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勝手に自分で諦めて、やめてしまっていること。

今朝、とある対話の場で諦めている自分に気づいた。
厳密にいうと、その時は「自分が諦めている」ということすら気づかなかった。

相手の置かれている環境、背景、想いを汲み取って理解しようとした結果、自分のニーズはいつの間にか「なかったこと」になっていた。

もうちょっというと、「言っても仕方ないから、言わなくて良いのだ」「むしろ、言っても困らせるから、言わないほうが良いのだ」と自分を説得している状態近かった。

誰かに相談するときも、「この環境はもう変わらないから、その中で考えるしかないんだよね」という前置きを置いていた。

それくらい、自分の中では、「前提」ができていた。

でも、ふとしたときに気づいた。

「私は、本当はこうしたいと思っている」って、相手に伝えたっけ?

気づけば、他者を配慮すること、他者を理解することが先行して、自分自身がどうしたいかを伝えることをしないという選択を取る。相手の発言、行動を見て、「こうだろう」と判断し、自分の次の行動を決めている。

私が「こうしたい」って気持ちは、どこにいったんだろう….

そう気づいた時に、それが叶わないことだったとしても、難しいことだったとしても、まず自分がそう思っている、ということを無かったことにしても良いのだろうか、と思った。

大人になると、自分の「こうしたい」をコントロールすることは子どもの頃に比べて圧倒的に増える。

もう少し長く一緒にいたいと思っても、相手が「明日早いから帰るね」と言えば、それを受け止めるとか。

もっと連絡を取りたいと思っても、相手が忙しいことを想像して「大変だよね」と共感するとか。

本当はラーメンが食べたいけど、相手の好みを考えて「ピザにしよう」って言ったりとか。

人は他者と生きていくために、自分の「こうしたい」を少しずつコントロールしながら生きている。もちろん、そのコントロールが自然に、本当に無理なくできている人もいる。一方で、ちゃんと見つめてみると「本当はこうしたかった」という思いがずっと残っている自分に気づくこともある。

おそらく、「本当はこうしたかった」という思いがずっと残っていることというのは、特に自分の中で大事だったものが多い気がしている。

そう考えた時に、私はこの場において、自分がこうしたいと思っている、ということを伝えないという選択は、自分の中でずっと気掛かりとして残ることになるのでは、と感じた。

それは、口にしたところで叶うことや達成されることではなかったとしても、「こうしたい」と他者と共有するという行為が、私にとっては重要だと思ったのだった。

「こうしたい」と伝える前に、「無理だろうな」「言っても困らせるだろうな」「わかっていることだから」そうやって勝手に判断して諦めていることってないだろうか。

もちろん、それで自分の願いが叶えばと思うけれど、それ以上に自分の意志を伝えることで区切りをつけられることがある。

そんなことを振り返りながら、今日、私は、一度は諦めていた自分のニーズを、他者に伝えるという行為をしてみたのだった。

結果、やっぱり自分の「こうしたい」は叶うことはなかった。そうだろうな、と思った。わかっていたことだった。

でも、私の中では、それでも私のニーズを伝えてみる、ということができた時に自分という存在をちゃんと承認してあげられた感覚を持った。そして、それを聴いてくれていた相手も、「そうだよね。」と私のそのニーズを受け止めてくれた。

それだけで私は今日、また一歩、進むことができた、と思った。
叶わないとわかっていたとしても、叶えたいという自分の気持ちをその場においてみるということ。

私が本当に必要だったのは、これだったんだろうな、と思った。

もちろん、いつでもそれができるのかと言われると、まだわからないけれど。

今日は、そんな自分に気づいて、行動できたことが自分の大きな一歩。

1週間、お疲れ様でした。
明日も、良い日になりますように。

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