まだうまく息ができない
新年早々インフルエンザに罹り、出社できなかったので読めていなかった本を読んだ。
『猫がいなけりゃ息もできない』村山由佳著
これは実家から借りている本で、ほんとうは愛猫ロミオの生前に、こころの準備として読んだらと渡されていたのだ。だけど、なかなかわたしはページを開くことができなかった。
こころの準備なんてできたら、ロミオが逝ってしまう気がしたのだ。
それで、ロミオを見送り、生活のうえではもう笑ったり冗談をとばしたりできるようになったいま、勇気を出して読むことにした。
実際のわたしはというと、不思議なもので、思い残すことなくお別れができたのに、この世にロミオがいないということを頭で理解できずにいた。ロミオの体調の心配はたしかになくなったが、もう二度と触れることができないことが受け止められていない。ひとり、部屋にぽつんと佇み、とつぜんわぁと声をあげて泣きだしたりするものの、それも長続きせず、数分後には芸人のYouTubeなど見て笑ったりしている。もしわたしの生活を盗み見れるとしたら、正気の沙汰とは思えないだろう。
話をもどして、こちらの本を読むタイミングは間違っていなかった。起こる出来事も、受け止め方も、重なる部分が多くてひどくおどろいた。そして、村山由佳氏の紡ぐガラス細工のように繊細でうつくしいことばたちが、こぼれそうで、こわれそうで、せつなかった。
猫を愛するものとして、わたしの考えや在り方がほんとうに正しいか(晩年を一緒に暮らせていなかった時点で失格かもしれないが)、不安に思っていた部分を、これがわたしの愛だったと、胸を張っていまは言える。その確信をもらえた本だった。
ふたたびわたしの心にあたたかな灯を点してくれた本。わたしの経験とかさなりあった部分を、エゴではあるが書き残そうと思う。際しては、内容にはふれず、村山氏の表現を拝借しつつわたしとロミオの話を綴ることにする。読んだことがある方は、思い出してみてほしい。まだの方には、ぜひおすすめしたいと思います。
ややふてぶてしい存在
わたしのなかでロミオはややふてぶてしい感じで存在していた。たぶん顔立ちをご覧いただければわかると思うが、キリッとして凛々しい。カメラを向けると高確率で怪訝そうな顔をするので、ちょっぴり偏屈そうにも見える。
だけど実際は超ツンデレで、甘えん坊で、臆病で、おっちょこちょいなそれはもうチャーミングな猫なのだ。ライオンみたいな顔をしていながら、おそらく野生だったら生き残れないんじゃないかと思う。。アメリカンショートヘアはアメリカの船乗りと旅した屈強な猫。それだけあって力は強かった。
べつべつに暮らすようになってから、「また写真かよ」「もういいってー」「自分がマシに写りたいだけだろ」と文句を言われながら、ツーショットをいっぱい撮ってもらっていた。
病院での危機は「ちゃっかり」と
臆病者のロミオなので、動物病院では興奮状態になりがちで、胸水を抜くのにとても苦労したそうだ。最後の通院では、暴れると危険なので水を抜くのをあきらめ、ビタミン注射を行うとパニックを起こして歩き回った挙句倒れた(家では歩き回ることすらほとんどなく、だいたい香箱をつくって過ごしていた)。ロミオは処置室に運ばれ、待合室に戻された母はもうだめかと半ばあきらめていた。呼ばれて診察室に入ると、診察台の上で酸素吸入器をあてられたロミオがちゃっかり座っていたそうだ。これを聞いたわたしは、謎に堂々と診察台に座っているロミオを想像して、ふふっと笑ってしまった。
ロミオも知っていた
元気がないとか、もうだめかもしれないと、実家から何度も連絡を受けていた。そのたびに気を揉んで、頻繁に帰省した。でも、正直、「聞いていたより元気だな」と思うことが多かった。発作を起こす回数もそこまで多くはなく、トンネルで遊んでくれとねだったり、フミフミされたりした。
最後に会えたときにはもう食事やお水をほとんどとれなくなって、たまにちゅーるやスープを飲むだけと聞いていたのに、わたしの手からカリカリを欲しがってたくさん食べた。香箱をつくって静かにしていると思ったら、すっくと立ちあがり、わたしの膝からテーブルにのぼって、わたしが飲んでいたコップから水を飲んだ。いとおしくてたまらなかった。
そして、その夜は心臓の悪いロミオをつぶさないようにとベッドの真ん中に寝かせ、わたしは同じベッドの端で体を曲げて寝ていたら夜中に頬を舐められた。寒いのかなと思って目を覚ますと、ロミオはかわいい手でわたしの腕をチョイチョイとつついた。ああ、腕枕してほしいのか。まえは勝手に腕の間に潜り込んできたけど、頼まれて腕を貸すのもいいななんて思って、左腕を差し出すと、ちいさな顎を腕に乗せて気持ちよさそうに眠った。
今思い返すと、それが最期になるのだと、ロミオはわかっていたんだと思う。
わたしの前では元気に見せてくれていたんだと思う。一緒に戦って、守ってくれた強くてやさしいロミオ。弱いところは見せたくなかったのだろう。
「お疲れ様」
そのなきがらと対面したとき、まっさきに伝えたのが「ありがとう、よく頑張ったね」だった。ほんとうに、頑張ってくれた。わたしはロミオに育ててもらったのだから。大きな任務をまっとうし、天に召された、あっぱれな一生だ。
インスタグラムでロミオの旅立ちを簡単ながら発信すると、いろんな友人たちからメッセージが届いた。ロミオの冥福を祈ってくれ、ロミオを、そしてわたしまでも「お疲れ様」とねぎらってくれた(わたしはそれを最期まで世話してくれた家族に伝えた)。
わたしは自己満足でロミオをSNSで発信していたつもりだったけれど、可愛くて大好きだった、癒されていた、寂しいと言ってくれる友人たちがいた。本当に、深く感謝したい。
翌日午後4時の火葬
火葬は、翌日の午後4時に予約が取れた。業者が炉を乗せた車で来てくれて、庭で荼毘に付した。
冬とはいえ時を経るにつれ傷んでしまういとおしいからだ。わたしは急かされるように、早く焼かないとと思ってしまった。
二度と触れることのできないもふもふ。もう冷やされたかのようにつめたい。この世にかたちあるうちに最後に触れるのはわたしじゃないと嫌で、何度も何度も撫でてしまった。彼が生きていたなら、しつこいなぁとブルブル身ぶるいして、背中を向けられただろう。だけどロミオは動かなかった。いくら撫でても、薄く、かたく、つめたいまま、ただしずかに、そこに横たわったままだった。
人間の年齢でいうとまだ61歳だったロミオ。毛皮はずっと美しくふわふわで、魂がここになくなってもそれは変わらなかった。
はるかに頼もしい存在として
変わらぬ愛情を注いでくれる庇護者。唯一無二の戦友。信じるに足る同志。誰より愛しい恋人。このどれもがわたしにとってのロミオだ。
このすべてを叶えられるのは、ロミオだからだ。動物だからじゃない。猫だからじゃない。アメリカンショートヘアだからでもない。ほかならぬ、ロミオだからだ。
ホームセンターで風邪をひいて、値段までひかれていたロミオ…。人気があって高級なシルバータビーのアメショの値段じゃなかったね(笑)。でも、だから家族に反対されずにすんなりお迎えできた。それも縁だったと思う。
ペットは、可愛がるもので、癒しを提供してくれる存在というのも間違いではないが、わたしはロミオをペットと呼びたくなくて、それは、彼はたしかに無口だったけれど、人間よりはるかにロミオに頼もしさを感じていたからだ。
人間同士では結ぶことのできない固い絆を、そこに感じることができたから。
ケンカもしたし、耳掃除して嫌われたこともあったけど、お互いに憎しみを持つことなんてありえなかった。
だからまだこころの整理がつかない。だからまだうまく息ができない。いつまでもめそめそしているのがいいとは思わないけど、悲しみは尽きない。失ったものは戻ってこないとしても、涙はいくらでも流れる。それが悪いこととは思わない。大切な存在だったのだから。かけがえのない、大切な愛のかたちだったのだから。
いつかこのことで涙が流せなくなっても、その事実は変わらないから。
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