学生スポーツで陥りがちな排他的な考えについて
今回は「排他的な考え方と学生スポーツ」というテーマで書いていきたい。
「排他的」と、普段なかなか使わない言葉をタイトルにしているが、排他的な組織について少し深掘りしてみたい。
もともと「排他的」とは、特定の人間、組織、主義、主張だけを優遇して、他を退ける、という意味だ。言い換えると、多様性を認めないというとても硬直性のある組織と考えることもできるのではないだろうか。
スポーツの世界というのはある程度、チームが勝つため、結果を出すため、みんなが高め合うために足並みを揃えるという要素もとても重要になる。しかしトップやリーダーの考え方が排他的だと、途端に思考停止の脆い組織になってしまう。
チームスポーツの世界に20年以上、自分が学生スポーツに関わっている時から考えると35年以上、スポーツの世界にどっぷりいる私は、うんざりするほど「思考停止に陥った組織」を見てきた。
学生主体で陥りがちな思考停止の組織
先日、知り合いのS&Cコーチからある大学チームについての相談を受けた。その方は、チームリーダーからこのようなことを言われたそうだ。
「基本はこれぐらいの重量で。ということではなく、1人1人のギリギリの重量設定まで細かくしてください。難しいようなら、ちょっと無理なぐらいの量や重さを設定してください。そうでないと、妥協して楽なままフラフラとやる選手がいます。そうした選手がついてこられないような、切り捨てられるような厳しい指導をしてください。」
コーチや 教員からの指導がほとんどなく、自分たち自身で行わされているというか、自主的に行っているような中学の部活動などでよくある発想だろう。
うまいキャプテンみたいな子が1人いて、その子の考え方がすごく硬直的で、「お前ら、そんなやる気ないんなら帰れよ。こういう風にやらないんだったら意味ないんだよ。」という発想だ。
そういう奴らが気に入らなくてしょうがないので、その子たちのやる気がなくなるようなぐらいの量とか強度をわざと設定する。正直、中学校ぐらいの私は似たような考え方だったので、よく分かるのだ。
しかし、この発想はあまりにも幼い。そして誰も得をしない。
やらされないと必要な量や強度のトレーニングを行うことができない、高校生や大学生クラスの選手たちが、強くなったり、理想的なチームになれると思っているの?
こう問いかけられたら、なんと答えるのだろうか。
リーダー陣がコミュニケーションを放棄して「やる気がない奴はやめちまえ!」のような思想で、チームビルディングができるのかという疑問も浮かぶ。
さらに言えば、こういった考え方に対して、他の選手、スタッフや指導者から声が上がってこない。そういう組織の中で体を鍛えたところで、どれだけの成長や結果が見られると思っているのか。
こういったチームが勝ち上がったり、試合をやるごとにみんなが強くなって、勝ち進んでいくことは100%ない。
100%の出来事が起こらないはずのスポーツ現場で、少なくとも私の知ってるケースでは100%ないのだから「勝てないように、上手くならないように」するための必須スキルが、この強制的に極端な重量やボリュームをさせるトレーニングなのだ。皮肉だ。
競技スポーツ継続の意義の1つが失われないか
3年以上続いたコロナ禍の影響として、今後もこういった考え方や思考レベル、ちょっと幼稚な考え方を持った学生やアスリートを生むことになるのではないかということを、2023年の現在、とても危惧している。
組織内で意見をたたかわせるという社会経験。
その中で、色々な人間たちの多様性を認めつつ、もう合わないなと思いながら諦めつつも、何とか打開策というかちょうど良いところを見つけていく。
その上で同じ方向を指し示す、何とか理解しようとする。
大変だが、こういった経験ができることがスポーツを継続することの一つの大きな武器にもなっているはずだ。
シンプルに、それまでに経験しておくべきコミュニケーションや人間関係の形成ができていないことで、アスリートとして伸びずに終わっていく選手やチームが増えてしまうのではないか。心配だ。
自主性でなく主体性を育てる環境づくりを
今回のS&Cコーチからの相談に関して、私の考えでいうならば、ウエイトトレーニングに関して、大学クラスになって最適な重量が分からないような選手では困る。
5回×5セットやってねと言って、5回ギリギリがどれくらいか最初はわからないかもしれない。でも、実際に一度実施してみたらわかるのは自明の理だ。
その時の体調によって、多少は違うかもしれない。しかしギリギリでやっていくと、1~3セット目はこの重さを持てるけど、ちゃんと真面目にやると4~5セット目は同じ重さは持てないという事実は認識できるはずだ。
別問題として「足を引っ張る選手」への対応は毅然と
いつも最適な重量を避けて、敢えて持たない。100キロを持てるところを、常に50キロでやっている選手がいたとして、明らかに軽すぎなのが分かる場合、私も仕事なので注意する。しかし、もうやる気がない子であれば、何も言わないだろう。周りを巻き込みたいような子であれば、なんとか巻き込もうとした時点で、半ば無理矢理でもトレーニングを中断させ帰らせる。
「君がやらないのは、君の勝手。自己責任になるけれども、君がやらないことを言い訳にするために、他の選手を巻き込むことはチーム全体の被害になる。そういったことは、専門家として受け入れがたいのでもう帰ってください。」と言って本当に帰らせる。
どのレベルを基準にするか
キツいトレーニングをすることは目的ではなく、ウエイトトレーニングそのものも手段の1つ。何かのパフォーマンス、スポーツのために体を鍛えたり、強化したり、怪我の予防のためにトレーニングをするはずだ。
「キツいことをさせてください。」というのは、もはやトレーニングではなく、ただのしごきになってしまう。
団体指導において、強度や量を一番できる人に合わせる思想は、先ほど挙げたような排他的な考え方に近く危険だと考えている。
そういった指導をされているトレーニング指導者がいらっしゃることも知っているが、やはり結果は出づらいし、出たとしても長く続かず再現性がない。ただ、悲しいかな、そういった「きつさ」にフォーカスし求めるニーズが日本にはまだ一定数あるのも事実だ。
絶滅危惧種になっている自覚さえ忘れなければ、このタイプのトレーニング指導者は、そういったところで指導すればいいだろう。
私は、基本的に最大公約数的なところに強度を合わすべきだというポリシーを持っている。
すごくできる選手は少し物足りなかったり、逆に全然ついてこれないギリギリのレベルの子たちにとっては厳しすぎるというケースは必ず出てくるが、足りない選手は自分で重量を足せばいいだろう。厳しすぎる子は重量を調整したり、そもそも指導者に相談をすべきだ。
「僕はこの量だと本当にできないんです。時間内に行えないんです。この強度ではできないんです。」と言えることも大事なスキル。自分で考えて行動することそのものが、トレーニングでは大事になるのではないかという風に考えて指導をしている。
選択肢や考えるスキマを作る。話しかけやすい、相談しやすい雰囲気に腐心する。後は選手たちが考えて行動すればいい。自主性ではなく主体性を持って動けるように、環境づくりをすること。
学生スポーツにおいては、特にこの視点が大切なのだと思う。