五輪について思うことと2種類の生


「生(せい)」には、2種類あると聞いた。                Living behaviorと、Death avoiding behaviorの2種類だ。             前者は、生きることを謳歌する「生」。自分自身の人生を前向きに生き抜くことに対してエネルギーを注ぐこと。もがきながらも、自身の生を全うすること。積極的な生である。                              一方の後者は、死を回避するための「生」。死なないように、生き延びていくことを主眼においた生。前者と対照して、消極的な生とも言える。

感染症が蔓延する中での五輪開催・中止の議論は、まさにこの2種類の生のどちらがより大切かについて、優先順位を争っているように見える。

もちろん、どちらも生きることに変わりはなく、その性質が違うだけ。そこに良し悪しもなければ、もちろん優先順位のつけようもない。   

五輪に内定しているアスリートたちは、それこそ「必死の」思いで日々鍛錬してきたに違いない。4年の歳月をかけて自分自身と向き合い、五輪という大舞台に向けて最高の状態を築き上げてきた。そんな彼らにとって、五輪の中止は、彼ら自身の積極的な生を奪いかねないと思う。

一方、疲弊しきっている医療関係者や、感染防止のために日々対応に追われている政府関係者、地方自治体、その他、感染の脅威に晒されながら働かれている多くの人々の憔悴も計り知れない。なんとしてでもこれ以上の感染拡大・死者の増加を回避したいと、誰もが願っている。

どんなことでもそうだが、やる・やらないに、正解はない。五輪も同じだ。どう防いでも、海外から人が入ってくれば感染確率は増す。人々の不安も増す。その危険を承知して五輪を開催する。すると、アスリートの勇姿に感動し、人々は涙する。生きることの尊さを知る。勝っても負けても、これでいいと、知る。

私自身、1年前は、五輪を中止すべきだと思っていた。          しかし、感染症の終息が見えない中、今や人々がDeath avoiding behaviorのみに集中して、ぎすぎすとした閉塞感の中で、もがいているように感じられる。このような時こそ、Living behaviorを体現する大きな流れが必要なのではないかと思うのだ。

多くの人が、自分の生を積極的に満たすような、本来の生き方を取り戻せる日が一日でも早くくるよう、感染症の終息を心から願う。そして、ここまできたならば、東京五輪の開催が、最高・最善の未来となるように祈りたいと思う。


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