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<閑話休題>はじめて買ったレコード(CD)

(noteのお題は「はじめて買ったCD」となっていますが、もう還暦を過ぎた世代としては、CDよりもレコードにより深い思い出があるので、CDをレコードに読み替えて、書かせていただきます。)

高校2年生のある土曜日、当時は午前中で授業が終わるので、部活をやっていなかった僕は、家路に向かう途中で山手線を秋葉原で下車する。目的地に近づいたことは、毒掃丸のお腹が痛くなる強烈な臭いですぐに分かった。当時、石丸電気のレコード館は、毒掃丸を作っていた会社の隣にあった。

記憶違いがあるかも知れない。当時の石丸電気レコード館は、縦に細長いビルになっていて、レコードを買う客が多い順に1階から上層階へと分野が分かれていた。1階は歌謡曲、2階はロックなどの洋楽、3階はジャズで、僕がいつも行くのは4階のクラシックだった。

レコード館の入口付近には、当時人気の歌謡曲の歌手のポスターが所狭しと、息苦しくなるように貼られていた。さらに、当時のヒット曲が大音量で流れている。僕はそうしたものを、見ないように、聞かないようにして、奥のエスカレーターに向かう。

エスカレーターに乗った後も、さらに上の階に行くためには、階ごとにいったん降りてその階の売り場を通り抜けねばならない。1階の歌謡曲の洪水をかき分けてから、2階でロックの大音量に耐えた後は、3階のジャズの音に少し安心した気持ちになる。そのうち、ここでレコードを買ってもいいなという気持ちにすらなる。

そうして、視覚と聴覚を直撃する数々の障害を乗り越え、毒掃丸の臭いによるお腹の痛みにも堪え、まるで薄汚れて騒々しい下界から静かで清らかな天上の世界へ向かうような気分で、僕はエスカレーターを昇っていく。

漸く辿り着いたクラシックのフロアーは、確かに世界が変わっていた。空気がそれまでのものとは明らかに違う。静謐で、フロアーに流れる音楽は、その平和な世界を壊すこともなく流れている。もちろん、演奏家のポスターはどれも控えめだ。決して華美なデザインや人を驚かすような色彩はない。

レコードを探す人達の服装もきちんとしている人が多い。それに、子供や若者の姿がほとんどない。年齢層が高いので、高校生の僕が一番年下としてその場にいさせてもらっている気分になる。

やっと気分が落ち着ける世界に辿りついた僕は、一呼吸してからフロアーの中に入る。そこにあるレコードの棚からは、交響曲、協奏曲、オペラ、歌曲と分野毎に分かれていることを示す札や、また作曲家や演奏家毎に分かれていることを示す札が見える。

僕はその飛び出ている札を横目で見ながら、フロアー内の棚の間をゆっくりと移動する。まるで、レコードの薄い背表紙を見るだけで、その音楽が聞こえてくるような気持になって(いや、たしかに僕の耳にはその音楽が響いていたと思う)、棚から棚へとのんびりと彷徨って行く。

そのときには、もう毒掃丸の臭いによるお腹の痛みはとっくに消えている。いつの間にか、自分が一番好きで最高に安らげる世界に浸っている幸福感が、身体中に染み入ってきて、頭からつま先まで一杯に満たされていることを感じる。

だから、目当てのレコードをすぐに探す必要はなかった。時間はたっぷりとある。また、使える金額も2,000円程度と決まっていたので、買えるLPレコードは、廉価版でも1枚から2枚までだ。そのため、買うことを予定しているレコードが、「ここにある」と分かっていても、その棚はわざと後回しにやり過ごして、「探す時間」をわざと引き延ばしてもいた。むしろ「探す時間」が、無限に続いていて欲しいくらいだった。それくらい、僕にとって幸せな時間だったのだ。

そうして、その幸福な時間をたっぷりと満足するまで味わったら、もう既にわかっている目当てのレコードがある棚に向かう。そこでは、異なる演奏者の同じ曲のレコードを1枚ずつ手に取り、ジャケットの写真を見て説明書きを読む。もちろんその間にも、その曲は僕の頭の中で繰り返し演奏されている。違うレコードを手に取る度に、説明書きによって少し演奏が違っているように聞こえるのは、錯覚だったかも知れない。なぜなら、まだ聴いたことがない演奏者のものだからだ。

そんなことをしばし繰り返した後、「これだ!」という声が、お腹の辺りから頭の中に届いてくる。そう決まる理由は、実はジャケットの視覚による印象が多いようだったが、当時の僕は直感によるものだと信じていた。

ナタン・ミルシュティンという有名なバイオリニストが演奏した、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲とチャイコフスキーのバイオリン協奏曲の入ったレコードを、僕は最終的に選んでいた。今もそうだが、チャイコフスキーのものより、メンデルスゾーンの方が好きだ。

そのフロアーの奥にある会計で、いそいそと支払いを済まして、今度はエスカレーターではなく階段を下に降りていく。昇ってくるときとは逆に、静謐な世界から、ジャズの官能的な世界に降り、ロックの荒々しいぎすぎすした世界を過ぎ、最後に憂き世の嫌なことが全て凝縮された下界に降りていく。そこはまた、あの強烈な毒掃丸の臭いが充満している世界でもあった。

僕は毒掃丸の臭いから逃げるように秋葉原の駅に向かい、総武線に乗り込む。東京の下町の貧乏な借家という、絵に描いたような下層階級の世界に戻った僕は、隣の町工場にかかる、日が暮れかかっている雲をガラス窓から見る。そこには青空なんてなくて、ただ無常で夢も希望もない灰色の空が広がっているだけだった。

買ってきたレコードをジャケットから出して、我が家の最も高価な家財であるステレオにかける。古く、狭く、粗末な部屋の中に、まったく場違いなくらいな音楽が流れ出ていく。その19世紀の天才が作りあげた極上の音楽の調べが、薄汚れた畳、黄ばんだ壁、破れた穴が目立つ障子の間を流れ、ひとつひとつを浄化していくように通り過ぎていく。

そのとき、その半径2m四方の小さな宇宙は、近世ヨーロッパの王侯貴族が居住した深い森に囲まれた城(シャトー)に、一瞬だけ変わっていた。まるで、アンデルセンの描いた「マッチ売りの少女」が擦ったマッチの小さな炎のように。

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