ宗派の義妹のお母様の葬儀には茶髪の僧侶がくるかも、と言われたそうです。
で、うちの場合、サイドを固めるお坊さんがツーブロックらしい、という情報。

そんな話で盛り上がりながら。
喪主は一応、父。
でも長男の上の弟が仕切る。
遺族代表とか親族代表とかの挨拶なし。
だって、うちの兄弟と叔母といとこだけの葬儀だもの。

お位牌は父、遺骨は上の弟。
(宗教的に意味を持たない)遺影を持つのはうちの次女、ということになりました。

6畳の和室二間、シャワールーム、冷蔵庫、キッチン、お手洗いつきなので、結局6人ここに泊まることに。


うちの相方もだけど、下の弟のイビキがすごいんですよね。
他の四人、ちゃんと寝られたのかな。

母の安らかな眠りを妨げるものはイビキのみ。


翌9月15日。

会場には母の子供の頃の家族写真や私の赤ちゃんの頃一緒に写っている写真、夏休みに孫たち全員揃った記念写真、そして長年続けていたダンスのステージ写真が様々な大きさでディスプレイされていました。

半日でこれだけ準備するのはさすがプロ!

9時からの葬儀の前に、私の「座席」決め。
小さな会場なので、後ろのテーブルに次女のi-phoneを立ててちょうどいい塩梅でした。

私も上は黒のブラウスに着替え、ジェットのネックレスを付けて「参列」(私の音声はミュートしてます)。

一番心配だったのは父。
感情が高ぶって何かしでかさないかと、それが。
母の亡くなった日の午前中にお見舞いに行ったものの、死に目にはあえませんでした。
お通夜で初めて物言わぬ母と対面した父、初めは何が起きているのか理解できないようだったそうです。
棺の中の母を見たあと、遺影の母を見て「これは同じ人か?」と。

幸い、父のすぐ下の妹がずっとそばにいてくれて、お焼香もちゃんとできていました。

が、納棺の段になるともうだめでした。
ずっと号泣して「ごめん、ありがとう、きれいだ」と叫び続けていました。
そしてお棺に蓋をするというときには
「もう一回!待って!」と。

気持ちはわかります。
母方の祖母の葬儀の時、いや、今この瞬間生き返るかもしれないから!!って思いましたからね。

最後に派手好きだった母に、ゴールドのレースのジャケットを着せてあげたいと思っていたら、弟たちも同じ思いだったらしく、ド派手に旅立ちました。 
手には義妹が誕生日の度に贈っていたフェイラーの中から、買い物のお供だった手提げバッグを持って。

「ああ、これこれ、こんな感じだったよね、いつも」と。

そんなこんなで葬儀は無事終了。


母の戒名は

釋順彼(しゃくじゅんぴ)

順彼佛願故に由来します。

母はこれからじゅんぴぃです

日本人の名前でPA行はとっても珍しいので今ひとつしっくりこないのですが、お坊様にとっては母の名前が「順」だったら「彼」しかないやろな、って感じだったのかもしれません。

釋+名前の一字+◯

母の場合、同姓同名(?)の方が多そう。

ちなみに、父の戒名は私はもう考えてます。
釋和順。
これしかないでしょう?

と。
LINE中継からLINE通話に切り替わり、叔母たちや、いとこと通話。
私は「コロナに罹って帰れない」ということになっているので、皆さん心配してくださいました。
そして「すぐ良くなる」と思っているので、良くなったら帰っておいで、とも。
ちょっと心が痛みました。

来年の春ならなんとか帰れるかもしれません。

斎場から火葬場に移動して、そこの待ち時間に早めの昼食。
義父の葬儀のときは上の弟がカメラマンでしたが、今回は相方がその役を仰せつかりました。

イマドキの遺影、黒白枠のいかにも「故人」って感じのじゃないんですね。


やっぱりこの写真を選んで良かった!

お通夜、葬儀とアレほど泣きじゃくっていた父ですが、火葬場ではカーテンが引いてあって桜島が見えん!とご機嫌斜めだったそうです。
だんだん自分を取り戻しつつある。

そこから小さな壺の中の母を連れて、菩提寺へ。
ここには父方のお墓を全部移した納骨堂があります。
母は父より一足先にここに眠ります。

初七日法要まで済ませたところで、一連の仏事は無事終了。
菩提寺は実家から徒歩数分のところにあります。

途中に道の駅ではないけれど、地元特産品をあつかうお店があり、そこでデザートを購入したらしい。

上の弟が6月のラグビー日本代表戦でおみやげに買った「ノッコン」Tシャツを着た父。
だんだん、朝の記憶が薄らいでいるようでした。

父が誰をどの程度理解しているかの「お名前あてゲーム」をしていたらしい。
次女のことは、3回に一回は忘れているようです。義妹のことは「あんた、誰け?名前あったか?なか人もおるが」!
いきなり、名無しのゴンベ扱い。

そうやって少しずつ、記憶から失われていくんですね。
いや、失われるんじゃない、思い出せないだけ。
心の奥にはちゃんといきいきとした思い出が残っているはず。

午前中の慟哭が夕方には大爆笑に代わり、母も安心していると思います!

精進落としは近くのホテルの日本料理店で。
このときの父はすっかり通常運転。

これでよかったんですよね。
母も、父がいつまでも悲しんでいたら浮かばれません。


そして、9月17日。
今朝6時半に父から電話。
「こっちはよか天気じゃが。」

もうす〜っかり忘れています。

そのほうがこちらも安心。

またいつもの通り「俺は一人で家で暮らす」と言い出すでしょうが、それものらりくらりとかわしていきます。

大丈夫だよ、じゅんぴぃ!
私はちゃんと生きてるし、これからもしぶとく生き続けるから。
無事、天上界にたどり着いたら、そこから時々でいいからパワー分けてね!!






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