「今日は絶対泣く」とわかっていたから、飛行機の中で化粧を落とした
これまで何度となく、機内や空港で化粧を落としてきた。海外旅行が趣味で、深夜便を愛しているからだ。
化粧を落としてたっぷり保湿した後、夢の中へ。目覚めたら次の街に着いている――弾丸旅行者の理想的なスケジュールである。
そんなとき、化粧を落とす目的ははっきりしている。お肌のためであり、良質な睡眠のためであり、翌日のスムーズな行動のためだ。
だが今回、はじめて「このあと絶対に泣くから」という理由で、機内で化粧を落とした。正確にいうと、クレンジングシートを使い、アイメイクだけを丹念にオフした。
一生忘れることはないであろうこの出来事について綴ってみたい。
当日9時:塗るか塗らざるか、それが問題だ
11月26日の朝、東京の自宅。私は鏡の前で迷っていた。マスカラを塗るべきか、それともやめておくべきか。
行き先は開業したばかりの麻布台ヒルズ。おしゃれな空間で、おしゃれな友人とおしゃれなものを食べる予定だ。普段ならばっちり化粧したいシーンである。
だがその日に限っては、マスカラを塗るのが躊躇われた。ランチのあと、はじめてスピッツのライブに行くことになっていたからだ。
スピッツを生で聴いたら絶対に絶対に泣いてしまう。目の下は真っ黒になるだろう。それでいいのか?
マスカラと見つめ合っているうちに、家を出る時間が迫っていた。いいや、あとで考えよう。結局は塗って出かけた。
1週間前:このボタンを押すだけでライブに行けるのか
両親の影響で、子どもの頃からスピッツを聴いて育った。今年33歳だが、ファン歴は25年以上といっていいと思う。家族とのお出かけ、受験、卒業旅行、甘い恋に苦い恋、うまくいった商談……あらゆる思い出のBGMがスピッツだ。
ただ、自分で主体的に音楽を選ぶようになる前から聴いていたせいか、歌えるのにタイトルがわからない曲も多いし、メンバーのみなさんのお名前さえほとんど知らないまま音楽を楽しんでいる。音源を聴いているだけで十分に幸せで、ライブに行くという発想もなかった。
ここ10年ほどの私にとって、ライブと言えばもっぱらジャズギターのものだ。ジャズ好きの夫に連れられてブルーノートやコットンクラブに通い、まったく詳しくないにせよ、ライブならではのアドリブ感を味わえるようにはなった。
そんな私が「スピッツのライブに行ってみよう」と考えるようになったのは自然なことだったのかもしれない。今年は旅おたくとしてずっと憧れていたサウジアラビアに行けた。この勢いで、やりたいことはなんでもやってみようと思ったのだ。
生でスピッツが聴けるなら、会場なんてどこでもいい。交通費なんて実質無料だ。そんな思いですべての日程に応募したが、全落ちだった。
あきらめきれずSNSで探したところ、幸運なことに、12月のライブに同行させてくれる方を見つけた。
待ちきれない思いで最新アルバムを聴き込んでいたある日、「福岡会場のチケットを追加販売します」との知らせが舞い込んできた。日程は1週間後だ。
1週間後、福岡か。その日は友人とランチだし、そもそも12月のライブに行けることになってるからね。ほら、ランチのあと福岡に向かうと、かなり時間ぎりぎりみたいよ?やめだやめだ。
そうわざわざ口に出して、夫にも「追加チケットが出てるみたいだけど、やめておくよ」と言い、ふとんをかぶって寝た。
翌朝、「もう空いてないだろうな」と思いながら、念のために申し込みページを見てみた。見るだけ見るだけ。行きませんよ。絶対埋まってるから大丈夫……なんと「残りわずか」の表示が出ているではないか。このボタンを押せば、確実にライブに行けるのだ。
ものすごいスピードで、チケットと福岡行きの航空券、そしてホテルを確保した。それでも、まだ実感は全然湧いてこなかった。
当日14時:機内での丹念なシミュレーション
当日。麻布台ヒルズをあとにして福岡行きANA便の座席に腰を落ち着けた瞬間、突然「あ、これ現実だわ」と思った。心の準備が全然できてないけど、ついにこの日が来てしまったんだ。
本を開いたが、全然集中できない。目を閉じて、ライブの様子をシミュレーションすることにした。
「まもなく開演いたします。スマートフォンなど、音の出る機器の電源をお切りください」とアナウンスが入る。スピッツがステージ上に登場し、スポットライトがパッと当たる。割れんばかりの拍手。「マサムネー!」と叫ぶファン。ギターがじゃじゃーんと鳴る……ダメだ。じゃじゃーんの「じゃ」で泣くわ。だってこれまでの人生、スピッツとともにあるんだよ。
何度シミュレーションしても「最初の音を聴いた瞬間に泣く」は揺るがなかったため、お手洗いに立ち、持参したクレンジングシートでアイメイクだけを丁寧に落とした。これで大丈夫だ。どれだけ泣いても、目の下が真っ黒な人にはならない。
飛行機はあっという間に福岡空港に着陸した。足がもつれそうになるのをなんとか抑えながら、地下鉄駅へとずんずん歩いていく。空港内を急ぎ足で歩いている人、博多弁で楽しそうに話す団体、音楽を聴いている人……全員スピッツファンに見えた。
当日17時15分:バスの揺れ方で人生の意味が解かった日曜日
ホテルの部屋に荷物を放り出すように置き、バス停へ向かう。会場直通の臨時バスなので、今度こそまわりは一人残らずスピッツファンだ。
ファンたちを詰め込んだバスが次から次へと出発していく。私もそのうちの一台に体を滑り込ませた。
イヤホンを耳に入れて、いつか生で聴いてみたいと思っていた曲を再生する。まわりは全員スピッツファンなのに、なぜか恥ずかしくてスマホの画面を隠し、かなり音量を絞った。
バスは満員だが、うきうきした空気が満ち満ちているからか不快感はない。ドアに押しつけられながら外に目をやると、見慣れない街並みが目の前を通り過ぎていく。曲とぴったり合いすぎてミュージックビデオみたいだ。まずい、もう目がうるんできた。予定より早くて焦る。
隣に立っているお姉さんをチラと見ると、美しい姿勢で文庫本をめくっている。どうしてそんなに落ち着いていられるのか?同じ音楽を愛する人のはずなのに、こんなにも違う人間であることが不思議に思えた。
当日18時:「まもなく開演いたします」
席に着いたのは開演5分前だった。
そわそわとスマホの電源を切り、ハンカチを取り出したりしまったりまた取り出したりしていると、「まもなく開演いたします。スマートフォンなどの音の出る機器の電源をお切りください」とアナウンスが入った。スピッツがステージ上に登場し、スポットライトがパッと当たる。割れんばかりの拍手。「マサムネー!」と叫ぶファン。ギターがじゃじゃーん……何から何まで予想通りの展開だ。ここまでは。
機内でマスカラを落としておいてよかった。
それに、都会で何とか踏ん張って生きてきて、好きなもののために躊躇なく行動できる大人になれて、本当によかった。