<書評>『バレエ 形式と象徴』
『バレエ 形式と象徴(原題の直訳は「バレエ 形式と本質 現代ヨーロッパのダンスにおける象徴的な言語」) Ballett—Gestalt und Wesen Die Symbolsprache im europaeischen Schautanz der Neuzeit.』 ゲルハルト・ツァハリアス Gerhard Zachaias著 渡辺鴻訳 美術出版社1965年 原著は1962年 Koln(ケルン、ドイツ)
冒頭にある、著者による「はしがき」と「序章」及び訳者による「序章補論」にあるとおり、著者はユング心理学の研究者であり、これまで本格的なバレエ論(いわゆるクラシックバレエを対象にしており、大衆的なダンスは対象にしていない)として、ユングの提唱した集合的無意識や(神話的)元型という概念・用語を援用して論述したもの。
そのため、訳者は原題の直訳ではなく、内容に沿うものとして「形式と象徴」という副題に変更しており、ここにおける「形式」から変えた「象徴」の意味は、ユング心理学における(神話的な)「象徴」である。
例えばカール・ケレーニイの『迷宮と神話』の中には、ギリシアの「鶴の踊り」という、迷宮の図形の中心部に向かった後、今度は逆行して外に戻る舞踊が紹介されているが、これは冥界行きとそこからの再生=復活を象徴していると説明している。そして、ここにおける「踊り」という行為が、本書で論述されている「バレエの形式と象徴」につながるもののひとつである。
著者は、こうした神話的な事例の他、バレエの基本姿勢であるパ(フランス語で「歩」の意)やまた二人で踊るパ・ドゥ・ドゥ(真ん中のドゥは前置詞で、最後のドゥは数字の2の意味)などの各種パターンを紹介した後で、ユング心理学を屈指した、神話的・象徴的な解釈をしている。そうした著者の結論は、バレエは、ポーズや旋回や跳躍する動きによって、ミクロコスモスとしての人体が宇宙・世界としてのマクロコスモスを取り込み、全体で神話的な「世界」を表現しているとしている。
そうした結論に至る過程で、私が注目した箇所を以下に抜粋する。この抜粋を読むだけで、上記の著者の言わんとしていることが理解できると思われる。なお、抜粋した文章だけでは理解しづらい部分については、(注)を付けておいた。
P.69
ミクロコスモスとしての人間を美しく描き、これまでの伝統に従って、音楽的象徴と天文学的象徴を結び付けている。
ダンスはもともと宇宙のダンスの一部分であると考えられてきたのである。
ダンテの『神曲』は、この宇宙のダンスで、世界に満ちあふれた神の愛をたかく歌い上げている。
P.88
大バレリーナたちが巻き起こすあの測りしれない魅力は、彼女たちが、原型的なイメージとして、集団的無意識と呼応するという事実からのみ説明することができる。
バレリーナの礼拝には、女性的なものの秘儀の明暗両面が再現されているのである。
P.93
16世紀の錬金術の論文の写本に描かれた図は、パ・ドゥ・ドゥ特有の、あのバレリーナを高く差し上げるアクションに驚くほどよく類似している。宇宙の原型である卵の中に――物質のシンボル(龍)と精神のシンボル(鳩)、男性のシンボル(太陽)と女性のシンボル(月)にとりかこまれて――「身体と霊魂と精神の三つのものがたがいにからみあい、重なりあって、段階をつくっている」。
この身体と霊魂と精神とは、ノイマン(注:ジョン・フォン・ノイマン、核爆弾製造に関与した天才数学者だが、心理学にも言及した)の説明に従えば「《大いなる女性》という容器の中で行われる成長と変化のシンボルである」。・・・パ・ドゥ・ドゥでバレリーナを高くさしあげるとき、支え手としてのバレリーナは霊魂を支える身体を表し、さしあげられたバレリーナは身体によって支えられ、この身体を変化させる霊魂を表す。・・・バレリーナは明らかに《世界精神》を象徴し、また自ら変化する性格を表すのである」。
P.114
マンダラや(注:バレエの基本となる姿勢の)十字形は平面的な全体性をシンボライズするものであり、球体や立方体は、空間的な全体性をシンボライズするものである。錬金術者がつかう円い賢者の石やメッカのカーバ(注:同神殿にある隕石由来と思われれる黒い石)のような例は、無数にみることができるであろう。ダンス・アカデミックは、平面的な面からも空間的な面からも、完全さと全体性を表すのである。
P.152
(バレエの)回転には、内向き(アン・ドゥダン)の回転と外向き(アン・ドゥオール)の回転がある・・・クレタをはじめその他各地でつかわれている迷路のモチーフの中に、この内向きの渦巻きと外向きの渦巻きの象徴的イメージを発見することができる。・・・ケレニー(注:ユング派の神話学者カール・ケレーニイ)は、その『迷路のエチュード』(注:『迷宮と神話』)の中で、(注:「鶴の踊り」の)内向きの渦巻き運動を死の表現と考え、これに対して外向きの渦巻き運動を(中心から死でよみがえったものとしての)新しい生命の表現であると強く主張している。それはダンス・アカデミックの二つの回転方向にひそむ象徴性を示すものである。それは死と再生の神秘をあつかっているのだ。
P.160
それは、世俗的なものを聖なる方向に後退させるのではなく、聖なるものを世俗化すること、つまり宇宙的な肉体化のプロセスという意味において、秘儀を前進させ《世俗化》することによってのみ、聖と俗との裂け目が超えられることを示している。
ところで、本書はクラシックダンスの歴史を紹介するものではないが、それでも歴史的な面に触れた箇所が多くある。その中で面白かったのは、19世紀初頭にヨーロッパで、現在の「売れっ子」芸能人以上に文字通りのスター的存在であった二人のバレリーナ、マリー・タリオーニ(イタリア人)とファニー・エルスラー(オーストリア人)に言及した箇所だ。
タリオーニは、最初にトゥー(つま先)で立って踊ることを始めた女性で、神話的物語を演じるのを得意とした。一方のエルスラーは、ダンスだけでなく女優的な演技にも長けた女性で、様々なキャラクターを演じてみせたという。
彼女たちを描いた絵が本書に掲載されていたので参考のために引用するが、おそらく実物を美化しているとは言え、絶大かつ神がかり的な人気を誇ったことが自ずとうかがえる強いインパクトを感じる。この美しさのイメージは、現代の「アイドル」とは比較にならないくらいの強さを持っていたと思う。
最後に、私はバレエを見ていて思うのだが、日本の歌舞伎に似ていると感じている。それは、歌舞伎が「型」という伝統を代々受け継いだ芸能であり、この「型」を伝統に従って守りつつ、当代の役者自身の個性を加味しつつ演じている。バレエも、本書で説明されているとおりパという基本となる「型」があり、これらを忠実に守りながら、バレリーナ独自の個性を加味して演じている。
従って、バレエ鑑賞の基本は、バレリーナがパをきちんと演じているかであり、次がそうした基本を維持しつつ自分の個性をどのように演じているかだと思う。また、歌舞伎もバレエも「型」をすっきりと美しく演じる姿にもっとも快感を得るのだが、これをわかりやすく言えば「水戸黄門」で最後に印籠が出てくることや、「遠山の金さん」で最後に入れ墨を見せるのと同様に、「決まったことをその通りに実行する心地よさ」であると思っている。もちろん、バレエの踊りの節目に、「いよっ!千両役者!」なんてかけ声は出てこないが。
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