<閑話休題>地下鉄の駅で思うこと
地下鉄のホームで電車を待っていると、ふと不思議な気分になることがある。それは、海外でずっと生活していて、たまに日本に帰ってきたときに感じた気分だ。またそれは、東京から地方に旅した後に帰ってきた気分と同じように思えるかも知れないが、かなり違っている。
海外で生活しているときは、電車やバスをよく使っていた。もちろん海外だから、東京で地下鉄を待つのとは雰囲気も環境も違うし、第一に言葉や利用方法が違う。東京から地方に旅しても、これほどの違いはないし、日本語が使えるという安心感がある。そうした中でいつも感じていたのは、「他所(よそ)にいる」という気分だ。この「他所」というのは、自分がたまたまそこにいるだけで、もしかすると明日はいないかも知れない。いや、来年の今頃は確実にいないのが決まっている。この景色や雰囲気は、今は毎日繰り返して見ているけど、短い期間で終わってしまうという感覚だった。
そして、たまに日本に帰ってきて地下鉄に乗るとき、「(自分がいつもいるはずの場所に戻っているから)何も心配しないで済むところにいる」という気分になっている。そこには不安はないし、安心感は多い。しかし、その次には、「こうした気分はあと数日で終わり、また海外での緊張した生活に戻るのだ」という意識が、すぐに表面に顔を出していた。これを別のことに例えれば、楽しい旅行をしているが、でも明日には家に帰らなければならない、というときの気持ちに近いのかも知れない。これは日常と非日常の違いとも言える。
では、日本の生活を日常とすれば、海外生活は非日常であったかと言えば、短期間の旅行ではなく数年滞在しているから、日本での生活と同様に、日常そのものだった。つまり、ふたつの日常(世界)があったという感覚に近い。そういう生活を約40年間やっていたからかも知れないが、未だに地下鉄の駅で電車を待っているとき突然に、「あと数日で、東京でこうやって電車を待つのも終わりかな」という気分になることがある。しかし、すぐに「ああ、もうこの光景を切り替えることはないから、このままずっとこうして地下鉄を使う日々になるんだ」と気づき、「安心」と「終わり」という、ふたつの気持ちが入り交ざった感覚を持って、地下鉄に乗り込んで空いている座席を探している(足と腰が痛くて、長時間立っていられないのだ)。
もしも、海外生活を全くしないで、子供のころからずっと何も感じないで地下鉄を使っていた場合の気分は、どうなっているだろう。今の海外生活を経て感じた気分と同じだろうか。そういうことを想像してみると、かなり違っていると思う。そもそも、あまりにも日常すぎて、地下鉄に乗ること自体に何か感じることはないと思う。また、今は海外生活をしていないという理由で、いきなり海外生活をする前の気分に戻ることはない(年齢が若返らないのと同じだ)。もちろん、海外生活をしていた時の気分に戻ることもないし、戻れるわけでもない(時間は決して逆戻りしない)。そういうわけで、何かどっちつかずの奇妙な気分になっている。
これを経験・年輪というのか、または苦労・傷跡というのか。そんな答えが見つかるころには、この世からおさらばしているのだろう。「あばよっ!」と(『椿三十郎』の三船敏郎みたいにカッコつけて)言いながら。
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