<旅行記>二泊三日、道東と知床の旅(前編)
知人が釧路に転勤になったので、会いに行くことを考えた。しかし、お互いの都合を調整するのが面倒なのであきらめていたら、家内が「私は室蘭出身だけど、道東は行ったことがないし、知床にも行きたい」ということで、学校が夏休みに入る前、つまりハイシーズンになる直前の時期に、釧路・川湯温泉・知床・網走を訪ねることにした。
もちろん、スケジュール作成は、我が家の「ツアーコンダクター」あるいは「旅行代理店」である家内が、いつものように全て行った。一方の私は、もともと旅行するのが億劫なので、(とはいえ、定年前は仕事上地球規模で転勤することや旅することが多かったが)、行き先などの希望は特になし。これまたいつも通りに全て家内にお任せである。(もちろん例外もある。ニースに行ったとき、エリスの墓があるマントンまで行かせてもらった。)
なお、私も自動車の運転をするし、実際海外でも運転をしていたが、父がタクシー・ハイヤーの運転手だったこともあって、実は運転が嫌いだ。もちろん、嫌いだからこそ、運転が上手いとは自分でも思わない。かといって、ひどく下手で危ないとも思わないが、好んで運転はしない。だから「運転は嫌いだ」、「車好きの趣味はない」と日頃から宣言している。(余談だが、暴走族には酷い嫌悪感しか持っていない。)
そのため、北海道と言えばレンタカーで移動するのが普通だが、私たち夫婦はともに大酒飲みということに加え、私よりも上手かったりする「運転好き」と言う家内も、一人で運転するのは大変な上に、「飲みたいから」という理由もあって、今回は飛行機・鉄道・バスでの移動になった。話は変わるが、昔『飛行機・列車・自動車』というコメディ映画があった。(1987年のコメディ映画。原題は『Planes, Trains and Automobiles』。日本公開題名は、『大災難P.T.A』)
私たちは、幸いにコメディ映画のような「災害・事件」に遭わない旅になったのは幸いだった・・・。
1.第一目 羽田、釧路空港、釧路市博物館、ノロッコ号、糖路駅、川湯温泉駅、大鵬記念館、川湯温泉ホテル
空港に向かい飛行機に乗るのは、もう一年四か月ぶりになる。前回の旅は、長い旅だった。昨年の3月上旬、新型コロナウイルス感染防止策がだらだらと継続している中、ヨーロッパでは徐々に規制が解除され、ようやく日常生活が戻りかけてきたある日、突然始まったウクライナ戦争で、民間航空機がロシア上空を飛べなくなったときだった。日々刻々と変わる戦況や運航状況を追いかけながら、次々とキャンセルされては予約を取り直すという、日程と航空路の変更に次ぐ変更を経た後、大きな不安を抱えた私たちは、大量の引っ越し荷物(大半は一か月前に船便で送っていたが、最後の生活を維持していた日用品など)を抱えて、ウクライナの隣国ルーマニアの首都ブカレストを離れた。そしてロンドンを経由し、通常よりかなり遠回りとなる、アンカレジ上空を通過する西回り航路を取って、疲労困憊と戦いながら、ようやく夜の羽田に着いたのだった。その時の羽田第三ターミナルは、日本の厳しいコロナ規制のため、とても閑散としていた。
今回は、羽田発朝8時少し前の便で釧路に向かう。そのため、四時に起きて家を出た。既に地下鉄は運行しているし、乗客もけっこういる。その後リムジンバスに乗り換えて、羽田第二ターミナルに向かう。夏の二泊三日の旅なので、着替えは少なく荷物は軽いつもりだったが、道東や知床は気温が低いということで、想定より衣類が多くなってしまった。また、虫除けも兼ねて短パンではなく長ズボンも用意したので、その分だけでも重くなっている。
リムジンバスは予定どおり羽田に到着した。早朝のせいか、まだ人出の少ないカウンターに行きチェックインを済ませる。それでも、昨年の第三ターミナルよりは人の数は多く感じる。日常が戻っているのだろう。チェックインを済ませた後、すぐにセキュリティーチェックに向かう。海外のように「ベルトを外しますか?」と若い女性係員に聞いたら、無言で首を横に振られた。そして金属探知機の中に入ったら、すぐに向こう側にいる若い女性係員二人は、無言で探知機を出るように手招きしている。私は日本語が通じない外国人に思われたのだろうか。または、話すのが面倒なのかも知れない。
この後、出発までの時間をどう過ごすかをいつも悩むのだが、早起きしたことから、朝食抜きできたので、出発ロビーにある立派な売店で、おにぎりセットを一つ買って家内と分けることにした。ところがその時、偶然「万世カツサンド」の名前が目に入ったので、私は思わず購入してしまった。「万世」との縁は、最近パーコー麺の店が無くなってしまったことで、妙に思い入れが強くなっている。
夏休み期間前とはいえ、結構人出が多い。韓国・中国を筆頭に外国人客も多くいる。また平日の朝でもあり、出張するビジネスマンの姿も見かける。さすがに日本人の家族連れは、まだ学校が休みになっていないから少なかったが、私たちのような年配の夫婦が目に付いた。ふとみると、私たちのように朝食を買って食べている。ここからは蛇腹がないため、機側まで行くにはバスに乗るのだが、乗車口を案内する大きな文字で表示されている行き先を見ると、日本の隅々まで航空路がめぐらされていることを実感する。日本には意外と多くの地方空港があるのだ。
出発ロビーで待っていると、行き先別のゲート状況を次々とアナウンスするのが聞こえれる。しかし、なぜか日本語だけでアナウンスしている。例えば利用人数の多さから、ハングルや北京語をアナウンスしても良いと思うが、それらが流れることはない。そして「世界共通語」である英語は皆無だ。これで、外国人客は日本のローカル空港への便を支障なく使えるのだろうか?
そういえば、私たちが以前ルーマニアでローカル列車を使った時は、駅構内のアナウンスはルーマニア語だけだった。それでも大丈夫だったのは、わりあいに時間が正確だったことと、英語の案内表示があったことに助けられた。羽田でも英語の案内表示は、大きな日本語表示の下に小さくあった。そうなのだ、「私のような暇人が心配することでもないな」と自分に言い聞かせた。そして、「もう仕事はしていないのだから、自分のことだけを心配しろ」という小さな声が、胸の奥から聞こえてきた。
出発時間が来てアナウンスが流れる。チケットのバーコードを読みってから、満員のバスに乗り、空港内をしばらく走ってから機側に着いた。空港使用料の関係から、ターミナル近くには駐機できないのだろう。当然だが、かなり小さい機体だ。100人ちょっとした乗れないサイズだが、釧路までの距離はあるので、プロペラではなくジェット機だ。バスから降りて、タラップを昇り、左右3列ずつの席に着く。ファーストやビジネス席はないが、金持ち連中はLCCなどを利用しないのだろう。順調に旅立ちが進んでいくのを感じる。
間もなく離陸した。朝の羽田の空は、夏らしくよく晴れている。窓から東京湾が見える。海外では、LCC便では機体がボロボロだったりすることが多いが、そこは日本だ。けっこうしっかりしている。離陸後まもなく、客室乗務員が飲み物を配りに来た。いつも私は、飲み物のメニューをチェックすることはしない。だいたい単純に「ジュースください」、「ビールください」などという。通路側の私は、「ジュースください」とだけ伝えた。それに対して「リンゴジュースでよろしいですか」と問い返してくる。後で確認したら、ジュースはリンゴしかない。もし私が「オレンジをください」と言ったら、どうしたのだろう。どうも気になる。これが英語だと、(「よろしいですか」は使わず)「リンゴになります」と言うのだろうな、いやそもそも無言でリンゴジュースを出してくるなと思って、小さな紙カップのジュースをもらい、すぐに飲み干し、まだ通路にいたキャスターのごみ袋に捨てた。「ありがとうございます」という声が聞こえた。日本人は丁寧だ。
左隣に座った家内は、「コーヒーをブラックでください」と頼んだ。私の目の前を通過して、同じように小さな紙カップに入ったコーヒーが手渡された。家内は少しだけ飲んだ後、小さな折り畳みテーブルの右上に置いた。そこは少しだけ、カップを置くようにへこんでいたからだ。そして、なぜかそのまま放置した後、テーブル近くにある機内案内の紙に手を伸ばした。
次の瞬間、家内の右手はカップに直撃し、たっぷりとコーヒーの入ったカップは私の座っている側に大きく倒れ、コーヒーは(幸いに熱くなかったが)私のズボンの左膝に浸透して、下の座席まで染み込んで行った。私は、無言で右ポケットに入っているタオルハンカチを出して、ズボンの濡れた箇所を拭いた。また、ズボンの左腿の下、つまり座席の部分を「次に座る人に迷惑かからないかな」と心配しながら、せっせと拭いた。そのうち「!」と気づいた私は、急いでシートベルトを外して立ち上がり、まだ混み合っていない後方にあるトイレに向かった。
その間に家内が客室乗務員に事情を伝えていた。私が席に戻ろうとした時、客室乗務員が来て、座席にビニールシートと毛布を置いてくれた。不思議なことに、座席の形に合わせた毛布があることを、このとき始めた知った。幸いに、ズボンがこれ以上濡れることはなかったが、次に座る人が心配で仕方ない。私のような黒い古いズボンならまだしも良いが、次に座る人が白いスカートの女性だったりしたら、コーヒーの染みがついて大変なことになるかも知れない、と私は釧路到着まで、ずっと心配し続けていた。でも、何もできない。その人に謝ることもできない。不条理を感じる。
ということで、今回の旅は、出発早々に小さな「災難・事件」に遭遇してしまった。これから後は、順調であることを祈って、旅を続ける。
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飛行機は途中、東北方面に豪雨を降らせている低気圧の関係で多少揺れたが、「コーヒー事件」以外は無事に空港に到着した。羽田のようにここでも、バスでターミナルまで移動かなと思ったが、蛇腹が機側に付いていた。羽田よりは発着便も少ないので、ターミナルの利用は余剰があるのだろう。蛇腹に出てみると、やや肌寒い。皆上着を着こんでいる。そして外は、小雨が降っているのが見える。
私は空港ロビーに出た後、予め用意しておいた軽登山用の軽いジャンパーを着た。厳冬には使えないが、この季節にはちょうど良い。家内が路線バスの切符を買いに行っている間、私は、玄関ロビーに展示しているアイヌの衣装やタンチョウヅルの剥製を眺めた。
まだ朝のため、行きかう人はまばらだが、あちこちでハングルと北京語が聞こえてくる。私たちは、玄関近くにある路線バスに乗り込んで、出発を待った。すると突然、外から若い日本人女性の甲高い嬌声が聞こえてきた。「このバスに乗ってくるとちょっと面倒だな」と思ったが、幸いに彼女たちは、レンタカーのある駐車場に向かった。ハングルと北京語を話す二つのグループは、私たちと同じ路線バスに乗り込んできた。幸いに静かだ。朝の早い時間帯のせいかもしれない。バスは間もなく、釧路市内に向けて出発した。日本国内での移動だが、なぜか外国にいるような錯覚をする。外はあいかわらず雨が降っていて、時折激しくなっているのが、運転席の窓ガラスの雨粒でわかる。
バスは、空港から市内に向かう幹線道路をまっすぐに進む。停留所のアナウンスが流れるが、降りる人も乗る人もいないから、停車することもなく、釧路駅に向かっていく。釧路市内に入ってからの街並みは、日本の地方らしく閑散としている。道は広いので、大型トラックは通行しやすいだろう。大通りに沿った歩道を歩く人の姿を、ぽつぽつと見かける。傘をさしている。大通り沿いの店もぱらぱらとあるが、どれも朝の時間帯ということもあり、開店前かまたは既に営業を止めているようだ。ただ、道路の通行を制御する信号の灯りだけが、雨粒の中で活気を帯びて動いている。やがて、私たちのバスは、釧路駅から少し歩いたところにある、屋根が付いているだけのバス停に着いた。
今回の旅で家内は、荷物を軽くするためということで傘を持ってきていない。一方、なんでも心配性の私は、折り畳み傘だけでなく、昔NZで買った黄色い合羽を持っているので、傘を家内に貸した。「なくさないでよ!」と私が言うと、家内はいつものように呆れた顔を私に向けた。「貸したものは絶対に忘れないけど、借りたものを無くすのが人の常なんだよ」と私は、雨の中でぶつぶつと言い続けて歩いた。たぶん、誰も聞いていない。
釧路駅のコインロッカーで荷物を預け、(まるで犬が印をつけるようにして)トイレが近い私は用を足す(そういえば、訪ねた先ではだいたいトイレに行く。私は犬か?)。そして同じバス停に戻って、別の路線バスに乗り、次の目的地である釧路市博物館に向かう。車内では、既にコロナは普通の風邪という扱いになっているのを知らないのか、繰り返ししつこいくらいに、「車内ではマスクの着用をお願いします」というアナウンスが流れている。たぶん、日本の規制期間が長すぎたので、放送内容を変えるのが追い付かないのだろう。そして、高齢者が多い乗客の大半はマスクをしっかりと付けている。マスクをしていない私たちは、妙な疎外感を感じた。やはり、外国なのかも知れない。
ところで、想定したとおり、バスの運転手は愛想が悪く、しかも運転が荒っぽい。最近の東京のバスは、運転がとても丁寧になり、しじゅうマイクで話しながら愛想良く仕事しているので、最初は違和感があったが、「そういえば、少し前の東京でもそうだったなあ」と思い出した。もしかすると、外国に来たのではなく、時間をタイムスリップしたのかもしれない。いつのまにか雨は止んでいた。空はどんより曇っていて、また日差しはないので暑さは感じない。東京の梅雨入り前の感じだ。やがて、釧路市博物館の最寄のバス停である「市民病院」に着く。
広大な駐車場に囲まれた立派な市民病院を横目にしながらとぼとぼ歩いた先に、ちょっと薄暗くて陰気だがかなり印象的なデザインの建物があった。そこが、私たちの目指す博物館だ。先客の中国人家族が博物館から出てきて、建物外の石の階段ですれ違う。子供二人が遊びながら昇ってくるので、危うく私はぶつかりそうになる。私は機敏に子供を避けて、博物館への道を進んだ。中国人の親は、子供の行動にまったく無関心のようだった。入口に着く。遠目から見たとおり、この博物館の外観はやはり陰気だ。ここが、元監獄とか、元精神病院だと説明されたら、なるほどと思うイメージだ。もしかすると、悪い霊がいるかも知れないので、霊に憑りつかれやすい私は用心した。(余談だが、以前熱海のホテルの温泉に入っているとき、油断していた隙に悪い霊に憑りつかれて、その晩高熱が出てしまった。)
ところが、さっさと中に入ってみたら、家内が「評判良いみたいよ」と言っているとおり、なかなかしっかりとした展示をしている上に、建物内装のデザインが新しく、外光がよく入って館内は明るい。漁業・林業・農業が中心産業だと推測する釧路市が、そんなに儲かっているとは思えないので、たぶん国からの助成金で建てたのだろうなと天邪鬼の私は思う。
その入口付近には、巨大なナウマンゾウの骨格標本が展示されていた。これはなかなか迫力がある。チケットを買った私たちは、まずエレベータに乗って四階に行く。そこには、アイヌの展示とタンチョウヅルの展示があった。私はいつもの通りに、アイヌの中に、「古代の宇宙人」の痕跡がないかと探したが、残念ながらなかった。その代わりに江戸から明治にかけての様々な生活道具が展示してあった。アイヌの中に、本州の文化が多く侵蝕した跡を感じる。そして、タンチョウヅルの剥製は、何かもの悲しい。映画『猿の惑星』で、人の剥製を見た主人公(チャールトン・ヘストン)になった気分がする。もちろん私は、オラウータンみたいと言われているが、当然タンチョウヅルではないのだが。少し気持ちが落ち込んで、早々に二階へ向かう階段を降りる(三階は展示がない)。
二階で先史時代の石器などを見る。こちらにこそ「古代の宇宙人」の痕跡があっても良いと思って、くまなく探したが、どこもなかった。そんなはずはないだろうと思って、さらに何かないかと時間をかけて探してみたが、やはりなかった。釧路には宇宙人は来ていなかったのだろう。家内が先に一階に降りていたので、私も慌てて後に続いた。降りてみると、そこにはタンチョウヅル以上に、多くの動物の剥製があった。もちろん博物館だから、釧路の陸や海に住む動物たちの剥製や骨格標本を展示することは、理に適ったことなので、なんら批判されるものではない。しかし、私にはどうも哀しい気持ちにしかなれないものがあったのだ。
なぜだろうか?と自問自答したら、入口付近にある巨大なナウマンゾウの化石の姿に、答えがあるように思えた。つまり、ナウマンゾウは既に絶滅した動物だ。もう地球上にはナウマンゾウはいない。今は人類を含めて、地球上に生存している動物たちの大半は、遠い将来には、ナウマンゾウのように化石としてのみ「生き残る」ことになるだろう。そうしたことは、宇宙の摂理そのものだから、そこに感情的な喜びや悲しみは無関係だ。しかし、そうした厳格な時間の流れを「哀しい」と感じてしまうのだから、やはり私はオラウータンの仲間なのかも知れない。
博物館を出てから、付近の庭園を少し散策した後、再び路線バスに乗る。行きと異なり、バス停には結構多くの人が待っていた。昼近い時間帯だからだろうか。幸いに満席にはならなかったが、地元の人の生活を肌で感じられた時間だった。行きとは対象的に、停留所に意外と多く停まりながら、バスは釧路駅に戻った。そこから和商市場というところでランチを摂るために歩いて向かう。勝手丼という、自分で好きな具材を買って自分だけのちらし寿司を作るという趣向が名物になっているそうだ。
和商市場に行くまでの釧路駅近くの街並みに、廃墟としか思えないホテルがあった。その青と白のセーラーカラーの横縞が鮮やかな窓の日除けが、妙に印象深いビルに近づいてみると、そこは実際に廃墟だった。壊れた内装が外からも見える。おそらくコロナ規制の被害者だろう。コロナ以前は、観光客で繁盛していた姿が見えてくる。そのまま、昼でも人通りのない道をさらに歩くと、ひなびたビルの一階に和商市場の入口はあった。ちょっと通りかかっただけではわからない、小さな入口だった。しかし、市場というだけあって、建物内には魚屋が沢山並んでいる。その中には数軒のレストランがあり、そこでは刺身を除いたどんぶり飯やおかずを売っている。勝手丼では、そうしたレストランでどんぶり飯を購入し、その後適当な魚屋で刺身を選んで載せていくスタイルになっている。複数の魚屋から別々に買うのも自由だが、やはり一軒でまとめてどんぶりに載せてもらうほうが楽だ。
私たちはどんぶり飯を買った店近くの魚屋で、次々と刺身を載せていった。私は、いつも通りにマグロ赤身、イカ、タコ、イワシ、卵焼きなどの安ネタに、オホーツクらしいオヒョウなどの白身を載せた。家内は、これまたいつも通りに、北海シマエビ、ボタンエビ、ウニ、いくら、中トロ、北寄貝などの高級ネタを載せていく。これで我が家の家計はバランスが取れている。そしてお互いに好きなものなので、ともに不満はない。店員にビールがないかと聞くと、近くのレストラン(というよりラーメン屋)で売っているが、そこの近くでしか飲めないと、親切に教えてくれた。
生ビールを二つ買って飲む。近くの看板に「飲酒はこの付近でのみお願いします」云々という貼り紙がある。たぶん、コロナの関係だろう。もうコロナ規制はとっくに終わっているが、三年という長期にわたって厳しい規制が実施され、しかも飲酒行為がコロナの感染源であるかのように喧伝した「魔女狩り」や「スケープゴート」があったため、このような形として未だに残っているのだろう。酒飲みである私は、「逆にアルコール消毒になって良いんじゃない?」と嘘吹きながら、昼のビールジョッキをすぐに飲み干した。雨が上がり、温度が上がってきた中で飲むビールが旨い。なによりも、ビールを思い切り飲む解放感が最高に好きだ。やはり、何があっても、何が起きても、100年前のアメリカであった禁酒法のような悪法は、二度と実施してはいけないのだ、と心の中で叫んでいる。
家内が自宅に宅急便で送る鮮魚を求めに行ったので、その間、手持無沙汰でもあるので、私は同じ店で今度は缶ビールを買い、タラのフライをつまみにした。「タルタルソースありますか?」と場違いなことを聞いた私は、実に変な奴だったが、店の人は「醤油かソースがあります」とまじめに答えてくれたので、「日本のソース好きです」と、まるで外国人のように答えてしまった。・・・確かに、日本のウスターソースや中濃ソースは旨いし、外国にはない。特に千切りキャベツにかけると、良い酒の肴になる。
ちょうどビールを飲み干したころに家内が戻ってきたので、また釧路駅に向かう。今晩の宿泊場所である川島温泉駅に釧網線のノロッコ号に乗って列車で移動する。
私たちと同じ観光客の、中国人グループ、韓国人グループ、年配女性のグループ、一人旅の老人などが乗っている。列車からは釧路湿原がよく見える。すると、ゆったりと流れる釧路川を、カヌーが数人の人を乗せて下ってきた。そして、カヌーからほど近い岸辺に、一頭に鹿が草を食べている。カヌーが近づいても鹿は逃げない。どうも人馴れしているようだ。ノロッコ号の観光客たちは、鹿が見られたことに喜んで、写真を撮りまくっていた。
列車は、川島温泉駅に着いた。無人の寂しい駅である。駅前からはいかにも火山という形体の山が大きく見える。また、近くの台形の山は、映画『未知との遭遇』に出てくる山に形が似ているので、もしかするとUFOの基地ではないかと思った。
駅前で待つ阿寒バスに乗る。室内にハチとアブが数匹いた。運転手は手慣れたもので、ハエたたきを叩きつけずに窓に押さえつけるようにして、ハチやアブを殺していく。次の列車が駅に到着して、乗客が乗りこんできた。そして、バスは発車した。これが時刻表なのだった。ここの時間はゆっくりと進む。
バスは、白樺林に囲まれた道を進んでいく。ちょっと観光バスに乗った気分だ。そして、ほとんどのバス停を通過していく。乗り降りする人はまずいないから、進むのが早い。乗客がいない場合でも、空で往復しているのだろう。そして、運転手はバスの運転が好きなのに違いない。終点の大鵬記念館に着く。有名な高度成長期の大横綱大鵬は、ここ弟子屈(てしかが)町の出身ということで記念館を作ったそうだ。期待していなかったが、大鵬ゆかりの品々だけでなく、高度経済成長期の相撲界を振り返るような展示になっていて、なかなか興味深かった。大鵬のことをあまり知らない家内は、ハンサムだったことに驚いていた。もちろん、「巨人、大鵬、卵焼き」は知っていたが。ところで、反対言葉の「阪神、清国」の次が出てこない。私は「しめ鯖」とか「谷中生姜」とか「ポテトサラダ」を思いつくのだが、いったい何が正解なのだろう。
宿は、大鵬記念館から歩いて3分ほどのところにある。途中の道端に咲く花々が美しい。宿には、先客の韓国人グループがチェックインした後だったらしく、ロビーでたむろしている。私たちもチェックインして、早速浴衣に着替えて温泉に向かう。韓国人グループより前に、日本人の団体客が宿泊しているようで、(ウィークデーに旅行する関係で)いつもは貸し切り状態が多い温泉に、数人の客がいた。しかし、乳白色のいかにも「火山からの温泉です」というような熱い湯が、とても心地良い。熱い露天風呂に続いて、室内の低温の湯船にじっくりと浸かっていると、私の痛む腰や指に効いてくるのがわかる。特に指は、一時的に痛みが取れ、自由に曲がるようになっている。これは驚きだ。もしも毎日この温泉に浸かれば、私の腰も指も治るのになあと想像する。
その後部屋でいつもの食前酒を、家内が予め買っていた缶ビールで味わう。ちょうどTVで相撲中継がやっている。その後、ホテルのレストランでセットされた夕食と、ビールに地元の日本酒を飲む。夕食は、食事というよりも酒のつまみだ。適度に酔った後、また温泉に入る。夜空が見える露天風呂がさらに気持ち良い。これこそ、日本で、特に北海道を旅する醍醐味だと思う。湯上りにまた缶ビールを飲んでから、すぐに寝る。さすがに、長距離の移動をした後だけに疲れた。