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<芸術一般・閑話休題>第九のコンサートと下町の寿司屋

 12月のある日曜日、江東フィルハーモニー管弦楽団という、年に二回しか定期公演をしない地元のオーケストラがあるが、ベートヴェンの交響曲第9番「合唱付き」を演奏するというので、価格が安い(1,500円)上に全席自由ということもあり、これ幸いと前売り券を買って行くことにした。

パンフレットの表紙

 会場の住吉にあるティアラ江東には、14時開演の40分前という早目の時間帯に到着した。通常クラシック演奏の開場時間は、開演の30分前だから、10分程外で待つかなと思って入口付近を見ると、次々と観客が入っているのが見えた。恐らく、冬場の寒さと観客の圧倒的多数が老人であること、また日本人の慣習で予定時間より早めに到着することを考慮して、主催側が早めに入場させるようにしたようだ。また、私を含めて足腰が悪い人を大勢見かけたので、移動時間に長くかかることも考慮したのだろう。

 こんなことを書くと、まるで老人ホームの慰労会みたいな印象になるかも知れないが、それでも会場に入ると、小学生くらいの子供を連れた家族がちらほらと見えたので、アメリカでよくあるような、クリスマスに開催する地域の人向けのコンサートという、アットホームな雰囲気があった。妙にかしこまったり、熱狂的なファンが騒いだりすることがない、こんなほのぼのとしたコンサートの形は、貴族の応接室で演奏されていたクラシック音楽が、本来持っていたものではないか。

 せっかくの自由席なので、私は一番前の被り付きのところに座ったが、後から来た夫婦連れが、私の隣の席に一旦座った後、なにか嫌なところに座ってしまったという表情をしながら、後ろの席にそわそわと移動していった。私は、少し不自然な感じがしたが、おそらくクラシックコンサートに慣れない人には、最前列は居心地が悪いのかも知れない。しかし、目や耳が良いとはとても言えない私には、(近すぎて、指揮者の動きは良くわからなかったが)オーケストラの人たちの動きや演奏がよくわかって、なかなか楽しいものだった。

最前列の席から

 特に、各楽器によるテーマ(主題)の掛け合いや、最初に始まる楽器から、次々に他の楽器へどうやって移っていくのか、さらに主旋律を奏でる楽器に合わせて、副旋律を担う弦楽器群がどのように伴奏しているのかなど、これまでのコンサートの経験では、遠い席から見ていたため、またレコードなどで演奏だけしか聞いていなかったため、よくわからなかったことがかなり鮮明になった。それは、とても新鮮な喜びであった。なお、TV映像でも、アップによるつなぎで主たる演奏者が誰かはわかるが、やはり全体を見ながら、そして実際に出てくる音を身近に聞くことで、そうした流れが手に取るようにわかったのは、とても嬉しかった。

プログラム

 さて演奏だ。通常交響曲第9番という大作を演奏する場合は、前座としてオペラの序曲などを入れる。今回は、聴衆が庶民的ということを考慮したのだろうが、エルガー『愛の挨拶』、ウェーバー『魔弾の射手』序曲をそれぞれ演奏した。『愛の挨拶』は、ドラマやCMなどに良く使われている短い小曲なので、演奏の内容とかを云々する対象ではないと思うが、コンサートの導入としては、親しみやすい曲なので良かったと思う。つまり、落語で使う「まくら」になっていた。

 次の『魔弾の射手』は、オペラ自体はなかなか演奏されない不人気なものだが、序曲だけは人気になっていて、昔からよく演奏されている(他の例では、オペラ『ウィリアムテル』序曲がその代表だろう)。最初の『愛の挨拶』が軽いものだったので、次の『魔弾の射手』から本格的なコンサートが始まるという感じになって、なかなか力強い演奏振りだった。落語で言えば、「さわり」という感じだろうか。

 そして、メインの第9番である。すでに何回も聞いている有名な曲だから、馴染みのあるメロディーを楽しんだが、毎回聞く度に発見があるように思う。今回は、全体を通して交響曲第5番「運命」とのつながり、というか5番を発展させたのが9番というイメージを感じた。第1楽章の激しい導入部、第2楽章の軍隊が行進するようなリズム(第2ヴァイオリンから始まることを知った)、第3楽章の天上に漂うような調べを経て、第4楽章の冒頭となった。

 ここでは、それまでの楽章で出てきたテーマを、重厚な神の声のような音で次々と否定していくのだが、その否定する役割をチェロが担っていたことを、改めて認識した。チェロの音は、神の声のような荘厳さを持っている(ふと、パブロ・カザルスの名曲『鳥の歌』を思い出した。この鳥とは神と言い換えることができるだろう)。そこに絡んでくる、ヴァイオリンやビオラの音が、とても清々しい。

 そうして、有名な第4楽章のテーマが華々しく打ち上げられた後、長い時間をかけて真理に辿りついたことに、バリトンが厳かに祝言を寿ぐ。これに続く、テノール、ソプラノ、メゾソプラノの唱和、さらに男女混声合唱団の歌声。すべて、ここまで数々の苦難の道を歩んだ(それは、聴力を失った後に蘇ったベートヴェンそのものだけでなく、あなたも、そして私も歩んだ道でもある)後の歓喜を、神からの祝辞を、人の歌う声とオーケストラの演奏が力強く伝え、共に祝うのだ。

 喜びの歌を聴く観客は、自分の歩いてきた人生を振り返り、またこれから待っている人生に思いを馳せる。そして改めて思うのは、目の間のオーケストラと歌い手たちのように、前を向いて、また前に向かって、真剣に一歩一歩進んでいくことだ。そうしてそこに待っているのは、大団円としてのギリシア悲劇のカタルシスに似たフィナーレであった。

指揮者及び歌手たち

 たかが東京下町の江東区のオーケストラの演奏と侮ってはいけない。もちろん、人類の世界遺産であるベートヴェンの音楽が持つ絶対的な素晴らしさがあることは大きな要素だが、その真摯かつオーケストラ自体が楽しんでいることが見える演奏は、私のような素人の観客には十分にその喜び(歓喜)が伝わってくるものだった。私は、そうしたことの全てに感謝して、舞台に拍手を送り続けた。

 さて、ベートヴェンという天上の世界に浸った約1時間後、自宅近くのローカルな寿司屋という現実世界に私は戻った。半月ほど前は、大勢の外国人観光客が来ていたということだったが、この日は普段の馴染み客―つまり、近所の人たち―が、思い思いに週末の宴会を楽しんでいるいつもの姿だった。やはり、この店に外国人観光客が押し寄せている風景は、非日常なものになってしまう。そして、馴染み客で埋まっている風景は、不思議と暖かな気持ちにさせてくれる。

 この店は、特別に上手い店あるいは芸能人が来る有名な店などと、メディアで紹介されることは決してない寿司屋だ。むしろこのような人の姿も少ない下町の片隅で、ひっそりと営んでいる店に、私は江戸時代に始まった寿司屋の原点を見る気がする。寿司はもともと庶民のファストフードだった。それが、いつのまにか高級料理にされてしまったが、その面影は、こうしたローカルな下町の小さな店にしか、もう伺うことはできないと思う。

 そして、高級なネタなどはない寿司屋だから、近所の居酒屋として気軽に宴会に使うことができる。だから私は、お通しに出てきた、自家製ぬか漬けと厚揚げの煮物を美しいと思い、また、芸術的に包丁を入れたもろきゅうを美しいと思った。それに、生ビールのジョッキは氷が付くほど冷してある。冷たいものはより冷たく、暖かいものはより暖かく。これは料理の基本ではないか。

もろきゅう
生ビールとお通し

 私は、隣の人が注文したのを聞いて、下町名物のレバーフライを頼んだ。薄く伸ばした豚レバーに衣をつけて揚げただけの、いかにも安っぽいつまみだが、例えば赤ウィンナーを炒めたもののように、高級店では絶対に出ることはない下町だけの大切なメニューなのだ。こうしたことに、私は大きな価値を感じてしまう下町の人間だから、これを美味しくいただくことができる幸せを味あわせてもらった。

レバーフライ

 ところで、美味いつまみを味わうには、何よりも酒が必要だ。私は、生ビールに続いて、熱燗を頼み、仕上げにレモンサワーを飲んで、宴のフィナーレにした。もちろん支払いは現金だけで、クレジットカードなどは使えないし、paypayなんて初めから問題外だ。現金払いのできない客は「おととい、来やがれ!」だ。でも、何か(領収書ではなく)レシートは欲しいな、と思ってしまう家計簿をつけている私は、やっぱりしがない庶民だと思う。下町の夜空には、絵に描いたような半月が浮かんでいた。北風は冷たかったが、家に着くまで身体は暖かかった。そして、夜空の星々は第4楽章のテーマを奏でるように並んでいた。

運河・橋・高速道路・夜空



<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、音楽を基に構想した短編小説及び散文詩です。>


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