幸せを見つける才能
亡くなった、私の父は、才能があった。
「天才」と呼ばれる部類に入るといっても、許されるだろう。
しかし、振り返ると、大変な人だったなあーと思う。
父の実姉ですら、亡くなった時に、
「この世の中では彼は相当に生きづらかったから、おばあちゃんのところに行けて良かったねえ」と言うほどだった。
ピュアな故の生きにくさ
芸術やITや科学の分野で、「天才」と呼ばれる人は、得てしてピュアで自分に正直であるように思う。
ピュアなゆえに、意思が強く、
ピュアなゆえに、人との摩擦が起こりやすく、
ピュアなゆえに、天狗になり、
ピュアなゆえに、利用され、
ピュアなゆえに、孤独だ
普通の人は天才の思考についていけないので、
天才からすると「自分のアイデアを人に理解してもらえない」という苦悩があり、普通の人からすると「先鋭的すぎて理解できない」という構図に陥る。
なので、「通訳者」がいないと、他者との楽しい会話というものがあまりできない。もちろん、家族の団欒なんて存在しない。
そして、天才はある分野に突出している代わりに、その他のことにおいて、びっくりするほど不器用でもある。
天才が人格者でもあるなんてのは妄想で、私が見聞きした限りでは、「健康的な天才」という人はいないように思う。
そう、天才はいわば社会不適合者である。
そんな天才的な人がいることは、家族にとっては大変。「普通の幸せ」というのもがないのだから。
幸せに気づけるという才能
如実に優れた才能があるということは、
この世に新しい方向性や感動を与えるという素晴らしい役目があるものの、そうでない人より幸せであるなんてことは、決してない。
父の生き方を見ていて
「暮らしの中にあふれている幸せを、幸せと感じられることの素晴らしさ、温かさがいかに大事か」と気づかされる。
何が言いたいのかと言うと、、、
「自分には才能がない」とか、
「才能がある人が羨ましい」とか
「こんな才能があったら人生違っていた」なんて嘆く必要は全くない。
美味しいもの食べて、
くっだらないことで腹抱えて笑って、
たまに感動して、
数少なくても友達がいて、
できれば健康で、
やなことあっても、
前向きに向き合って、
たくさんの選択肢に悩んで、
そして進化していく。
そうやって当たり前の毎日が、当たり前に巡ってくることは、ほんとうにかけがえのないこと。
日々の暮らしの中で、大なり小なり、幸せな瞬間を見つけられることは、本当に、本当に、素晴らしいことなのです。
天才の人たちが与えてくれること
亡き父のためにも、最後に天才的な人たちの姿がなぜこんなに心を打つのかについて一言書いて終わりにしようと思う。
天才的な人たちの発想が、先鋭的であるからこそ、社会や人類の未来の「可能性」を見せてくれることが一つ。
そして、もう一つは、彼らが往々にして、破天荒さを含めて、非常にピュアで自分に実直な生き方をしていること。
その2つに心を打たれるのだと思う。
父への印象を、と聞かれたら、まだ幼かったこともあって後者が強く心に残っている。
昔はなんて冷酷で家族愛のない人だ、と思っていたけれど、ピュアで実直な自分でいることが、彼なりの「愛の表現」だったのかもしれない。と今は思う。
そんな、天才的な人たちが残してくれる作品や考え方にインスピレーションをもらうのも楽しい。
2020年。長い山羊座の時代が終わり、先鋭的なアイディアと個人の幸せを司る水瓶座の時代に突入するという今、もし父がこの世に生を受けていたら、もっと生きやすかったのかもしれない、と思うと悔やまれる。
なんか、ふと父のことを書きたくなったこの頃。
それにしても、破天荒な人だったな。
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