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町田康「しらふで生きる」を読む

微妙に苦戦している今年の秋の禁酒。
結局週1ぐらいでチートDayしている。まあ禁酒するぞと思わなかったらそれ以上にダラダラ飲んでいるだろうから、まったくの失敗でもない。

今年はどっちかというと食べ物に気を使っているので、酒の方は禁酒じゃなくて節酒で十分だろと思いつつ、町田の本「しらふで生きる」を読んだ。

二十代から30年間、ほぼ毎日酒を飲み続け、五十代を迎えたあるときにピタッと禁酒した話。

なぜ禁酒したのか、どのように禁酒に成功したかについて端的かつ直截的に語っているわけではない。

そこは連載エッセイだから端的に書くと面白くないし、もともと町田の語りの面白さは横滑りしていく脱落的なリズムの文体にある。

結局何でやめたん?という問いは逸らされ続けるも、気が付けばミステリ小説のごとく徐々に核心に迫るよう引き込まれていき、最後の方では納得のいくシンプルな答えを与えてくれる。

その答えはまあ思い切り帯に書いてあるわけだが。
禁酒に苦戦する酒飲みとして、この意味は如何に?ということを読み解く過程がなかなかの読書体験であった。

実際、1,2週間禁酒するだけでもしらふでいることの達観した境地、脳が明晰になり心が澄んでくるあの境地は垣間見える。何ていうか、日常のそこはかとないことや瞬間がふと尊くなる。

酒を飲むというのはそういう境地から自分を遠ざける。飲んでいる間は楽しいが、振り返ると時間を無駄にした感もあるし。眠くなるし、かつ睡眠の質も低くなる。仕事とか趣味活へのヴァイタリティにも少なからず影響する。肝臓もあるレベルまでダメージが進むと不可逆だし。負債の積み上げだ。

まあ、酒飲まない人でもギャンブル依存だったりやたら怒りっぽい人とかいるわけだから、しらふが達観の境地というのもあれだけど。酒飲が日常となっている者にはしらふとなったときに、そういう悟りみたいな領域が感覚としてわかるということだ。人生への負債が積みあがっている、負債を返済せねば、と。

そういう感覚を大切にするためにも、酒は月に2,3日ぐらいか、週に1日だけに留めるのがよいかもしれない。

町田の場合は2015年暮れから断酒し続けているはずだから丸9年。
そこまで行くとすごい。

しらふで人生の寂しさと向き合うなんて、見習いたいところだ。

私の場合、野毛や伊勢佐木町、六角橋への総合的な近さから今のエリアを選んでいたりする。寂しさと向き合うにはまずは住む場所からという気もする。うーむ、しかし、野毛と離れられようか。

次は反・教訓本として中島らもを読んでみようかな(アル中作家。酒飲んで階段から転落死)。

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