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<書評>『大衆の反逆』

『大衆の反逆 La Rebelion de las Masas』オルテガ・イ・ガセット Ortega y Gasset著 神吉敬三訳 ちくま学芸文庫 1995年 原著は、1930年発行

『大衆の反逆』

 スペインの哲学者・社会学者オルテガ・イ・ガセットが、二十世紀における大衆の発生とその影響を考察し、さらにファシズムの発生を予言した書。発表当初は、大衆を馬鹿にしている、また見下しているとして、その思想は貴族主義であると批判された。しかし、大衆の熱狂的支持から出現した、ヒットラー、ムッソリーニ、フランコらのファシズム政権を予言したことから、現代社会におけるポピュリズム批判の原典と評価されている。また、ヨーロッパの国家統合が必要であると強く提唱しており、それは現在のEUとして実現しているが、その実態はオルテガが理想としたものからは遠く離れているようだ。

 一方、現在の日本では、特に選挙におけるポピュリズムが蔓延しており、その結果、政治の形骸化、ショービジネス化が問題になっていることから、その是正に向けて考えるためには、必読の書と言っても過言ではない。

 本書は、政治的かつ社会的な対象について、ジャーナリズムの手法を屈指する一方で哲学的な思考を重ねた結果を論述しているが、その読みやすく理解しやすい文体からは、読む人によって様々な理解あるいは利用ができるものになっている。これは、本書の良い点であるとともに悪利用される弱点であると思う。そのため、ここで何かまとめや感想をひとつの文章として記すことは、一種のアジ演説のようになってしまう恐れがあるので、それは避けることにした。

 しかし本書には、ジャーナリストでもあったオルテガによる、巧妙かつ的確な論述が多々あり、それは味わい深く巧緻に長けた豊潤な文章でもあった。そのため、そうした箇所を抜粋して紹介しながら、私の小さく不規則な感想を述べることとしたい。なお、ページ数の次の( )は、該当する章題である。

P.15-16(充満の事実)
 厳密にいえば、大衆とは、心理的事実として定義しうるものであり、個々人が集団となって現れるのを待つ必要はないのである。われわれは一人の人間を前にして、彼が大衆であるか否かを識別することができる。大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。(中略)

 一般に「選ばれた少数者」について語る場合。悪意からこの言葉の意味を歪曲してしまうのが普通である。つまり人々は、選ばれた者とは、われこそは他に優る者なりと信じ込んでいる僭越な人間ではなく、たとえ自力で達成しえなくても、他の人々以上に自分自身に対して、多くしかも高度な要求を課す人のことである、ということを知りながら知らぬふりをして議論しているのである。

 人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な欲求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である。

<個人的見解>
 ここに、オルテガの述べる「大衆人」と「選ばれたる少数者」の規定が明確に書かれている。特に「大衆人」の規定は、今の日本を象徴しているように思える。

P.80-81(大衆人解剖の第一段階)
 われわれは、今日の大衆人の心理図表にまず二つの特徴を指摘することができる。つまり、自分の生の欲望の、すなわち、自分自身の無制限な膨張と、自分の安楽な生存を可能にしてくれたすべてのものに対する徹底的な忘恩である。この二つの傾向はあの甘やかされた子供の心理に特徴的なものである。そして実際のところ、今日の大衆の心を見るに際し、この子供の心理を軸として眺めれば誤ることはないのである。

 非常に長く、しかも天才的――そのインスピレーションと努力において天才的――な過去の相続者であるこの新しい大衆は、彼をとり巻く世界に甘やかされてきたのである。誰かを甘やかすというのは、彼の欲望になの制限も課せられないという印象を彼に与えることである。こうした条件のもとで育った人間は、自己自身の限界を経験したことがない。

 外部からのいっさいの圧力や他人との衝突のすべてから守られてきたために、そうした人間は、ついには、自分だけが存在していると思い込むようになり、自分以外の者の存在を考慮しない習慣、特に、いかなる人間をも自分に優る者とはみなさない習慣がついてしまう。自分より優れた人間がいるという感じを彼に実感させうるのは、彼よりも強い人間が、彼に欲望の一つを放棄するように強制し、分を守り控え目にするように義務づけることができた場合だけである。

<個人的見解>
 こうした人々を「中二病」と言うのだと思う。そして、この「中二病」は今の日本のメディアを占領している。メディアだけでなく、政治家や政府機関にも多数いる。いやさらに、経済人や学生にも多数いる。日本人が皆「中二病」に犯されている気がする。

P.88(高貴な生と凡庸な生)
 一般に考えられているのとは逆に、本質的に奉仕に生きる人は、大衆ではなく、実は選ばれた被造物なのである。彼にとっては、自分の生は、自分を超える何かに奉仕するのでないかぎり、生としての意味をもたないのである。

 したがって彼は、奉仕することを当然のことと考え圧迫とは感じない。たまたま、奉仕の対象がなくなったりすると、彼は不安になり、自分を抑えつけるためのより困難でより苛酷な規範を発明するのである。これが規律ある生――高貴なる生である。高貴さは、自らに課す要求と義務の多寡によって計られるものであり、権利によって計られるものではない。

<個人的見解>
 こうした人こそ真のエリートであり、社会をリードしていく義務を負った人たちであろう。しかし、そうした人たちを、今の日本で見つけることは相当に困難であり、またそうした人を育成する教育機関や環境がほとんどない。一方で、「大衆人」を育成する教育機関や環境は、日本中いつでもどこでも見つけることができる。日々、日本中で次の世代の「大衆人」が誕生している。

P.96-97(大衆はなぜすべてのことに干渉するのか、しかも彼らはなぜ暴力的にのみ干渉するのか)
・・・人々は、一つの意見をしっかり造り上げるだけの努力をせずに、この問題に関する意見をもつ権利を有していると信じ込むことによって、わたしが「反逆する大衆」と呼んだあの人間としてのばかげたあり方に自分が属している、という典型的な例を示しているのである。

 これこそ、閉鎖的・封鎖的な魂をもっているということに他ならない。この場合には知的閉塞性ということができよう。こうした人間は、まず自分の中にいくばくかの思想を見出す。そして、それらの思想に満足し、自分を知的に完全なものとみなすことに決めてしまう。彼は、自分の外にあるものになんらの必要性も感じないのであるから、自分の思想の限られたレパートリーの中に決定的に住みついてしまうことになる。これが自己の閉鎖のメカニズムである。

<個人的見解>
 こうした人たちが、政治とメディアの世界を支配しているのが、日本の姿であると思う。つまり、自らの建設的な意見を構築することをせず(あるいは提示できず)、他者の提言(発言)に対して、言葉尻を捉えた揚げ足取りを含む罵詈雑言を流暢に連発することが、自分のやるべき正義だと錯覚している人たちである。この種の人たちにとって、他者は学ぶ対象ではなく、攻撃する対象でしかない。

P.129(原始性と歴史)
 歴史的知識は、成熟した文明を維持し継続してゆくための第一級の技術なのである。それは歴史的知識が生の紛争の新しい様相――生はつねに一瞬ごとに変化している――に積極的な解決策を与えてくれるからではなく、以前の時代の素朴な誤りをふたたび繰り返すのを防いでくれるからだ。

<個人的見解>
 「中二病」によくある例として、「歴史なんて既に終わったことから学ぶことは何もない。そんなことより現実のことや未来を考えるべきだ」と声高に主張する人がいる。しかし、そうした人に限って「(悪しき)歴史を繰り返し」ている。歴史をきちんと学ぶことは、全ての学びに優るとも劣らない重要なことである。政治を含めて、学ぶことの第一歩は歴史である。人類が謳歌する現代文明は、歴史を記録することから始まったのだ。

P.138(「慢心しきったお坊ちゃん」の時代)
 この自己満足の結果、彼は、外部からのいっさいの示唆に対して自己を閉ざしてしまい、他人の言葉に耳を貸さず、自分の見解になんら疑問を抱こうとせず、また自分以外の人の存在を考慮に入れようとはしなくなるのである。彼の内部にある支配感情が絶えず彼を刺激して、彼に支配力を行使させる。

 したがって、彼は、この世には彼と彼の同類しかいないかのように行動することとなろう。したがって第三に、彼はあらゆることに介入し、自分の凡俗な意見を、なんの配慮も内省も手続きも遠慮もなしに、つまり「直接行動」の方法に従って強行しようとするであろう。

 こうした諸様相は、われわれに「甘やかされた子供」と反逆的未開人、つまり、野蛮人に似たような、ある種の不完全な人間のあり方を想起させた(正常な未開人は、これとは反対に、彼らより上位にある審判、つまり、宗教、タブー、社会的伝統、習慣などに、かつて例を見ないほど従順な人間である)。

<個人的見解>
 これは今の政治、メディア、SNSに充満している人々の姿であるというのは、決して間違いではないと思う。他者の考えを理解する以前に全否定し、自分の独善的な考えを一方的に主張しつつ他者に押し付ける。そこに「我と汝」のコミュニケーション(マルティン・ブーバーの哲学用語)は成立していない。幼稚園の囲いの中で幼児たちが勝手に騒いでいるのとどこに違いがあるのだろう。そしてそうした声を上げているのは、皆「甘やかされた子供」たちなのだ。

P.160(「専門主義」の野蛮性)
 彼(専門家)は、自分が知らないあらゆる問題において無知者としてふるまうのではなく、そうした問題に関しても専門分野において知者である人がもっているあの傲慢さを発揮するであろうことを意味しているからである。
 そして事実、専門家の態度はその通りなのである。

 彼は、政治、芸術、社会慣習あるいは自分の専門以外の学問に関して、未開人の態度、完全に無知なる者の態度をとるだろうが、そうした態度を強くしかも完璧に貫くために――ここが矛盾したところだが――他のそれぞれの分野の専門家を受け容れようとはしない。文明が彼を専門家に仕上げた時、彼を自己の限界内に閉じこもりそこで慢心する人間にしてしまったのである。

 しかしこの自己満足と自己愛の感情は、彼をして自分の専門以外の分野においても支配権をふるいたいという願望にかりたてることとなろう。かくして、特別な資質をもった最高の実例――専門家――、したがって、大衆人とはまったく逆であるはずのこの実例においてすら、彼は生のあらゆる分野において、なんの資格ももたずに大衆人のごとくふるまうという結果になるのである。

<個人的見解>
 日本では、「一般人の意見」と称して、政治の知識は皆無である芸能人等がワイドショーに出演し、その場の適当な思い付き(あるいは予め決められたセリフとして)の発言を、さも正論であるかのようにして吹聴する。そしてその「思い付き」あるいは「セリフ」がTVの電波に乗って広がり、まるで圧倒的多数である「世論」のようにメディアで扱われる。

 さらに、政治については専門外の人たちが、あたかも自分が専門家のようにして自分勝手な思い付きをメディアで流し、多くの「大衆人」へ影響を及ぼしている。これは政治だけに限らず、様々な分野で発生している。専門家以外の自分勝手な意見を排除するのは難しいが、それが「世論」になるのを防ぐ方法はないのだろうか。

P.240-241(世界を支配しているのは誰か)
 血も言語も与えてくれない統一の原理を「自然の境界」という地理的神秘主義に発見し、国民国家(ネーション)という理念の基礎を領土という大の人気者に置く場合にも、同じように強弁を犯すこととなる。・・・国境の「自然性」はまったく相対的なものであり、その時代の経済的・軍事的手段によって決せられることを示しているにすぎないのである。

 世人がもてはやす「自然の境界」の歴史的実態は、A民族がB民族の上に拡張することに対する障害物であるというに過ぎない。A民族にとって障害物――共存のためあるいは戦争のための障害物――であるがゆえに、B民族にとっては防御の役割を果たすのである。したがって「自然の境界」の概念は、それが境界であるよりもいっそう自然物であるがゆえに、きわめて自然に諸民族間における無限の伸展と融合の可能性が内包されているのである。

 一つの物質的障害のみが諸民族の伸展と融合を阻止するものであるらしい。・・・国境は、すでに達成されている政治的統一をそれぞれの時点において強固ならしめるために役立ってきたのである。

<個人的見解>
 これは、オルテガのヨーロッパ統合に向けた考えを述べているのだが、国境に対する概念を一新させる論考だと思う。国境は、国民国家にとって必須のものではなく、後付けのものであり、さらに、軍事的意味合いを目的として成立したとしているのは、国家や国境に対する先入観を一掃してくれる。考えてみれば、もともと国境も、国家も、国民も、人類にはなかったのだ。それは、後付けで権力者によって作られたものに過ぎない。

P.242(世界を支配しているのは誰か)
 種族と言語もこれとまったく同じ役割をもっている。種族あるいは言語による自然的な共同体が国民国家を形成したのではなく、その逆に、国民国家はその統一への意欲の実現に際して、他の多くの障害物と同様に、つねに多くの種族や言語に直面しなければならなかった。そしてそれらを力強く支配した時、血と言語の比較的均質な統一が生まれ、それが統一を強固たらしめる上に役立ったのである。(中略)

 我々は、国民国家の秘密は、国民国家を国民国家たらしめている独自の原動力、つまりその政治そのものを探し求めるべきであり、生物学的もしくは地理学的な性格をもった他の無縁の原理に求めるべきではないという決断をする必要があるのである。

<個人的見解>
 血も言語も、国家を統一する手段であって、原因ではないということを教えてくれる。すべては後付けの理屈でしかないのだ。特にヨーロッパにおいてそうであったことは、現在のEUを見れば理解できる。しかし、EU内部の血と言語による国民国家は、未だにしぶとく生き残っている。これは為政者が必要とする有効な手段であることの証拠だろう。オリンピックは、もう国家毎の参加ではなく個人参加にすべきだ。そうすれば、国境の無意味さを理解できるのではないか。

P.249-250(世界を支配しているのは誰か)
 ・・・国民国家を形成したのは愛国心ではないのである。国民国家を形成したのが愛国心だと信じることは、すでに私が指摘した愚鈍さ以外のなにものでもなく、実はルナンさえもあの有名な定義(注:ウィキペディアによれば次のような定義が示されている。「ルナンにとっての『ネイション』とは精神的原理であり、人々が過去において行い、今後も行う用意のある犠牲心によって構成された連帯心に求められるとする。

 とりわけ、この講演の中で示された『国民の存在は…日々の国民投票なのです』という言葉は有名である。」)においてその愚かさを犯している。ある国民国家が存在しうるためにはある人間集団が共通の過去をもっていなければならないというならば、今日から見た場合に過去であるものをかつて現在として生きていた時の同じ人間集団を、何と呼んだらいいのかという疑問をわたしは発せざるをえない。

 ・・・国民国家は、成員に共通した過去をもつ前に、その共通性を創造しなければならない、さらに共通性を創造する前に、それを夢み、欲し、計画せねばならないのである。国民国家が存在するためには、国民国家が自己の計画をもつことで十分である。

<個人的見解>
 この国民国家論については、私は良く理解できなかった。しかし、愛国心=国民国家とはならないという指摘は、本書全体の論理から頷けるものであり、また愛国心に対する概念を一新させるものであった。なお、ルナンの述べる「国民投票」とは選挙の意であると理解できるが、選挙という「大衆人」が狂喜するイベントによって「大衆人」及び国家が成立しているというイメージは、最近の日本の選挙を見ると妙に理解できる気がしてくる。

P.250-251(世界を支配しているのは誰か)
 ルナンは、目くるめくばかりの輝きを発する魔法の言葉(注:日々の国民投票)を見出した。われわれはこの言葉の発する光によって、国民国家の深奥にひそむ本質をぼんやりとではあるが照らし出すことができる。それは次の二つの要素からなっている。第一は共通の事業による総体的な生の計画であり、第二はかかる督励的な計画に対する人々の支持である。この全員による支持こそ、国民国家をそれ以前のすべての国家から区別するあの内的強固さを生み出すものなのである。

<個人的見解>
 オルテガは、ここで「大衆人」から支持を得ることを強く主張しているように見える。オルテガは、「大衆人」を批判すると同時に彼らからの支持を求めるというのは、どこか矛盾するように思える。しかし、世界を、社会を良い方向に向けるためには、圧倒的多数である「大衆人」とうまく付き合うことにしか方法はない。

P.272―273(真の問題は何か)
 ・・・現在の時代を代表するすべての人々のうちに、生に対する態度が、権利ならそのすべてをもっているが義務はいっさい負っていないという信念に要約しえないような人は一人もいないであろう。その人間が反動家の仮面をかぶっていようが革命家の仮面をかぶっていようが、それは関係ない。能動的であろうが受動的であろうが、しばらくすれば、彼ははっきりと、いっさいの義務を無視し、自分ではなぜかは考えもせずに、とにかく自分は無制限な権利の主体であると感じることであろう。(中略)

 ・・・わたしは知性を軽蔑し、知性の前に頭を下げなくてすます権利を自分の内部で戦いとるためだけの目的で、いずれかの労働党に加入した人々をかなり知っている。その他の独裁制に関しては、それらが秀でていると思われる者をすべて踏みにじり、大衆人の歓心を買うものであることを、われわれは十分に見てきたはずである。(中略)

 ・・・青年はつねに信用貸しで生きてきた。・・・ところが、今日若者たちがそのえせ権利を真の権利とみなし、しかも、すでに何かを成し遂げた人にのみ属するその他いっさいの権利を自分のものとするためにこそそうした態度をとっているということには、まったく啞然とせざるをえない。

<個人的見解>
 この下りは、オルテガが、次の新たな理想社会を作る担い手である若者たち(そして、権利だけ主張して、義務を負わない人たち)に対して、希望を持っていないことを表している。それは、彼らが「大衆人」であるからだ。しかし、「大衆人」の膨大な出現を防ぐことができない以上、「大衆人」を批判するだけでは前には進まない。結局、少数者の知的貴族であるオルテガの、政治的苦悩がここにあるように思う。

 オルテガの思想は、このように理解しやすくまた利用しやすいものである。それは例えばニーチェの箴言の一部を切り取って、自分の都合の良いように利用していることと共通する。そして、ニーチェがナチズムに利用された如く、オルテガも狂信的な政治思想に利用される可能性を持っているように感じる。しかし、ニーチェについて真摯に理解していれば、ナチズムの宣伝とは無関係であることがわかるように、オルテガの考えを誠実に理解していれば、これを悪用したものを安易に認めることはないだろう。そこで必要とされるのは、(私のような軽微な感想ではなく)優れた専門家の研究成果なのだと思う。


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