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<書評>『エッダ』

 『エッダ―古代北欧歌謡集』 谷口幸男訳 1973年初版、読んだのは1980年版。新潮社。翻訳の原書は、”Edda” Edited by V.G.Neckel & H.Kuhn in Heidelberg 1962, “Snorri Sturluson, Edda” Edited by A.Holtsmark & J.Helgason in Stockholm 1950

『エッダ』

 いわゆる「エッダ」の全て(注:「全てのエッダ」というものは現在まで確認されていないが)を翻訳したのではなく、『エッダ(古エッダ)』及び十三世紀のアイスランドの詩人兼政治家のスノリ・ストルルソンの、詩学入門書『エッダ(散文エッダ)』中の第一部にあたる神話大観「ギュルヴィたぶらかし」のみを翻訳している。なお、「エッダ」は、十三世紀のストルルソンによる古詩を引用した『(スノリの)エッダ』のみが知られていたが、十七世紀に写本Codex Regius(王の写本)が発見され、これが『古エッダ』、つまり「エッダ」の原典として認識されることとなった。

 一方、ゲルマン神話は、キリスト教布教によって、まとまった文献として残されているものがないため、その全体像を把握することが困難となっている。そのため、北欧に伝わったものとはいえ、「エッダ」に残された内容は、ゲルマン神話を知るための貴重な資料となっている。そして、現在ハリウッド映画などに度々使用されている、神々・英雄たちの一人である「ソー」は、この「エッダ」に出てくるトール=ソーンのことである。

 ところで、『古エッダ』は、多くの細切れの詩によって構成されているが、当時の詩法としての、単語の言い換えや神や英雄の名の言い換えが頻繁にあり、またはっきりとしたストーリーがないため、まとまった意味を掴むのが難しい。一方、『スノリのエッダ』は、スノリが優れた文学者であった上に、特にここに翻訳された「ギュルヴィたぶらかし」は、全体がよくまとめられており、これだけで「エッダ」の世界のみならず、ゲルマン神話全体を把握できる良い資料である。

 そうした読み辛さはあったものの、『古エッダ』にある「オーディンの箴言」はなかなか面白い内容であり、また、ヨーロッパ及び北欧という酷寒の世界を背景にしているが、その箴言(忠告)には今でも通用するものが多々ある(人の世はあまり変わらない)ので、その中からいくつかを紹介したい。なお、参考までに、語尾に( )で私の感想を付記した。

「(他人の家の)中にはいる前に、すべてのドアに気をくばっておけ。ふりかえって注意しておけ。敵がどの席に坐っているか知れないから。」(まるでゴルゴ13のような用心深さ!)

「膝を凍えさせてやってきた人には火が必要だ。山を越えてきた人には食物と衣服が必要だ。」(酷寒の地ならではの、親切とおもてなし)

「(旅に)もって出かけるのに、すぐれた分別にまさる荷物はない。これは、見知らぬ国では、財産より役に立つように思う。これは、みじめな者を守る鎧だ。」(今でも通じる謙遜の心)

「人の子にとって、麦酒は、そういわれるほどよいものではない。たくさん飲めばそれだけ性根を失うものだから。」(麦酒=ビールが、どれほど飲まれていたのだろう)

「酒杯を手にもったきりにするな。蜜酒はほどほどに飲め。必要なことだけしゃべるか、そうでなかったら、口をつぐんでおけ。お前が早く床についても、誰もお前のことを無作法だと思う者はいない。」(今でも通じる処世術)

「性根のまがった哀れな男は、手当たり次第に何でも罵る。自分にも欠けた点がないわけではないのを、知ればいいのに、それには気がつかない。」(私も、こうした人たちを沢山見てきたし、またその被害にあってきた)

「野に出たら、武器のあるところから一歩もはなれるな。いつなんどき、外で、槍の必要が起こるかもわからないから。」(当時も今も、家の外は戦場だと思う)

「小さな海には小さな砂浜しかない。人の分別とてわずかなものだ。だから、すべての人間は同じように賢くはならず、人間はあらゆる点で至らぬものなのだ。」(私の悪い点は、人を過大評価し、期待してしまうこと。世の中に賢い人はわずかしかいないと知ったのは、つい最近だった)

「たとえ飛び切り上等の服を着ていなくても、体を洗い潔め、十分腹ごしらえしたうえで、民会に行くべきだ。靴やズボンを誰も恥ずかしがるな。良馬でなくとも馬を恥ずかしがるな。」(私のような貧乏な生まれの者には、とても励みになる良い言葉だ)

「財産は滅び、身内の者は死にたえ、自分もやがては死ぬ。だが、決して滅びぬものをわしは一つ知っている。死者すべてをめぐって取沙汰される評判だ。」(「虎は死んで皮を残し、人は死んで名を残す」というのが、東洋にある)

「愚か者は財産か女の愛を手にいれると、鼻高々となり、増長するが、分別はましはしない。」(逆に分別がなくなる例を知っている)

 それから、「フン戦争の歌 またはフレズの歌」は、五世紀前半に実際にあった、フン族のアッティラがゲルマンを侵略したときの物語をビジュアルに描いており、これは歴史的に良い資料だと思う。そして、中央アジアから押し寄せてきたアッティラの記憶は、ヨーロッパ人にとって決して忘れることのできない事件だったことが良くわかる。フン族の西進及びアッティラについては、日本の世界史で触れることは少ないように思うが、もっと関心をもって取り上げても良いのではないか(それはまた、第一次世界大戦についても言える。この人類史上初の世界規模の大戦争と、近代兵器によって多くの兵士が死傷しただけでなく、それ以前には想像できなかった身体に過度の損傷を受けた戦いであったことを、もっと歴史で取り扱うべきではないか)。

 ところで、この「エッダ」の世界は、たしかに映画や音楽に援用するには最適かつ豊富な内容を持っているので、これまで多くの作品が生み出されてきたのは、自然なことだと思うし、これからも続いていくだろう。つまり、オーディン、トール(ソーン)、ロキ、ワルキューレらが登場する物語は、絶えることなく作られていくことだろう。そうして、『スター・ウォーズ』のキャラクターのようになっていくのではないだろうか。

 一方、私がこうした古典を読む目的でもある、短編小説のネタになるかと言われれば、それは残念ながらなかった。また、神話・伝説研究としての地球外生命体との接触の痕跡を読み取ることも難しかった。たしかに、神々の彼岸の住処であるヴァルハラは、地球外生命体のいるUFOだと推測することも可能だが、これまで多くの映画作品などで一種の手垢が付いてしまっているため、そうしたイメージが湧いてこない。すでに「エッダ」の世界は、古代ゲルマンから現代の娯楽の中へ移ってしまったようだ(おそらく、こうやって神話や伝説は死に絶えていくのかも知れない)。


<私がアマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、前衛的な散文詩及び短編小説集です。よろしくお願いします。>


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