走り続ける人にとっての勇気は、加速より立ち止まること

 世界一周に出たときだって、決めたのは3ヶ月前。たしか、オーストラリアのバイロンベイのコテージでヒロといつものようにくだらない会話をしている流れで、世界一周を決めた。しっかり計画と将来のビジョンを立てて決断をしてとか、そんな大それたことはしていない。近所のコンビニに行こうくらいの感覚だ。
心に従い切ったら、仕事も仲間の理解も思ったよりスムーズに得られた。


 それからの3ヶ月だって、当初の予定通り、1ヶ月間はスペインとオランダで過ごし、1ヶ月間は友人の結婚式に出席するためハワイで過ごした。
 残りの1ヶ月を東京で過ごし、メルカリで物を売り、原宿から麻布十番へ引っ越しをして、民泊の運営準備を整え、毎晩六本木ヒルズのスタバに通って朝の4時までガイドブックを眺め、航空券やホテルの予約取って、朝の10時には予防接種に行ったりと、いつ寝ていつ起きてるのか自分でもわからない動きをしていた。


 そして、新しい出会いを体験し、数日ごとに話す言葉が変わり、毎日新しい土地を踏み、毎晩ベットが変わる生活を1年間続けた。


 言葉が変われば、もちろんそこに流れる普通や感覚も変わるため、いわば日々カルチャーショックの定期貯金をすることになる。それらをよそ者として受け入れざるを得ない状況に身を置くことは、日々どこまで自分の器を広げられるかの挑戦でもあったし、そうやって自分の変化を感じられる日々が凄く楽しかった。


 だが、アメリカ大陸での生活で歯に痛みを生じるようになった。ロサンゼルスから帰国後(アメリカで親知らずを1本抜くのは30万かかる)、奥歯の痛みの原因は横向きに生えている3本の親知らずだと診断された。全部抜くには2ヶ月かかると言われた。いずれ、抜く日が来るのなら、今のうちに全て抜いてしまおうと2ヶ月間での治療を承諾した。


1年間、毎日刺激的で景色が変わる生活をしていた為に、旅のない毎日に、完全に手持ち無沙汰になってしまった。映画を見たり、記事を書いたり、読書をできればまだいいものの、痛みに耐えて寝ているだけで終わってしまう1日には、自分はこのままでいいのだろうかと焦りや不安を強く感じてしまった。

過ぎれば数十日間のことだが、そういった精神状態の中では、時間は永遠のように長く感じる。

挑戦したり、走り続けることを常としている私には、立ち止まること・休むことは、不安以外の何者でもなかった。変化のスピードが早い日本に戻って、立ち止まることは、目に見えない世界に取り残されたような孤独を感じざるを得なかった。


 心は前に進みたい、動きたがっているのに、身体がそれを許さない。たった歯3本で全身の体力が完全に失われるはかなさ。1人部屋の天井を眺めては、誰も見ていないのに思い切り泣けずに涙を堪えている自分がいる。


 焦っても不安になっても涙が溢れても、1日は容赦なく過ぎて行く。パタゴニアで氷河を見たあの1日も、モアイ像とサンライズを迎えたあの1日も、寝食を忘れて遊んだラスベガスであの1日も、なにもできない1日と同じ1日だと思うと、どうしてもそれらを快く受け入れられない。


 突如避けては通れなくなった、強烈な自己対話。自分の考えていること、好き嫌い、やりたいやりたくない、本当は目を伏せたい怠けグセ。成長したい魂と、好奇心任せに進みたい心と、休みたい身体。


 一番勇気を必要としたのは、タヒチでフランス人に省かれたり、アルゼンチンのホテルでの差別に対して湧き上がった感情を受け入れることよりも、立ち止まった自分の身体と状況を受け入れる自己対話だった。


 2ヶ月の治療が終える頃には、そのタイミングで立ち止まることが私にとって必要だったと思えたし、その時に味わった感情全てが贈り物のように感じられた。
 むしろ、今までにしたことがなかった強烈な自己対話のおかげで、これから自分がどうしていきたいか、何が大切で何が不必要か、どこに行きたくてどこに行きたくないか、誰に会いたくて誰に会いたくないかが、前よりはっきりわかるようになった。


押してダメなら引いてみるのように、いつも前倒しで押せ押せな人生を送っている人にとって、立ち止まることは、結果として、強力なスーパージャンプを生みだす為のステップになるのかもしれない。

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