声が聞こえた日
私は料理が好きではない。
でも主婦歴10年を超えてくればそりゃあある程度の料理は作れるようになるし、主婦業もサマにはなってくる。
だから料理も「好き」なのではなくて、「生きるため」にやっている。
料理とは、私にとっては料理そのものではなくて、買い物して、プランして料理して洗い物をして片付けをするまでの一連の作業のことを指す。
もちろん夫や子供に手伝ってはもらうものの、1日3食分、年間300日は繰り返す作業のひとつ。
どうせなら楽しいと思えたらいいのに。
そう思ったことは数え切れない。
しかし、なかなかうまく行かない。
その上、夫は私よりも料理が上手ときた。
そんなのもあって、料理コンプレックスだったのだと思う。
それでも子どもたちは「ママのご飯美味しいよ」と度々言ってくれていた。だけどそもそも斜に構えているせいか、コンプレックスのせいか、子どもたちの声はいつも私の斜め上を通り越していく。
ところがこの1ヶ月、怒涛のリノベーションと引っ越しもあって、料理を作る時間と体力がない日が増え、特に引っ越し前後の2週間は、新居のリノベーションが終わっておらず、友人のベースメントをお借りしていたこともあって家の中で料理ができる状態になかった。
心の中で小躍りした。
料理をしなくていい立派な理由がある!
「したくない」のではなくて「できない」のだ。
しょうがないよねえ。
はじめのうちは、テイクアウトフードを買ってきたり、簡単なサンドイッチで済ませたりしながら、料理もプラニングも洗い物もしなくていい日々を満喫した。
ところが1週間も経ってくると、米を炊けない、パンはあるけどマヨネーズがない、酒やみりんや味噌がない、ということが不便になってきた。
最終的には、なんと
「自分で作った料理が食べたい」
という驚きの新感覚に出くわしてしまった。
そんな想いが募ったある日のこと。
リノベーションでくたくたの体を引きずってでも、どうしてもやりたかったことがあった。
夕方、ガレージに積まれた家具や箱の中から炊飯器を引っ張り出していたら近所に住む友人が通りかかった。
彼女に聞かれる前に答えていた。
「もう冷凍ピザは食べられない!私には炊飯器が必要なの!」
私は彼女ではなく、自分に向かって宣言したかったのだと思う。
すっぴん&ペンキまみれのジーパン姿で炊飯器を持って叫んでいる私に友人は「今度パイでも差し入れするわね」と笑いながら去っていった。
その日を堺に友人宅をひきあげ、自分のフライパンで、自分の木べらで、自分の調味料で、自分の好きな味で、料理をすることにした。
たとえ工具が散らかっていても、足りないものだらけだったとしても
料理ができることは私の幸せなのだ。
それは、思ってもみなかった気づきだった。
はじめはピザだスシだと喜んでいた子供だったけれど、
「外のご飯より、ママのご飯が好きだよ」
と言いながら、おいしいおいしいとご飯を食べてくれた。
「ママのご飯が好きだよ」
だって。もう一度反芻しちゃおう。
「ママのご飯が好きだよ」
胸がじいーーんと温かくなる。
今まで何度も言ってくれた言葉なのに。
耳があっても、聞こえない声がある。
心が開いていないと、届かない言葉がある。
多分こうやって、今までも多くの言葉や声を逃してきたのだろうな。
閉じた心、閉じた耳。ばかな私!
でも今は、ご飯を作る喜びを噛み締めよう。
みんなでご飯を食べる喜びを噛み締めよう。
きっとそれもつかの間だから。
私はそのうちまた家事に料理に追われる日々に「きーー!」ってなってしまうだろう。
だから、ちょっと心が緩んだこの隙に、この言葉を心の栄養にして。