<書評>『Animal Farm (動物農場)』
『Animal Farm (動物農場)』George Orwell ジョージ・オウウェル著 1945年初版 読んだものは、1987年のPenguin books(ペンギンブックス) 日本では、翻訳が多数出版されている。
誰もが知っているスターリン批判となった、英国作家オウウェルの『動物農場』。動物たちが、農場主に反乱を起こし、動物による「Beasts of England (イングランドの動物たち)」として自治を始める。そして、互いに文字を学習し、餌となる穀類などの農作業を分担して行う。リーダーとなるのは、二頭に豚で、名前は「ナポレオン」と「スノーボール」。彼らの自治及び他の動物たちに対するプロパガンダに対して、元の農場主ジョーンズ及びイングランド中の農場主が危機感を感じ、共同で反撃してくるが、動物たちの共同戦線によって撃退される。
その後、ナポレオンがライバルであるスノーボールを追い出す(スターリンによる粛清の比喩)ことで、独裁化を推し進め、自分たち豚一族が王侯貴族の生活をし、その他の動物たちには、「仲間」「同志」と称しながら、少ない食料による苛酷な労働を課していく。また、設立当初の自分たちで決めた戒律をどんどん形骸化していき、豚たちの貴族化を多方面で進める一方、他の動物たちをますます苛酷な農奴にしていく。それに対して、反対するものは文字通りの番犬たちに威嚇される恐怖政治を進めて行く。そして、ナポレオンは、人間たちが経営する農産物会社や他の農場との経済関係を強化していった末に、豚たちは二足歩行し、ベッドで休み、衣服を着て、ビールを飲み交わし、人間たちとトランプをやるまでになった。
この最後の場面で、人間たちとトランプのいかさまについて口論する豚たちの姿が、人が豚か、豚が人か、建物の外から見ている農奴化された動物たちには、見分けがつかなかった、とオウウェルは書いて物語を終えている。
この最後の場面について、私はどう理解すべきかをずっと考えている。一つの解釈は、ナポレオンたちが、当初は反対していた人間の生活に変化(進化)したという見方だ。それは、共産主義革命を果たしたソ連が資本主義、しかも独裁者による資本主義に戻っていることを象徴していると見ることができる。
もう一つの解釈は、ナポレオンたち豚と見分けがつかなくなった人間たちを、文字通りの豚のような動物であると批判する見方だ。当初は、動物農場をつぶすことに尽力していた人間たちは、それが簡単ではないとわかるやいなや、資本主義のパートナーとして扱うようになる。それも、騙すことが容易な商売相手としてだ。そこから想像できるのは、動物農場は、早晩悪賢い人間たちに再び吸収されるということだ。しかしその場合、農奴化した動物たちには、人間に支配されるとはいえ、ナポレオンの独裁政治よりは良い暮らしができることになる。
私は、オウウェルとしては、この二つの意味を込めてこの結末を書いたのだと思う。そして、私が最後に想像したナポレオンの没落まで書かなかったのは、現実のソ連が国家としてしぶとく生き残るという見込み(実際、現在までそれは実現している)から、敢えてそうしたのかも知れない。むしろ、ナポレオンが生き続けることで、ソ連の独裁体制をより批判しようとしたのかも知れない。
しかし、この作品が単なるスターリン批判またはソ連批判で終わっていたら、名作とはならかったと私は考える。やはり、二つ目のもの、つまり資本家たちは豚のような動物のレベルにあるという社会経済批判をしたかったのではないだろうか。人間であろうと豚であろうと、資本家たちがやっている商売は、独裁政治下にある農奴を作りだすことでしかない。そして、農奴化された民衆は、羊や鶏のように、大人しく独裁者に従っているだけであると、オウウェルは主張したかったのではないかと、私は理解している。
この思いを強くさせるエピソードがある。ナポレオンの独裁に盲目的に追従し、必死に休まず働き続け、戦争ではなんども勇猛に戦った一匹の農耕馬は、老いさらばれて労働ができなくなった後、「功労者を慰労し治療する」というナポレオンによる偽の名目で屠畜業者に売られた、強靭な農耕馬であったボクサーの、はかなく純粋なエピソードであった。これは共産主義独裁政治下のみならず、人が人を支配する社会では、いつでもどこでも起きていることではないだろうか。そしてなによりも、我が身をボクサーに置き換えてしまうのは、私だけの偏見ではないと思う。そう、「ボクサーは私だ!」。
<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、短編小説集です。オウウェルと比べることはできませんが、別の世界を味わえると思います。>