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生存率0.1%の旅
森の奥の林間学校の敷地で暮らしている友人夫妻を訪ねた。
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当初、ある物を取りにいってさっと帰るつもりだったのだけれど、ひょんなことから、その林間学校で育てているサーモンの稚魚を放流するという体験をさせてもらうことになった。
この林間学校では、この地域の川をホームとし朔上してくるサーモンの孵化と放流も行っている。
この時期に放流する20000匹の稚魚のうち、3年後に川に戻ってくるサーモンはたったの20匹だそうだ。
生存率0.1%。
残りの19980匹は、旅の途中で他の魚、アザラシやシャチ、そして人間に釣られ、熊や狼に食べられ、生命を全うすることなく海に散るか動物の食料となる。
孵化用の水槽の中で泳ぐ何百という稚魚たち。
その中のいくつかが何気なく網で救われ、何気なく手渡されたプラスチックのカップに入る。
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この稚魚は、今日まで安全な集団生活をしていたのに、この気まぐれな偶然によって、この瞬間、生存率0.1%の過酷な旅に旅立つことになる。
それは幸せなことなのか、不幸せなことなのか。
*
この稚魚の深遠なる旅路に立ち会いながら、自分が親になった瞬間のことを思い出した。
妊娠という準備期間を通して、10ヶ月後に親になることはわかっていた。
しかし、頭でわかっていることと実際の体験にはギャップがあるものだ。
お腹にいた赤ちゃんが、ぬくもりとともに自分の腕の中におちたときに、今までの人生にはなかった扉が急に開いた。
その扉の先に見えた景色は、広大で、見慣れないものだった。
いうならば「娘編」という人生の章の幕が降りて、「親編」が幕を開ける。
え、え、え、今日、この瞬間から?
喜びの中にそんな戸惑いがあった。
時は過ぎ、母親になってまもなく13年になる。
13年前に開いた扉の先の世界は、思っていたとおり、娘として生きてきた人生以上に広く、そして豊かだった。
その世界こそが、いまや私の日常だ。
あのときに戸惑った自分を、懐かしく思う。
稚魚の旅立ちと、娘から母親になったあの瞬間が重なる。
*
行雲流水
“空に浮かび行く雲のように、川を流れる水のように、逆らうことなく自然に移り変わること”
雲は水であり、水は雲である。
その時々に必要に応じて形をかえるけれど、本質は変わらない。
そういう意味だと私は解釈している。
だから、きまぐれな偶然も運命だとしたら、そこに必然的な意味を見出だしたり、辻褄を合わせようとするのは執着なのかもなと思ったりもする。
なぜ?は時に自分自身を縛る呪文になる。
「今日旅立つことになったのだから、旅立つ」
そんなふうにして人生が進むときは、振り返らずにただ進めばいいんだよね。
母親になってすぐの頃は、何度も振り返っては苦しくなった。
「信念」を原動力にして逆らわなくてもよい川を、必死になって逆らったこともあったかな。
それもいい思い出だ。
今は時に、形を変えて柔軟に対応できることも増えたように思う。
*
きまぐれな偶然で、生存率0.1%の過酷な旅に出てしまった稚魚は幸せなのか、不幸せなのか。
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きっと、それは幸せなことだったのだと思う。
稚魚たちの旅の無事を願って。
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