<閑話休題>円環的時間を語るための、ひとつのイメージ(一種の文学的断章)
(スティーヴン・ホーキングの語る虚時間とは、虚数によって表される時間であり、虚数は英語ではimaginary time であり、その説明は、Time measured using imaginary numbers. ⦅虚数によって測られる時間⦆となる。だから虚時間とは、正確には、想像数<または想数>によって、測られる想像時間<または想時間>、カタカナを使えば、イメージ時間となるのだ。つまり、イメージ=想像する力によってのみ、それは感覚され得る。
そして、常に「旅への誘い」による、「長い旅」⦅もちろん、過去の遡る⦆の要素を持っている。)
その時、私は思ったのだ。
還ってきた。円環的時間を思わせるように、還ってきた。17年前の中学3年の時、民放TVの競馬中継。土曜日、午前中だけで学校から家に帰って、昼飯の後からのレースと、それが終わった後の夕焼けの中山競馬場。たぶん、受験勉強から逃げたい僕に、逃げる口実を与えてくれた、レースに比喩化された受験勉強。必死に走る馬たちに自らの姿を投影する。
高校に入った時、失くしたそれらのイメージ。
失くしたイメージの「昔」へ、還りたかった。
例えば、ランボーの「昔の宴」、プルーストの『失われた時を求めて』。
文学は、いつも昔のものを再現しようとする、昔へ還ろうとする。
最初に文学の臭いを嗅いだサローヤンの言葉に再び会う。(プルースト作品の最後の章の題名は、「再び見出された時」である)。
あの時は、
全てが美しかった。街も人も建物も、周囲のものが皆、素晴らしい物語を語っていた。
競馬を中心に、早い一週間が過ぎた。木曜の追切や、土曜にある明日の重賞の予想。全てが意味ある、印象的なドラマの伏線だった。
何を見ても聞いても、感動していた。
TV番組に、歌謡曲に、サイモン&ガーファンクルに、美しい女の子たちに、全て感動していた。
二度と来ない「青春前期」だったのだろうか。
高校に入ってからは、いつもこれを取り返すことを考えていた。でも、もう中学には戻れない。高校だって、やがて卒業しなければならない。いわゆる「大人」にならなければいけない。
僕は「戻ること」を諦めた。それとともに、競馬も見なくなった。
再び競馬を見るようになったのは、大学へ入って、これから4年間の自由が手に入ったと思った後だった。競馬新聞を買ってみると、僕の知っている馬は、全て7歳馬以上だった。――しかし、またその時は、競馬以上に映画に熱中していたのだ。――だから、競馬を見ても、「あの時」とは全く別だと感じた。
昔へ「戻れない」から。前へ進むしかない。『ゴドーを待ちながら』で、ポッツォがラッキーに命令するように、「前進!」と自分に言い聞かせてきた。後へ戻れないなら、前へ行くしかない。そして、前へ行けば、そのうち一周して「昔」のところへ、状況は違っても、「行ける」と信じてきた。
ただひたすら、前へ、前へと、逃げるように小走りで進んでいった。
そして、また会ったのだ。
寺山修司による競馬の楽しみ方と、
サローヤンの「男について」の言葉に。
私は、それらをやっと「確か」にしたのだ。
「戻った」のだ。
(長くはない、たぶん、ちょっとした旅の末に。そしてまた、旅の終わりではなく、途中の、疲れたのでちょっと腰をかけたところかも知れない。気づいたら、そこは墓石だった?⦅山頭火⦆)
これが、ある意味での円環的時間。一人でも生きられる時間。
今、ある。全ての偶然と、偶然でない出来事とを、それぞれに解釈して、
理解して、楽しめるのだ。
「男の中で一番幸福なのは、運命を愉しめる男だ。ある日、運命は汽車に乗ってやってきたりする。男は思い立ったらすぐにやれねばならない。運命と仲の良い友達になるために」(ウィリアム・サローヤン)