文章を書くということの難しさ
「毎週 note に何かしら文章を書く」ということを始めて1ヶ月が過ぎた。
今回で6回目の note 。
そのきっかけは「ポッドキャスト『雑々談々』で話すトークテーマについて事前に文章に起こしてから、それを基に議論するようにしよう」という話が出たところから始まった。
始めてみたが、これがなかなか難しい。
文章がまとまらない。
話すときは相手がいる
雑々談々では、一人語りではなくもう一人喋る人がおり、2人でトークするという形をとっている。
当然、事前にトークテーマとそれに紐づく情報や大体の流れを決めておくのだが、相手が興味を示す内容によって、トークの進む方向は変わっていく。
事前に話したいと考えていた内容からかなり逸れていくこともあるが、それを含めて議論を楽しむポッドキャストが雑々談々なので、脱線することを良しとしている。
要するに、人が二人以上存在すると、コントロールすることが難しい反面、話はどんどん前へと進められる。
それはスピーチやプレゼンといった場合でも同様で、聴衆のリアクションを確認できるため、調整しながら話を進めていくことができる。
文章に起こすときは自分一人
しかしながら、今こうして文章を書いているときは、誰からのリアクションも意見ももらうことができない。
孤独だ。
書いては消して、前後の文章を入れ替えて、、結局この文章では何が書きたかったのか?
前に進めていたはずが、いつの間にか横へ、果ては書き出しに戻ってきていたりもする。
結局文章がまとまらず、下書きのまま放置したりしなかったり。
書くことを始めて改めて実感したのだが、文章を書くという行為は一人で行うため、完成させることが非常に難しい。
そのため、仕事として書いた文章に対して、編集者という役割の方々が存在しているという構造も実感を伴って納得ができた。
何かを生み出すときは一人では難しい
所謂「作業」と呼ばれるものは、一人でやっても変わらない。むしろ一人の方が効率が良いことが多い。
ただ、成果物として何かを生み出すためには、一人よりも複数人と協力した方が効率が良いし、より良いものができる。
今回の「文章を書く」ということを掘り下げるまでもなく自明であろう。
それは単なる雑談でもそう。
試しに独り言を続けてみて欲しい。かなり難しいはずだ。
・・・
私は一人でいることが好きだ。
それは他人と比べ、何かを生み出す量が少ないということを意味するのだろうか。
それは違うと思いたい。
何かを形にするときには一人では難しいが、その何かについて考えていくとき、一人ひとりが孤独に考えた時間がきっとプラスに働くはずだ。
この「一人で文章を書く」という行為が、何をもたらすのだろうか。
それがわからないことに意味を感じる。
(追記)
↓ポッドキャストにて、もう少し掘り下げました。
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