<短編小説>冬の夕陽
冬の良く晴れた日の午後だった。東京の北の街を散策しているうちに、坂道の上に辿り着いた。ちょうど西側を向いているので、富士山が見えるかと思ったが、冬の日が暮れるのは早い。その時には夕焼けが始まっていて、西の空はすぐに赤く染まっていった。「綺麗だな」と見とれているうちに、日没の太陽はずんずんと赤く大きくなっていき、西の空に拡がっていく。その時、半世紀前の中学三年生の冬に見た夕陽と同じだと、私は気づいた。
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「木村は、緒方と三宅と一緒に、午後の授業は出なくてよいから、これから願書をもらいに行きなさい」
担任の若い男の先生から、私はそう言われて、緒方、三宅の友達二人と私立高校受験のための願書をもらいに行くことになった。東京の東の外れにある公立中学校に通っていた私は、緒方に感化されてある私立高校を受験することになったのだが、我が家は貧乏家庭のため、学費の高い私立に進学することには無理があった。それでも、両親が担任の先生と相談し、入学金を借りることができるということで、私は自分勝手な進学先を決めることができたことに、少しばかり後ろめたい気持ちになっていた(その後、父が病気で長期入院して、働き手を失った我が家は生活保護を受けたため、私は新たに授業料の奨学金を受けることになり、卒業後にアルバイトしながら返還することになったのは、無理を通したことの反動だったのだろう)。
私の通っていた公立中学校は、東京の下町にある雑然とした商店街から少し外れたところにあった。私は友達二人とともに、住宅街から商店街を抜けて駅へ向かい、電車を乗り継ぎながら、目的地に向かった。私と緒方は、偏差値の低い高校に絞って受験するため、不合格を想定して複数を受験する必要はなかったから、願書をもらう目的はすぐに終わった。私たちより上昇志向を持った三宅は、難しい高校を複数受験するため、これから多くの駅から駅へと移動しなければならなかった。
担任の先生は、中学生一人を東京のいろんな場所へ願書をもらいに行かせるのは心配だったのだろう、それで方向が同じである私と緒方を一緒にしたことを、私と緒方も承知していた。また、鉄道好きの緒方は、東京の複雑な乗り換えや最短ルートを良く知っていたので、三宅が行きたい場所への案内役も兼ねていた。そういうわけで、私と緒方は、既に自分たちの目的は終わっているとはいえ、すぐに帰ることは考えずに、一校、また一校と、願書をもらう三宅に付き添うように、冬の午後の東京を移動した。
しかし、三宅が受験する高校は、それぞれが近くにあるわけではなく、意外と多くの電車を乗り継ぐことが多かった。、また、願書をもらいに行く高校が最寄り駅から少し歩く場合もあったので、いつの間にか時間はどんどんと過ぎていき、冬の日はすぐに暮れかかってしまった。薄暗くなった街をとぼとぼと歩きながら、私と緒方は家に帰りたくなったので、三宅にそう告げたが、その時三宅は、もっと多くの高校から願書をもらいに行きたいと主張し、私と緒方に暗くなっても付き合ってくれと頼んできた。
だが、中学三年生の私と緒方は、見知らぬ遠い土地であっという間に日が暮れゆく中を、うろうろと歩きまわる気持ちにはなれなかった。また夕方になれば、高校も窓口を締めてしまうからと、私と緒方は三宅を説得して、そこから家に帰ることにした。そんなことを三人で話しながら歩いているときだった、東京の北の街にある坂道を上りきった瞬間、薄暗くなっていく東京の冬の空に、夕陽が赤々と大きく私たちを出迎えた。
目の前に現れた美しい光景を前に、私たち三人は坂道の上で立ち止まった。それまで冬の日の午後の時間を長く共有してきたはずの三人だったが、ただ夕陽を見ているだけで、言葉を交わすことはなかった。そもそも自分たちの受験する高校への憧れや心配などを口にするのは、どこか気恥ずかしかった。また、何よりもこれから待ち構えている多難な人生行路に対する不安が、三人の心を重苦しくしていた。
そして、この日の長時間の移動で実感した広い、とても広い東京の中を、あと二ヶ月もしたら、自分一人の力で生きていくことになる。もう何か困ったことがあっても、中学校からほど近い自宅の誰かに助けを求めることはできない。生まれてからずっと無意味に束縛されていたように感じた両親から、15年経てようやく離れられる自由と引き換えに、今度は自分一人で生きていくことになるのだ。その重さを想像する中学三年生の心からは、言葉が出ることはなかった。
冬の三学期、特に中学三年生の三学期は短い。年が明けた途端、まるで違う世界に入り込んだように、周囲の友達はそわそわしだし、受験勉強の苦しさが顔に表れてくる。それまで当たり前にあった期末試験はなく、授業もかなり短縮された。特に体育の授業は、運動よりも遊びに近いものをやって、中学生に対する教育というよりも、卒業までのわずかな中学校生活を、なるべく楽しませるように考えていたようだった。また、小学校、中学校と同じ地域に住む顔見知りだけに囲まれた狭い世界から、皆それぞれに遠い世界に旅発つ前の、最後の安心できるぬるま湯に浸かっている短い時間でもあった。
そうして、ある友達は進学せずに就職し、ある友達は都立校や私立校など多くの高校を受験した。中学三年生は皆、偏差値と言う人を計る無機質な物差しで、いろんな高校や職業へ振り分けられた。まるで、家畜の優劣を選別するように中学三年生たちは、これからの人生の行き先を、わけもわからないうちに決められていった。自分の意志よりも、はるかに強い力に強制されて生きること。そうした大人社会の暗黙のルールを、最初に経験する儀式でもあったのだ。
そうした中で私たち三人は、私立高校受験の願書をもらいに行った。そして、偶然に坂道の上で美しい夕陽に出会った。目の前に見える大きく赤い夕陽を見て、中学三年生の多感な男子三人は、ただ夕陽を見とれることしか出来なかった。目の前に広がる東京の家並みと、その向こうに見える赤く大きな夕陽は、三人それぞれに待っている、それから先の長い人生がどんなものかを、一瞬だけ見せてくれたのかもしれない。
その一人であった私は、その夕陽があまりにも美しいことに、酷く感動し、なぜこんなにも美しいのかをそれからずっと考え続けることになった。また、同じような美しい夕陽をもう一度見たいと思い続けることになった。しかし、それから半世紀、私は同じ夕陽を見ることはなかった。同じ気持ち―今振り返れば、それは一番多感な時期の「切ない」という感情だったのだろう―が訪れることもなかった。その多感さはまた、私の周囲に見えるもの全てを、美しく見せてくれていた。しかし、そうした多感さを自分の心の奥底に押し込め続けることで、私はどうにか老年を迎えることができた。この耐え抜いた長い時間は、同時に私の心身に決して癒えることのない傷跡も残すことになった。「切なさ」を失った代償は、想像以上に大きかった。
この半世紀という長い時間に、中学三年生の時に見た東京の風景が激しく変わっていったのと平行して、私は想像もしていなかった様々な経験を味わった。もちろん、楽しいことも苦しいことも、嬉しいことも悲しいこともみな沢山あった。たしかなことは、東京がそうであるように、私自身も、私の心も、半世紀前の私ではないことだ。そして、あれからずっとまた見たい、取り戻したいと思い続けた、あの夕陽をとても美しいと思う「切なさ」は、もう絶対に取り戻すことはできないのだということを、冷徹に思い知るために要したのが、この半世紀という長い時間だった。
他にも気づいたことがある。それは、中学三年生の冬の夕陽が特別に綺麗だったのは、私が少年時代と決別した瞬間―「歌の別れ」―だったということだ。だから、あの赤く大きな夕陽から聞こえてきた、古代ギリシャの船乗りが魅了されたセイレーンのような歌声は、二度と聴くことは出来なかったのだ。それは、悲しいこと(歌声を聴けない)だが、また良かった(歌声に狂死しなかった)とも言える。そうすることで、心と身体に多くの傷を負いながら、殺されもせず、死にもせず、私はどうにか五体満足で生き続けられた。
こうして、中学三年生の頃のような美しい歌声は聴こえなくなってしまったが、おそらくこれから先は別の歌声を聴くことになるだろう。それは、「白鳥の歌」という葬別の歌だ。そしてこれこそ、「また見たい」、「取り戻したい」と願い続けてきたものが、別の形になって叶う瞬間なのだろう。
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赤く大きな夕陽が、東京の無機質な高層ビル群に寸断されるようにして、その隙間に縮んで行く。まるで、今生の別れの如くに夕陽は闇の中へ消えていった。たぶん、いやきっと、明日の朝になったら、今度は東から、昨日のことなんか関係ないというような別人の顔をして、赤い太陽は、鮮やかで強い光とともに地上に出てくるのだろう。そこには、中学三年生の切なさも、老年となった諦念も、何もない。そこにあるのは、生まれたての赤ん坊だけが持つことのできる「希望」とか「夢」なのだ。
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