「初めての人生の歩き方」(有原ときみとぼくの日記)第34房:感謝をすること。それが生きること。
有原くんは泣いていた。
水面に反射する光。プールサイドに立って、監視をしているとき、彼の目の前には広いプールと仲睦まじいお年寄りが大勢いて、その活気と水の音、流れている音楽が混じり合って、彼は思い出してしまうのだ。
彼女のこと。
だから彼は泣いてしまう。幸い室内プールは気温と湿度が高く、汗が常に流れているので、涙を流していることを周りに気づかれることはなかった。けれど、本当は気づいて欲しかったのかもしれない。「大丈夫かい?」「なにかあったのか?」「相談にのるよ」そんな優しい言葉をひそかに期待していた彼は、余計に自分を責めた。
あまりにも勝手すぎる。彼女を傷つけて、それを許してほしい、反省している、今後は幸せにする、と身勝手極まりない。そうではない、そうじゃないんだ、と彼は思う。大切なことは、彼女の幸せじゃないか。
彼女の幸せ。
思えば、彼女と出会った頃、彼は本気でそう思っていた。彼女を幸せにしたい。彼女の笑顔が見たい。例えそこに自分がいなくても、彼女が幸せならそれで充分ではないか、と。
ところが彼は愚かだった。時間が経つにつれ感謝の気持ちを忘れていき、はじめて出会った頃の幸福感を当たり前のものだと勘違いし、そしていつのまにか「彼女は自分のことを理解している」という究極の自己中心的な考えに至ってしまったのだ。
だから、ケンカになる。思いやりがなくなる。悪いのは自分ではなく、相手と環境だ。その繰り返し。ゲームだ。出口のないゲーム。リセットなんて存在しない。
彼女はそんな彼に対して辛抱強く待った。ただ、待った。彼がまともな人間になるように。彼を信じた自分は間違っていなかったと、自分の直感は正しかったんだと。愛。私は愛していた。それなのに、いや、彼に求めるのは畑違いだ。彼は彼。私は私。彼が私を愛していたのかは分からない。愛しているのだったら、どうしてあんなひどい言葉が言えるのだろう。
裏切りだ。
彼は彼女を裏切った。だから、彼女は心は離れてしまった。
彼は泣いた。眠れず、食欲もなく、泣いて泣いて嘔吐して苦しんで謝って謝って謝罪して反省して断罪して猛省した。
二日間、かれはそうした。
それでも彼女は許してくれなかった。しかし、彼女はさすがに彼女だった。
「許しているし、怒ってもいない。けど、あなたのことをもう一度好きになれるかが分からない。だから信じて見守っていてほしい」
彼は歓喜した。そして訪ねた。
「連絡はしてもいいですか? また以前のように会ってくれますか?」
彼女はうなずいた。
そのときの彼女は苦しみを押し殺したような表情だった。彼はそれを見て、大罪人が大人しく絞首台に登っていくときの気持ちが少しだけ分かったような気がした。
それから、彼は少しの時間を見つけては彼女に会いに行った。始めは泣きもしたし、謝罪も述べたが、少しして辞めた。謝罪とは相手に対して自分の思いを分かってくれと強要している勝手な行為だと彼は思ったからだ。
彼は笑うようにした。笑顔を向けて感謝の気持ちを述べた。ありがとう、本当に助かっているよ。少しでも会ってくれてありがとう、嬉しいです。
彼はバイト先に事情を説明して早上がりさせてもらい、彼女に会う時間を作った。今後のシフトも少しだけ早く上がるようにお願いした。
彼女と会える時間は本当に少ししかない。一時間あれば多い方だ。それでも、彼は会いたくて仕方がない。もちろん、もう一度やり直したい、以前のように好きになって欲しいとおう思いもある。ただ、それだけではない。自分が後悔したくないというわがままな思い出ってあることはあるが、本音はただ会いたいだけなのだ。
彼は彼女を愛している。
だから会う。会いたい。少しでも構わない。
顔を見れるだけで幸せになる。
出会った頃を思い出す。
懐かしい胸のときめく。踊る心。焦る気持ち。会いたくて仕方ない。好きで仕方ない。幸せにしたい。ただ守りたい。抱きしめたい。
彼は彼女と会った後、一人になってよく泣いている。一人になると、以前まで手を繋いでいた相手が、もう自分を拒否していることが分かるから、でも彼女の前では泣けない、泣きたくない、だから彼は一人になって泣いた。
彼はいま、感謝の思いに溺れていた。それは小林正観さんの本を読んでいるからかもしれないし、さだじぃ。さんに施術をしてもらったからかもしれない。
本当は、純粋に彼女に対する感謝に気がついただけ。
彼は彼女に感謝している。去年の今頃はまだ抗うつ剤や睡眠薬を飲んでいた自分が、今では病気を完全に克服しバイトまで、しかも掛け持ちで、できているなんて奇跡に違いない。心理学を学び、アクセスバーズやレイキを学び感謝の言葉を述べているのは、すべて彼女のおかげなのだ。
それなのに、彼は罪を犯した。
なにが心理学だ。なにが愛だ。
彼は慢心していた。失って初めて気がつく大切な物。
本当に愚かだった。
彼は今日、お昼から「ありがとう」を25000回唱えることにした。
奇跡を期待している訳ではない。
彼女への感謝の思いが溢れているから、こうするより仕方ない。
ありがとう。
出会ってくれてありがとう。
愛してくれてありがとう。
愛を教えてくれてありがとう。
生きている喜ぶをありがとう。
幸せに気づかせてくれてありがとう。
もし、気が遠くに行っても、ぼくがずっと君の幸せを祈っているから。
ありがとう。
愛しています。
心から。