十月と神無月からはじまる随筆
文字を打つ。実はメモアプリよりこっちの方が書きやすいよなー。
意外な発見。この文章は、誰の「不」を解消するものなのかを考えてみるべし。
同じ悩みを持った人に「不」の解消の提案…。とか思ったけど、実際にはこの文章は随筆なわけで…。となると、この文章を書く意義はこうなる。
今のわたしが体験していることを、事実ベースで書き連ねて、そこに対する心情を書き記すこと。
これが今回、文章を書く意義になるのかも。
というわけで、現状の自己の内面から沸き立つ言葉を「事象」として書き記してみようか。
現状は2022/10/17の月曜日。
月曜日というと、週の始まりという表現になることが多いが「自営業」である自分にはそんな実感はなかなか沸いてこない。
もちろん、隔週の月曜日は施術する日として場所をおかりする約束をしているためにある程度決まったサイクルで動いてはいるのだが、同じ「週期性」でも感じ方は大きく異なる。
もっと別の見方をすると、10月というのは神無月と言われている。
神無月についてある程度のことは、毎度お世話になっているwikipediaさんにまとまっている。
もちろん、Wikipediaについても出典の曖昧さだとか、様々な問題を孕んではいるが「ある程度体系的にまとまっていて、閲覧が容易」という面は他にはない大きな長所だ。
話を神無月に戻そう。
ざっくりまとめると、出雲大社、およびその関連性の深いエリアや神社では十月は神"無"月ではなく、神"在"月としている。
十月は、神が「無い」地域と
神が「在る」地域がある。
ここら辺はそんなにwikiには詳しく書かれてはいないけれど、様々な伝承がある。
神が無い地域には、この十月には鬼や妖怪などの魑魅魍魎が力を持つ、それらから人々や自然を守るために「陰陽師」の式神文化や、お地蔵さんや道祖神を熱心に奉ることで、地域の「結界」を強化する伝承がある。
とはいえ、ここら辺の「見えない世界」のお話しはwikipedia内の文化性もあいまって「出典が不確かなもの」として処理されて、消されてしまう。
「見えない世界」の存在を伝承するには「口伝」しかない。
なぜなら、「見えない世界」は臨場感が大切になるからだ。
文章に臨場感を持たせる…という方法も確かにあるのだが、やはり実際に存在を確信している人物からの「口伝」に勝る臨場感はなかなかお目にかかれない。
シンプルに考えて、テキストファイルの情報量は、何万文字おこそうが、たかだか何KBの情報量。かたや、動画になった途端に数十分の動画ですぐにGBの情報量になる。
データとしてみると、こんなにも含んでいる「情報量」が変わってくる。
ここが「エビデンス」のみで物事を判別する限界。
エビデンスは「誰がやっても同じことをすれば同じ結果になる」ものを追いかけて、積み上げた検証の結果の形。
つまり、万能ではない。ということだ。
「エビデンス」の考え方そのものを否定しているわけではなく、それ一辺倒はよくないよね。という提案のお話し。
「見えない世界」というと、随分と難しいものに感じるかも知れないが、あなたが感じる「尿意」なんかは、誰からも「見えない」けれど確実に存在しているし、無視すると当然漏らす🤣
「見える」とか「見えない」とかの区分もそもそもどうでも良くて、どちらかに偏重して考えるのは、違くないか?という提案。
そして、偏りが強い時ほど、追い詰められたような思考になる不思議。
人間の心の動きとは、なんと興味深い…。