<閑話休題>7月最後の日の思い出
既に書いたかも知れないが、年寄りなので、同じ話を繰り返したい。ただし、少しはバージョンが異なっているので、飽きないと自負しているが。
子供時代、7月31日はちょっと達成感のある日になっていた。東京ではだいたい7月20日に一学期の終業式があって、翌日から8月31日までが夏休みになる。夏休みといっても、宿題として一冊の問題集を渡された他、ノルマとしてのラジオ体操やプール教室があって、けっこう自由な時間が制限されていた。私は、何よりも自由を満喫したかったので、ラジオ体操やプール教室は、学校から指定された最低日数(回数)しか参加しなかった。
それがだいたい10回だったので、7月21日から始めれば、31日にはノルマを達成することになる。もっとも、この時にノルマ達成後も勤勉にプール教室に通った子供たちは、皆その後水泳が上手くなったが、私のような不真面目な奴は水泳が上達せずにいたので、9月に入ってすぐに水泳大会があったときは、公衆の面前で恥をかかされることになった。
もしも、「9月に水泳大会があるから、そのために夏休み中にしっかり練習しておけよ」という明確な指示と展望が教師からあったのなら、私はそのために夏休み中は必死にプール教室に通っただろうが、無能な教師たちはそんなことは微塵も考慮していなかった。子供を馬鹿にしてはいけない。きちんとした日程と目標設定のない行動は、なかなかできるものではない。
それはさておき、夏休みの宿題である問題集は、普通一日1ページやるように設定されていると思う。夏休みが40日とすれば、40ページだ。私は、これを7月中に全部やってしまおうと考えた。これを7月の残り10日でやりきるためには、一日4ページをやれば良いことになる。私は、毎日ラジオ体操やプール教室の強制的なノルマをこなしながら、自宅では問題集の自分に課したノルマをこなしていった。そして、ノルマを早く達成するために、時間を短縮することを思いついた。
それは、白地図と言う線だけが引いてある地図の上に、色鉛筆で項目毎に塗り分ける問題について、塗りつぶす時間を短縮すべく、斜め線を大雑把に引くようにした(毎年、9月に提出するたびに、担任の先生から「楽をしている!」、「雑だ!」と注意された。私は、楽をして、必要最低限の情報に限定して行ったものの、どこが悪いのか理解できなかった)。
こうして問題集を全部やり終えるのが7月31日であった上に、ノルマのラジオ体操とプール教室の最低出席数を達成するのも、同じく7月31日だった。それで、毎年この日は何か達成感を持つ日になっていた。
では、その後の8月の31日間はどうするのかと言えば、我が家は貧乏だったので、旅行といえば、せいぜい山梨の父の実家に2~3日帰省するぐらいで(父の実家ではやることが全くなくて、いつも困っていた。チェンネル数の恐ろしく少ないTVを点けても、高校野球を延々とやっていて、面白くなかった。近所を散策することもなく、ただ家の中でぼーと過ごしていた)、山や海に家族で旅行することは全くなかった。もちろん、都会のテーマパークに行くこともないし、せいぜい夏休みの子供用怪獣映画を、銭湯でもらった割引券を使って、駅前のデパートにある映画館で見るくらいだった。
だから、夏休みのせっかく作った自由な時間は、何もやることがなかった。それなら、宿題を8月末までかけてやるとか、プール教室に通うとかすれば良かったかも知れないが、とにかく学校と学校に関連するもの(そして無能な教師たち)は大嫌いだったので、この選択肢はなかった。近所の遊び仲間も、小学校の友達は皆、それぞれ家族旅行でいなかったりするから、私は基本一人で過ごしていた。それでも、この自由な時間を作ることが、私の毎年の夏休みの目標でもあった。
そうした中で、私が良く行ったのが、近所にあった神社や寺の境内だった。そこには都会(特に東京の下町)には数少ない木々があり、蝉が沢山鳴いていた。私はその蝉を捕まえに朝から出かけた。蝉を捕まえること自体が目的で、虫籠の中の蝉はすぐに死んでしまったが、そこに何も感じていなかった。
母は近所の町工場で仕事をしていたので、昼飯の時は家に帰ってきた。しかし、ご飯支度をする時間なんてないから、大抵は近所の肉屋で売っている安いイカフライ一つにソースをかけて、冷めたご飯を食べていた。それが私には不満でもなんでもなかった。私は、昼飯時にたまたま昼寝していて、ご飯を食べ損ねることもあったが、小学生の私は、基本ベジタリアンでしかも小食だったから、なにも気にしなかった。子供の好きな、ハンバーグとかカレーとかを食べたいとも思わなかった。
残る自由な時間は、仕事のため三日に一回の割合で、家で夕飯を食べる父と、プロ野球の(TVで唯一中継される)巨人戦のナイターを見たり、学校の(唯一好きな場所であった)図書館で借りてきた本や(父が無理して月賦で買ってくれた)子供用百科事典全巻を隅から隅まで読んだり、少年マガジンに掲載されていたトランプカードの歴史などの雑学をノートに書き写していた(けっこう、この書き写した作業の記憶は、その後の私の雑学に役立っている)。
・・・思えば、あれから50年経って、私が今やっていることは、コンピューター(ワープロ)を使っている以外、小学生の頃とあまり変わらないなと感じた。違っているのは、もちろん年齢と身体の衰えだが、それでも知識は、少しは増えたのかなと思うし、社会経験を積んだから、少しは社会の仕組みを理解するようになった。地球を俯瞰するニュースの背景も見えるようになったし、歴史・地理・政治・経済・芸能・スポーツ・芸術などに関する知識は増した。なによりも、知らなかった世の中の仕組みを少しは知りえたので、何かあっても対処方法が出てくるし、不安から動揺することがなくなった。それを何か嬉しいと感じられる、64歳で迎えた今年の7月31日だった。
・・・と、ここで終わりにしようと思ったが、この終わり方は「結局、自慢かよ!」、「なんていう自己中心的な言い方!」、「年寄りは昔のことを語りたがるから、ほんと鬱陶しい」という声が、聞こえてくる気がした。じゃあ、どうやって終われば、そんなことを言われないで済むのかと考えた。しかし、妙案は出てこない。自分は決して恵まれた側ではないし、特別優秀でもなんでもない。さらに、人に自慢するような社会経験をしたとも思っていない。そもそも、生まれは下町の貧乏家庭で、家系図も家柄も学歴も誇るようなことはない。
結論は、万人から認めてもらえるようなものを書くのは無理だということだろう。それなら、少数でも私の書いたものを楽しんでもらえる人がいるのであれば、「それで良し」と言うことなのだと思う。それでも、「お前の書くものを楽しむ奴なんて、誰もいないよ!」とさらに言われるのであれば、私は「はい、そうですか。私は自分のために、自分が読むために書いています」とだけ、答えることにしようと思う。・・・実はこれが、年を取ったことの一番の成果かも知れない。