<閑話休題>論理とポピュリズム
私が小学校高学年の頃(昭和40年代半ば)、母方の伯父が中古自動車を買ったことを祝って、私を含めた親戚数人で、船橋ヘルスセンター(今はもう無くなっている)に行ったことがある。当時の船橋ヘルスセンターは、レジャーランドとして人気だった場所で、大勢の人が押し寄せて、温泉施設などを楽しんでいた。しかし、私たちは親戚を含めて皆貧乏だったので、ヘルセンターに着いた後は特に温泉に入るでもなく(きっと、入浴料が高かったのだろう)、よくわからないうちに大部屋に入って、カッパ巻だけの寿司を少し食べて帰ることになった。
その少し前、伯父が、江戸時代の大きめの古銭銅貨である天保通宝を車のキーホルダーにしていたのを見せてもらった私は、その天保通宝を欲しくなってねだったところ、伯父はあっさりと私にくれた。私はその天保通宝をしばらく大切にしていたのだが、ところが、その後が問題だった。日頃から軽率なところがある伯父は、私にキーホルダー代わりの古銭を渡した後、車のキーをきちんと保管せずにいたため、気づいたときには車のキーを失くしていたのだ。それで、親戚一同そろって「鍵はどこに落とした?」と大騒ぎになったが、結局見つからなかった。
すると、別の伯父が私に向かって「お前が古銭をねだったから、失くしたんだ。お前の責任だ!」と、小学生の私を一方的になじった。すると、他の親戚も皆揃って「お前が悪い、お前のせいで車の鍵を失くした!」と、私に対して集中砲火を浴びせてきた。しかし、小学生の私は、そんなことを言われてもどうしようもないので、ただ黙っていることしかできなかった。
しかし、いくら小学生の私をつるし挙げても、それで鍵が見つかるわけではないため、親戚の人たちは諦めて、しばらく相談した後に車へ向かった。車の鍵を失くしたのだから、車のドアが開かない上にエンジンもかからないのだから、今なら業者を呼ぶのだろうが、親戚の人たちは、そんなことはせずにドアをこじ開け、さらにダッシュボードを外して、中にある配線をつないでエンジンをかけていた。昔の車は簡単な作りだったので、こんなことができたのだった。
その時の私は、「とりあえず車が動いたから良かったのではないか」と自分で自分を慰めていたが、親戚一同は、その後しばらくの間、何かの機会がある度に「あの時、お前が古銭を取ったから、鍵を失くした!」と繰り返し話題にして、私をなじっていた。私としては、そうした親戚一同からの言葉の暴力に対して、成すすべなく耐えるしかなかった(そして、ずっとそのことをトラウマにしていたので、ある時ついに天保通宝を棄ててしまった)。しかし、後年、私が大学で論理学を学んだとき、この「キーホルダーの古銭を外す」→「キーを失くす」→「古銭をねだった者が失くした原因」という論理は、まったく不自然であることに気が付いた。つまり、車のキーを失くしたのは、ひとえに持ち主の伯父がきちんと管理していなかったからであり、キーホルダーを付けているか否かは、後付けの理屈でしかない。また、百歩譲っても、キーホルダーがあるだけで車のキーの紛失が完全に防止されるわけではない。
要するに、キーホルダーがあることで紛失する確率と、キーホルダーなしで紛失する確率とは、ともに同じ50%である(失くすか失くさないかだけの二者択一)。また、キーホルダーがあることによって確実に紛失が防止できるという保証はどこにもなく、また同時にキーホルダーがないだけの理由で必ず紛失するということもあり得ない。しかし、その時の伯父を含めた親戚一同は、車のキーを失くしたことの原因を、どこかにまた誰かに押し付けないと気がすまなかったため、弱者である小学生の私を安易に血祭りにあげることで、伯父自身の過失と車のキーを失くしたことの失望とを、同時に埋め合わせようとしたのだと思う(つまり、適当なスケープゴート作り)。
ここには、人が陥り易い論理の矛盾がよく表れている。つまり、人は論理的に矛盾があっても、論理的矛盾よりもわかりやすい感情的な因縁を安易に選択する場合が多いのだ。そして、そうした論理的破綻を大勢の人がした場合、それを不当であることに気づくことなく、数の多さをそのまま正義とし続ける。そこには、反省という行為はなく、自分たちの数の多さを根拠にした確信を持つにいたる。さらに、そうした正義を実行する対象となる少数の犠牲者を見つけ、これをひたすら叩くことでより一層の自己満足感を得る。そしてまた、こうしたことを継続することで、自分たちの過失さえも正当化しようとする。
こうした「失敗の責任を弱者の犠牲により代償する」、「より安易な結論を大勢の人が選択する」というのは、まさに衆寓政治の象徴となっていることは、オルテガ(『大衆の反逆』)による指摘を待つまでもなく、歴史が証明している。過度のポピュリズムは、結果的にファシスト政権を生んだように、多数決や大衆の支持というのは常に大きな危険性を持っている。人気があるからというだけで、その人が優れた政治家であることとはつながらない。逆に人気がない政治家が、非常に優れていることもある。本当に世の中を良くしようとするのなら、人気投票のようなものに一喜一憂することは避けるべきなのだ。
やはり選択するべきは、オルテガのように「貴族主義」と批判されようとも、一部の優れた人たちがリーダーとなって、愚かな大衆をけん引していくような、寡頭政体ではないかと思うのだ。
<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、エッセイなどをまとめたものです。宜しくお願いします。>