日本の新進作家vol.21「現在地のまなざし」東京都写真美術館
アレック・ソス「部屋についての部屋」と同時開催中の東京都写真美術館の展示、日本の新進作家シリーズ第21段。
今日見てきて会期が明日までなので、鮮度だけを意識した感想を綴ります。
私が日本の新進作家シリーズを前回見たのがvol.16の時だったので、その時から随分と月日が経ってしまったらしい。
vol.16は好きな作家が既にいてその人を目当てに展覧会に足を運んだら、想像以上に参加した作家たちの作品が素晴らしくて、今回はどなたも事前には存じ上げなかったけれど見るべき価値があると信じて鑑賞した。
そしてそれはやはり間違いなかった。
「現在地のまなざし」というタイトルがつけられているように(日本の新進作家シリーズには毎回異なる展示タイトルがあてられる)、令和の今、それぞれの作家たちのまなざしで現代が表現されている。
一億総カメラマン時代といっても過言ではないくらい、みんながスマートフォンのカメラで簡単に写真を撮り、SNS上にこれまた簡単にシェアしてメディアになれる現代に、写真や映像という表現方法を用いて作品を通しまなざしを伝えてくれる作家たちの泥臭さ、熱意のようなものがあったなあと思う。
vol.21に参加したのは(展示順・敬称略)
大田黒衣美・かんのさゆり・千賀健史・金川晋吾・原田裕規の5名の作家。
今回は鑑賞中にあえて作品リストを見なかったので、鑑賞中に感じたことと、帰りの電車で作品リストに寄せられた各作家の思い(ステートメント)を読んだ上での感想を合わせて記録していこうと思います。
大田黒衣美
1番好きだった。
今回の展示作品は〈sun bath〉というシリーズから。
薄くスライスした石鹸の欠片のようなものにドローイングが施されており、それがふさふさの毛皮に乗っている、状態の写真。
淡い色に柔らかな線のドローイングが彫られていて、人の顔に見えたり見えなかったりする。
メルヘンで、優しい線遣いに自然と温かくなった。
2933×4400mmというかなり大きな作品。私の古いスマホだとどちらも画角に収めることが出来なかった。すみません。
インクジェットプリントでポリエステル布に印刷されている。
迫力がすごい。けれど威圧的な感じはなくて。
作品リストのステートメントによると、私が石鹸のようだと思ったのはチューインガムだったし、毛皮と思ったのは生きている猫の背中の毛だった。
石鹸を連想したのは〈sun bath〉につられたのかもしれない。作家の言葉を載せたいが、実際に作品を見ながら(見る前、あるいは見た後でも)知って欲しい気持ちがあるのでここでは割愛する。代わりにチラシでの紹介文を。
写真は一瞬を切り取る。そこに写し出されたものは老いることもなければ深化することも劣化することもない。
その一瞬の時間を留める、ということだと思う。
かんのさゆり
3.11の東日本大震災をきっかけにした記録的な意味合いが強い風景写真だった。
〈New Standard Landscape〉というシリーズで、一見なんの変哲もないように思える。
私自身が震災被害の場所に縁がないせいか、タイトルや説明がなければつまらない写真に思った気もする。
まだ新しい匂いがしそうな家の庭や門、綺麗なアスファルト、整備されたばかりの不自然な道路。
それが意味するものがなにかを私は知っている。
新しいもの、新しくせざるを得なかったもの。
まちがいなく現在地のまなざし。
記録写真としても意味があるだろうし、きっとずっと撮り続けていくのだろうと思う。そう願う。
48点組の写真の中で1枚他とは異なる展示のされ方をしていて、これが1番心を締め付けられた。ブルーシートは桜のお花見もそうだけれど、工事現場や廃墟みたいなそういうものも想起される。
千賀健史
5人の中で1番アングラ感があって、好きかどうかでいうと好みではないのだけど、その実験的手法の強烈さはすごいとしか言いようがなかった。
写真は写真なのだ。ただ写実的写真ではなく、コラージュのような、モンタージュのような、マグショットのような、新聞記事のような、証明写真のような写真たち。
うまく言葉で説明できないのが悔しい。
作品リストの作家のステートメントにある最初を抜粋する。
単なる1枚の写真作品とは別に、自身が詐欺グループのような場に潜入?しながらドキュメンタリー的に制作した、かつてのタウンページの分厚さにも負けずとも劣らない詐欺被害者の記録帳の作品もあり、それらがものすごく不気味で怖かった。
すごい作家。
私が1番好きだったのは2021年制作《祖母》という写真。この作家の作品でスマホに収めた唯一の作品。
どうやって撮ったのか分からないけれど吸い込まれた。
これ含めて、直接見て欲しいなと思う。
金川晋吾
ザ・ポートレイト。
今回展示は〈father〉と〈明るくていい部屋〉の2シリーズからなる。
私は写真を撮るのが好きだけど、人を撮るのがとにかく苦手だ。
ポートレイトはカメラのレンズ越しであれど、その人と目を合わせないといけないと思っていて、話す時に目を合わせるのはなんでもないのに無言で数秒見つめ合うのは、心が見透かされそうな気がして怖いから。
だからポートレイトを撮る人をプロアマ問わず尊敬する。
〈father〉はどれも1000mm超えの大きい写真で、シリーズタイトル通り父親を写したもの。少し緊張感があるような写真たちだった。
一方〈明るくていい部屋〉はシリーズタイトル通り、明るくていい部屋なんだろうなという雰囲気がある。こちらは女性1人と男性2人、そして恐らく撮影者である作家の4人の関係がうかがえる。
(4人で写っている写真もあった。)
〈明るくていい部屋〉に関しては展示室内にキャプションの代わりに明るくていい部屋にまつわる人に関して、ラミネートされたA4サイズほどの作家の文章が両面に載った解説?があり、それを読んで写真を見返すとよりしっくりくる気がした。
裸体を含む写真があり、お子さん連れなど見ることを望まない人(これが適切な言葉か自信がない……)は事前にスタッフに申し出れば対応してくれるようなので、さすがの配慮です。
そしてここでなんとすごいことが起きます。
私がその解説を中央の背もたれなしのソファで読んでいる時に作家が〈明るくていい部屋〉の被写体の方たちと展示を見に来ていた!
(被写体の1人がたまたまそばにいてなんだかこの人、写真に写っている人にすごく似ているなと思い目で追っていたら、作家っぽい良く似た人が展示室内にいたのだ!)急いで作家の名前をGoogleで画像検索し、本人確認をしていたら、私の真後ろに座ったので、彼が立ち上がったタイミングで「すみません、金川さんですよね」と思わず声をかけていた。
プライベートだったのにも関わらず丁寧に対応してくださり、勢いで話しかけたのでしどろもどろになりながら感想を伝え、かなり興奮してしまった。
今を生きる作家の作品に触れることは、まさに今の言葉を聞けることなのだ。
今回は運良く、作家本人から直接、個人的に話を聞くことができたけど、それに限らず生きている作家は媒体を通して、声を、言葉を更新してくれる。
土門拳が私が生まれた時には既にこの世にいなかったのとは違う。
現代作家の作品を鑑賞する1番の喜び。
ポートレイトだからか、作家本人に出会えて興奮して写真を撮るのを忘れたからか、スマホには残っていないので作品ぜひ現地で見てください。
原田裕規
ビデオ記録映像と、展示室を出た後に写真の山。
ビデオ映像は3種類あり特に説明もなく、3つとも写真をめくる手元が流れていた。
共通していたのは小さなアナログ時計が傍に置いてあることだけ。
写真を次々にめくる人的スライドショーを披露してくれる人は無言のままだった。
1,2分でそれぞれの映像を切り上げ、これで終わりかと肩透かしを喰らった気持ちで出口に向かうとその先におびただしい量の写真があった。
おびただしい写真でできた山は一度捨てられた写真たちだった。
作家はゴミとして捨てられた写真を回収し、集めて展示を行っている。
先の映像も回収した写真を24時間ひたすら見続けるというパフォーマンスアートだった。
これは開館時間ですべてを見ることは不可能なので1,2分で切り上げたのは正しかったのかもしれない。
写真の山の中には結婚式や成人式のようなハレの日の写真もたくさんあって、これが不用品回収や産業廃棄物の中に紛れていた経歴を持つものだと思うと、どうしてだろうと思わずにはいられなかった。
そこに写っているその瞬間、確かにこの世界に存在した人たちのこと。
この写真を手放した人たちのこと。
写真1枚に対し、写っている人は1人とは限らない。
写真の山の中に信じられないくらいたくさんの人間が存在していた記録。
見ず知らずの人の文脈もわからない写真を前にただ眺める他なにもできなかった。
と、まあ5人が当然だけれど違う視点を持っている「現在地のまなざし」はどれも刺激的だった。
まなざすことは向き合うこと。
向き合うのは喜びで、時に恐怖。