前世の推しとアイドルは、まともな恋など出来やしない
突然だが、前世の記憶はあるだろうか。
人は皆、輪廻転生を繰り返すと言うが、前の世で生きていた事など憶えているわけもなく、人生はニューゲームの状態で開始される。もしかすると、コンティニューかもしれないのに。
はっきり言おう。私には前世の記憶がある。
時代は明治~大正頃。通っていた女学校の通学路に大学があった。自分たちより少し年上の男子学生が行き交うそこを、女学校の生徒たちは憧れの視線を向けていた。男女の距離が今よりも厳しかった時代で、私たちはお互いに思春期特有の視線を向け合っていたのだと思う。ほら、勝手に見て格好いい可愛い言い合うだけの、今だってよくある話。
そんな中、ひと際人気の男子学生がいた。すらっとした体型に艶やかな黒髪、整った顔立ちのその人は、他の学生とは違う空気をまとっていた。彼が通る度女の子たちはひそひそ話を始め、その横顔を盗み見ていた。
かくいう自分もその一人で。話しかける事も出来なかったけれど、彼を見た日には今日は一日上手くいくと本気で思っていたものだ。名前すら知らない男子学生をいつから見かけなくなったのかは分からない。前世の記憶は朧気で、はっきりと憶えているのは彼を盗み見ていた自分。
もし、仲良くなれたらどんな話をするだろうか。どんな声で話すのだろうか。そんな事ばかりを考えたけれど、近づく事すらしなかったのは近づけなかったからではなく、これはただの憧れだと心のどこかで理解していたからである。
そう、言わば。
彼は私の推しだったのだ。
「あ、あの、るりちゃん!!あ、握手を!」
何だって今、この状況で思い出してしまったのだろう。それもこれも、全て、目の前の男のせいである。
瑠璃色のハチマキと法被、リュックに刺さったペンライト、細いフレームの眼鏡の奥、切れ長の瞳が興奮した様子で見開かれている。すらっとした体型を隠すシャツ、艶やかな黒髪は乱れていた。
何で、ここで再会する!?
アイドルグループ‘‘CANVAS‘‘の絶対センター、瑠璃色担当一ノ瀬るりは、今世で初めて、言葉にならぬ衝撃に開いた口が塞がらず立ち尽くしたのである。
数時間前。
『貴方のキャンバスを染めあげる!今最も熱いアイドルグループ、‘‘CANVAS‘‘!』
SNSで流れ始めた自分たちの広告にスキップボタンを押した。すると隣にいたメンバーから抗議の声が上がる。
「ちょっと、全部見て広告収入入れなさい」
「あぁ、ごめん。癖で」
スマートフォンを伏せ櫛を探し鞄の中を漁る。不意に飛び出してきた学生証が床に落ちた。
市来瑠璃。眼鏡をかけたロングヘアーの女子生徒が写っている。長い前髪のせいで顔はよく分からないが陰鬱な雰囲気が見て取れた。
「本当に別人」
「誰からもバレないから結構気楽だよ」
学生証を拾った市来瑠璃こと一ノ瀬るりはそれを鞄に戻し櫛で髪の毛をまとめ始める。後頭部の上半分の髪を左右に分け、ハーフツインにまとめそこに瑠璃色のリボンを結ぶ。これがるりのトレードマークでもあった。
「芸能科に転入すればいいのに」
「うーん、タイミング逃してそのままだね」
るりの隣に座る明るいショートボブの髪を持った女、辻れもんは同じ学校通えるのにと嘆いた。鮮やかなレモンイエローのネクタイが緩んでいる。大きな鏡の前で二人は身だしなみを確認していた。
楽屋は静かで数人のメンバーは机に顔を伏せて眠っている。連日の収録が体力を削ったのだろう。かくいうるりも疲れてはいたが、眠る気は起きなかった。
「今最も熱いアイドルグループ、‘‘CANVAS‘‘!メジャーデビューも間近か?だって」
れもんはるりに自分のスマートフォンの画面を見せてくる。スクロールするとるりがパフォーマンスしている写真が現れた。
「‘‘CANVAS‘‘は高い歌唱力とパフォーマンス、そしてメンバー全員が系統の違う日を持っているのも有名だが、中でもセンターの一ノ瀬るりは圧倒的な清楚美少女だ」
「大袈裟な……」
「瑠璃色担当の彼女は色の名の通り透き通った声とルックスでファンを魅了している。10代が選ぶ美人な芸能人ランキングで、メジャーデビュー前にもかかわらず二位に輝いた」
「SNSでバズった写真が良かったんだよ」
「十七歳の高校生ながら、言動は大人びており謙虚な性格で人気だが一度ステージに上がれば圧巻のパフォーマンスでファンを魅了している」
「……もう終わり!」
れもんの手からスマートフォンを奪い取ったるりは画面を消す。れもんは残念がるも、さすが最強の瑠璃色と彼女をからかった。
「何でそんなに自信ないかな。私がその見た目だったら絶対驕るのに」
「れもんも可愛いじゃん」
「るりの清楚な見た目が強いんだよ!」
確かにれもんの見た目は活発で可愛らしい女の子だ。太陽が似合う容姿で衣装もショートパンツが多い。対してるりはいつも、短すぎず長すぎない丈のシンプルなスカートが多かった。私生活でも二人の服装は似通っている。同い年だと言うのに雰囲気はまるで違うから不思議だ。
「別に謙虚でも何でもないよ、私は私が望むパフォーマンスをまだ出来てないと思ってるだけ」
「完璧主義だなぁ」
頬杖をつきジュースを飲み始めたれもんを横目に、るりはリップグロスを塗った。つやつやと光る唇が真っ白な肌によく映えたのを確認して笑顔を作る。本番前のルーティンだった。
CANVASは二年前に活動を開始したアイドルグループだ。大手事務所でアイドルをしていたリーダーの愛美べにが、パフォーマンスビジュアル、全てにおいて個性的でありながら完璧なアイドルグループを作りたいと願った事が始まりである。
彼女は独立しアイドルグループのプロデュースを始めた。メンバーを募集しオーディションをしていたが、るりはオーディションに参加していない唯一のメンバーだった。彼女はべにが街中を歩いている時に見つけ、口説き落としたのである。
るりは最初こそアイドルなんて人前に立つ職業など自分に出来るはずもないと思っていたが、べにの猛烈なアピールによりアイドル活動を始めた。
元アイドルが自分の理想とするアイドルグループを作った。インターネットが普及したこの時代で噂はたちまち広がった。多くの人たちが期待していたハードㇽを軽々超えてきた彼女たちは、真っ白なキャンバス(ファン)をそれぞれの色に染めるというキャッチコピーの元活動を始め、今ではメジャーデビューも秒読みと言われている。
中でも一ノ瀬るりはその清楚な見た目と透き通った歌唱力、キレキレのダンスを披露しながら謙虚でアイドルらしからぬ大人しい性格で人気を博していた。
そんな一ノ瀬るりは、今日もステージで最高のパフォーマンスを披露する。
否。
した、はずだった。
今日も今日とてステージを楽しみ、パフォーマンスをしたメンバーはライブ終わりの握手会をしていた。たった数十秒のために並んでくれるファンのため、るりは疲れを見せる事無く完璧な笑みを作っていた。
ここで、冒頭に戻る。
「あ、あの、るりちゃん?」
るりの頭の中はただ一言。
なぜ、貴様がここにいる?
「握手を……」
その言葉で我に返ったるりは慌てて相手の手を掴み笑みを浮かべた。掴んだ手は大きく骨ばっている。何とも言えない感情が込み上げてきたのを無視してプロとしてふるまわなければと自分に言い聞かせる。
「ごめんなさい、瑠璃色に染まってたから嬉しくなっちゃって」
「あ、いや、嬉しいです。ずっと応援してたんですけど地方に住んでたから中々ライブに来れなくて……」
「じゃあ今日が初参戦?」
「は、はい!皆、本当に可愛くてかっこよくて素敵だったんですけど、るりちゃんが一番でした!」
「わぁ!初めてライブに来てくれてありがとう!一生懸命頑張ってたからそう言ってもらえると嬉しいな」
「あ、お、俺も嬉しいです!」
「時間です」
彼の手が引きはがされ名残惜しそうに去っていく背中にまたねと手を振った。すぐに次の人が入ってきて握手をする。るりの心臓はバクバク鳴っていた。
「なぜ……」
一人自室のベッドで頭を抱える。ジャージに眼鏡をかけた姿は先程まで輝いていたアイドルだとは思えない風貌だ。
「何で転生してる!?」
枕に顔を埋め足をバタバタと動かした。
「絶対そうじゃん、あの顔、絶対推しじゃん!」
推しなんて、アイドルが言う日が来るとは思わなかった。
「ていうか私が推しじゃん!」
推してた人間に推される日が来るとも。
「何でこんな再会なんだ……」
両手足を投げ出したるりは目を閉じる。まさか、こんな所で会うとは夢にも思わなかったのだ。彼があの後どうなったのか、自分がどう死んだのか。それすら思い出せないのに、彼を目で追って勝手に推していた事だけが、生まれた頃からずっと頭に残り続けていた。
もし彼が転生しているのなら、あの顔だ。アイドルでもしているかもしれないなんて思っていたくらいである。
深く息を吐き二年前を思い出した。芸能界など興味すらなかった頃の自分の事を。べにに初めて声をかけられた時、絶対無理だと思っていた。歌う事は嫌いじゃない、身体を動かす事も、自分がそれなりに整った顔立ちである事も自覚していた。けれど、スポットライトを浴びるような人間ではないと思っていたのだ。
『人前に立つよりも、誰かを推す立場の方が向いてます』
べにはそんなはずないと断言した。そもそも目立つ事があまり好きではなかった。けれどべにはるりの才能にいち早く気付いていたのだろう。
『誰かに推される立場もいいものよ』
彼女の言葉に、前世の記憶を思い出したのが決定打だったと思う。遠くから見ていた彼と同じ場所に行けるような気がしたのだ。そんな訳もないけれど、多くの人から憧れの視線を向けられていたあの頃、どんな気持ちを抱いていたのだろうと思った。何となく、それが知りたくなった。
そうして得たステージは照明が熱くて目も眩むほどの場所だった。それでも視線のすぐ下に輝く瑠璃色が、何よりも美しいと教えられた。だから歌もダンスも人一倍頑張って、私を愛してくれる人たちに向き合いたいと努力を重ねていたのだが。
まさかその中に彼がいるとは思わないだろう。
「あ、名前聞くの忘れた」
握手会では自分を憶えてもらうために名前を売り込んでくるファンがほとんどだ。あだ名をつけて欲しいなど、印象に残る事をしてくれるからこちらも憶えやすくなる。だが彼は応援の言葉を口にしただけで、自分の名前は一言も口にしなかった。
「またねって言ったけど、また来てくれるかな」
その時は聞けるだろうか。前の世の推しの名前を。今は立場が逆転したけれど、瑠璃色に染まった彼を見た時は気分が良かった。
「まさか過ぎる……」
睡魔に身を任せる。柔らかな布団に包まれ、今日も頑張ったと自分を褒めて眠りについた。
そのまさかが再び起きる事を、誰が想像出来ただろうか。制服のボタンを全て止め、膝丈のスカートを折る事さえせず髪を下ろした。分厚いレンズの中に隠れた瞳は地面ばかりを見つめる。
ただの高校生、市来瑠璃の姿がそこにあった。アイドルをしている時とは打って変わり、オーラの欠片もないその姿を道行く人はおろか、同級生さえ気づきはしない。瑠璃の日常はスポットライトに当たっているアイドルの時間とは正反対の物である。
しかし、それを望んだのも本人だ。芸能学校に入らないのも正体を隠しているのも自分自身の意思。アイドルになるまでは目立つ事が嫌だったから、自分らしい選択だとよく思っている。
分厚いレンズ越しに見る世界は、コンタクトレンズを付けて立つ舞台よりもずっと眩しくなくて平凡だ。けれど空は綺麗だし、穏やかで他愛もない日々が映り込む。市来瑠璃としてのかけがえのない平凡な時間だ。
教室に入り自分の席に向かう。瑠璃の姿が目に入ったのだろう、数人の女子生徒がそこから退いた。短いスカート、化粧と髪型は人目を惹く、いわゆる一軍女子だ。彼女たちは瑠璃を一瞥したが興味なさげに他の席に移る。挨拶もない。瑠璃にとってはそれがいつも通りだ。学校に友人と呼べるほどの人間はいない。
正体がばれる事を恐れたからだが、それ以外にも理由がある。友人のいない生活は少し寂しいけれど、放課後になればれもんたちメンバーに会って仕事やレッスンをするのでそこまでの孤独感はなかった。
それに、仕事で休んでも理由を聞いてくる人間がいないのは有難かったりする。基本、休む時の連絡は体調不良だ。この教室で瑠璃は、大人しく身体が弱い冴えない子。
席に着き鞄の中から教科書とスケジュール帳を取り出し今日の予定を確認した。珍しく何もないオフの日だった。いつもレッスンや収録、細かな仕事が放課後に入っているが今日に限っては何もない。こんな日いつ振りだろう。
教科書を机の中に仕舞いながらぼんやりとスケジュール帳を見る。正方形のマスは文字で埋め尽くされていた。
もっと早く気付いていたら、放課後にどこか行く予定でも立てたのに。前に母が行きたがっていたカフェに二人で行く約束も出来たはずだ。今からでも間に合うかな。スマートフォンを手に取ったが、今朝帰りが遅くなると言われた事を思い出しそれを仕舞う。
何だか勿体ない。そう思っても埋める予定すらない。家に帰って気になっていたゲームでもやろうか。そんな事を考えていた時、チャイムが鳴り教室の前の扉が開いた。
建付けの悪いスライドの扉は半分ほど開いた所で止まる。ガコっと力任せに押され再び動いた。パンツスーツに黒縁眼鏡の女性担任は席に着いてと持っていたバインダーで教卓を叩く。生徒たちは文句を言いながらも席に着いた。
「時期外れだけど転校生を紹介します」
突如として非日常を告げられたクラスメイト達はどよめく。それもそのはず、転校生というだけで珍しいのに時期が時期だ。今は五月末、もし転校してくるなら新学期に合わせてくるのがほとんどだろう。
「入ってきて」
開け放たれた扉から現れた男子生徒はネクタイを緩め黒いベストを着てシャツの袖を捲っていた。まるで墨を落としたように綺麗な黒髪、すらっとした体型、後ろの席に座っている瑠璃から見ても端正な横顔が――。
端正な、横顔、が。
「え」
漏れた声は誰にも届かなかった。黒板の前に立った男子生徒は白いチョークで自身の名前を書いていく。書き終え振り返った時、そのイケメンっぷりに女子たちがざわつき始める。
私は、開いた口が塞がらなかった。
「関西の方から引っ越してきた海瀬蓮です、お願いします」
低い声も、切れ長の瞳も、その全てが。
昨日、握手会に現れた彼だったのだ。
「海瀬の席は市来の隣ね、あそこ」
左隣に空っぽの席が追加されていた事に気付き慌てて顔を下に向けた。
これは、まずいのではないだろうか。
完全に彼だ。そう、前世の推し。昨日の姿が予想外だっただけで、元々の彼はこんな顔立ちだった。眼鏡や法被、完全なるオタク装備ですら彼の良さを隠せていなかったのに、そのままで来るとここまで破壊力があるのか。
まずい、瑠璃は胸の高鳴りを制服の上から握り拳で押さえる。これは恋のときめきじゃない。推しが隣にやって来る緊張感と、正体がばれてしまうのではないかという恐怖からだ。
海瀬蓮が隣の席に腰を下ろした音が聞こえた。浮足立った女子生徒たちが彼に視線を向ける。そうだ分かる。私もそうだった。担任の声で皆の視線が前を向いた時だった。
「市来、さん?」
不意に名前を呼ばれ顔を上げる。無表情の海瀬蓮が素っ気なく、よろしくと言った。
これは、ばれてないのではないか?視線はまだ合わせていないが、市来瑠璃が一ノ瀬るりだと分かった人間は家族を覗き一人もいない。メンバーでさえ、この状態で会ったら私だと認識出来ないのだ。メンバーすらも欺くこの見た目を、彼が気づけるわけもない。
何だか安心してきて視線を合わせる。
「よろしくね、海瀬くん」
手を差し伸べた、その時だった。
彼の目が大きく見開かれ顔がどんどん赤くなっていく。一体何だ。首を傾げた瑠璃とは裏腹に、蓮は耳まで赤くして片手で口元を覆った。
「る、るりちゃ、」
ん。最後まで言い切る事無く蓮の身体は後ろに倒れ込んだ。大きな音を立て椅子ごと倒れた彼は顔を真っ赤にしたまま気絶していた。
「海瀬!?」
慌てて駆け寄る担任をよそに、瑠璃は呆然とその姿を見つめていた。隣のクラスの男子教師がやってきて、熱中症だと言いながら彼を担ぎ保健室に向かったのを見送ってからようやく意識が戻って来る。
「終わった」
一ノ瀬るりの、正体がばれた。
遠くから響くチャイムの音にぼんやりとした頭が覚醒を促す。蓮はベッドの上にいた。後頭部が痛む。何故自分は寝ているのだろう。起き上がり辺りを見渡して保健室にいる事が分かった。頭は多分、椅子から転げ落ちた時にぶつけたのだろう。
あれ?でも何で転げ落ちたんだっけ?
段々と鮮明になっていく記憶に、蓮の顔は赤く染まり始めた。
「るりちゃ、」
口から零れそうになり慌てて両手でそれを塞ぐ。
「まさか、いや、でもそんなはず……」
隣の席の市来さん。自分が座るまでずっと、顔を背けていてどんな人なのかも分からなかった。髪は長く眼鏡で顔が見えない。制服をきっちり来ていて大人しそうな印象だった。とりあえず隣の席だから。挨拶だけはしておこうと思って声をかけた、のに。
目が合った瞬間、分厚いレンズの奥に秘めた圧倒的な輝きを放つ瞳に気づいてしまったのだ。あれは、一ノ瀬るりの瞳だ。ずっと憧れだった推しの目。長い髪は艶やかで伸ばされた手は小さく白い、僅かに微笑んだ顔は昨日の満面の笑みとは違ったけれど、間違いなく一ノ瀬るりだった。
推しが、隣の席にいた。
「やばい、まじか」
頭を抱えた蓮に、仕切りのカーテンが開けられる。白衣を着た女性が立っていた。
「あ、起きた?凄い寝てたよ君」
もう昼休み。保健室の先生であろうその人は、笑いながら時計を指差す。針は十二時半を指し示していた。
「転校初日だから緊張して眠れなかった?」
「いや、それは……ないです。でもあんまり寝てなかった」
「ちゃんと寝なよ?」
転校に対して緊張感は感じていなかった。親の仕事の都合で突然決まった転校だったけれど、付いていかなくても良かったのに付いてきたのは訳がある。それも、くだらない理由だった。
明け方まで起きていたのはCANVASのライブ映像を見ていたから。
「ちょっと用事があるから出るけど、戻れそうなら戻るんだよー」
「はい。ありがとうございます」
手をひらひらとさせ保健室から出ていく先生を見送りベッドの上で胡坐をかき目を閉じた。精神統一だ。訳の分からない現実が、実は嘘だったと言ってくれないかと願う。いやむしろこれが夢なんじゃないだろうか。何せCANVASのライブを見に行くためにこっちに来たのだ。アイドルを推し続けた結果見た、都合のいい白昼夢。
「うん、そうだ、そうに違いない」
「あの」
「そもそもこんな所にいるわけがない、有り得ない」
「ねぇ」
「あのるりちゃんが、こんな普通の学校にいるわけが」
「あるんだよね、それが」
瞼を開けた先、風に靡いた黒髪に驚いて声を上げてしまう。
「声かけてたのに気づかなかったから」
ベッドの上で固まってしまった蓮に瑠璃は苦笑いするしかなかった。彼は何度も瞬きを繰り返し穴が空きそうなほど力強い視線でこちらを見つめてくる。
「ほ、ほん、ほんも」
「のです」
教室で見たクールそうな彼の印象はどこへ行ったのか、今は瑠璃を見てあわあわと口元に手を当て正座し始める。
「いや、違う。俺が下だ。ちょっと待ってください」
「何が?」
「今床に正座を―」
「し、しなくていいです!」
ベッドから降りて床に正座をしようとした蓮の腕を掴んだ瞬間、彼は叫び声を上げ床に倒れ込んだ。
「え、何で?大丈夫ですか?」
「あ、わ、わ、る、るりちゃんが、さわ、あ」
限界と化した蓮は近づく瑠璃から後退りベッドの足に抱き着く。不審者を見るような目で彼を見てしまった瑠璃だが、蓮にとってはそれどころではない。何たって推しが、自分の腕を触ったのだ。
「お金出します」
「何で!?」
「腕触ってもらったので、有料ですよね?」
「違うよ!?」
「握手券は一枚千円だから……」
「話聞いて!?」
深い溜息を吐いた瑠璃は椅子に腰かける。そしてベッドのふちを叩いた。
「座って」
「え、でも」
「……推しの言う事が聞けない?」
「はい今すぐ座らせていただきます」
一瞬でベッドのふちに座り正座をした蓮に頭を抱えるのは瑠璃の方だった。
前世の推しが自分のファンで、さらに隣の席のクラスメイトになってしまった。友達になれるかなんて思っていた自分が馬鹿みたいだ。今も、推しの言う事なら聞くだろうと思いわざとその言葉を選んだのだ。
ありがたいのに、何だって彼がガチファンになってしまったのか。遠くから見ていたあの頃から考えも出来ないほどの距離にいるのにこれだ。キラキラした目で正座をした蓮は瑠璃の次の言葉を待っている。まるで犬だ。忠犬かお前は。
手に提げていたビニール袋からパンを取り出す。焼きそばパン、メロンパン、サンドイッチ。何種類かを蓮の隣に並べていく。
「二個選んで」
「え、何で」
「いいから!」
瑠璃の気迫に押された蓮は焼きそばパンと大きなデニッシュを手に取った。瑠璃は余ったパンを取り袋を開ける。メロンパンの生地に被りついた時、サクッといい音が鳴った。
「あげる」
「え」
「お昼ご飯。鞄教室でしょ」
「いやでも、貰えないです」
「推しの言う事が」
「はい、いただきます」
切り替えの速さが引くほど速かった。世のファンは推しからこんな扱いを受けたら同じように返すのだろうか。瑠璃には理解出来なかった。しかし、蓮がパンに口をつけた所で瑠璃は食べるのを止める。
そう、これを待っていたのだ。たかが数百円で買収出来るなんて思ってもいない。しかし蓮に恩を売る事が、瑠璃の目的だったのである。
「食べたね?」
「はい、めっちゃ美味しいです!」
「食べたなら言う事聞いて」
「え……」
口元についたソースが整った顔に合わなくて何だか面白いと思ってしまった。けれどそんな事を言っている場合ではない。瑠璃は背筋を正し咳払いをする。
「あの、るりちゃ―」
「市来瑠璃」
「え?」
「今の私は市来瑠璃。ただの高校生」
だから、るりちゃんって呼ぶな。睨みを利かせれば相手は喉を鳴らし、市来さんと口にする。
「一ノ瀬るりとしてアイドルをしてるのは隠してるの。これまで誰も気づいた事はなかった」
「……俺以外」
「そう。私はアイドルとしてお仕事を続けていきたいけど、それと同じくらい市来瑠璃としての時間が大事なの」
本当は。言いかけて止めた本音を飲み込み、とにかくと話を続ける。
「それは賄賂」
「パンがですか」
「私の正体ばらさないで。もしばらしたら、」
「ばらしたら?」
恐る恐る聞いてきた蓮に瑠璃は言い切った。
「今後、君をCANVASが行う全てのイベントで出禁にします」
「……ハァッ!!」
あまりの衝撃に開いた口が塞がらない蓮の手から食べかけのパンが膝の上に落ちる。震える唇、切れ長の瞳はこれでもかというくらい開かれ瞬きすら忘れていた。
さすがに言い過ぎたか?瑠璃は可哀想に思ったが、それくらい言わないと安心出来なかったのだ。瑠璃に一ファンを出禁にするほどの力はない。けれど口先だけでも言っておかないと、今後の平穏が崩れ去ってしまいそうだった。
どのくらい固まっていたのだろうか。蓮は拳を握り締めた。
「約束、します」
「本当に?」
「はい絶対にるりちゃ……市来さんの正体は話しません」
命に代えても。心臓に手を当て真っ直ぐこちらを射抜く蓮を不覚にも格好いいと思ってしまったが、言っている事が全然格好良くなかったので瑠璃は何とも言えない気持ちになった。
「絶対ね」
約束。瑠璃の言葉に蓮は何度も頷いた。ひとまず安心してもいいだろうか。瑠璃は肩の荷が下りた気がした。食べるのをやめていたパンに再び口をつける。蓮はそんな瑠璃の様子を見て自分もパンを食べ始めた。
「あの、」
「何?」
「何で芸能学校とかに入らないんですか。る……市来さんなら充分資格があるのに」
「……気が乗らないから」
それだけではないけれど、芸能学校に入れば嫌でも一ノ瀬るりとして生き続けなければならない。周りは芸能人ばかりだから、どこで何をばらされるか分かったものじゃない。実際瑠璃と仲のいいれもんは同じクラスのグラビアアイドルに、授業での様子や普段はそこまで明るくないなど、営業妨害と言われてもおかしくない事を暴露されていた。
プライベートでも完璧なアイドル、一ノ瀬るりでいる事に自信が持てないのが理由の一つでもある。後は学歴の事だろうか。芸能学校にいれば支援は受けられるかもしれないが、今通っている高校は偏差値も高く大学受験の推薦が多い。瑠璃がアイドル活動をするに辺り両親から条件として出されたのが、きちんと大学まで卒業する事だった。
アイドルの全盛期は十代から二十代、青春の全てをアイドル活動に捧げる。けれどその対価は大きい。活動をすればするほど普通の生活から程遠くなる。さらにいざアイドルを辞めた時、残るものがほとんどない。例え辞めたとしても困らないように、勉強はちゃんとしておきなさいと言われた。
瑠璃もそのつもりだった。なんせアイドルを辞めた後の事など考えもつかない。
引退するか、芸能活動を続けるか。何も考えていないのだ。だからいざその時になって選択肢が少しでも多ければと思い、指定校推薦が沢山あるこの高校に通っている。
「まぁでも、普段からるりちゃんなわけじゃないか」
「え……」
「あ、いや、だってそうじゃないですか?俺たちの前ではキラキラ輝いてるけど、普段からそんな輝いてたら大変だし、アイドルだって人間だし」
蓮は本気でそう思っているようだった。瑠璃は驚いてしまう。だって今まで、そんな事を言ってくる人なんていなかった。アイドルはアイドルだ。プライベートまでアイドルで、だからこそ恋愛禁止と決められたりする。多くの人に愛されて、多くの人に恋をさせる職業なのだ。
ファンが見ているのは所詮綺麗に切り取られた偶像に過ぎない。でもその偶像が全てだと思われる。そんな職業。
でも蓮は違う。アイドルだって人間だと言えるファンが世界にどのくらいいるだろう。分からないけど、瑠璃にとって彼の一言はこれまでの考えを変える言葉だった。
「だから、今は市来さん。俺はただの高校生海瀬蓮」
「うん」
「ステージに立ったら君はるりちゃん、俺は沢山いるファンの一人」
そういう事だ。一人納得した様子でパンを平らげた蓮はごちそうさまでしたと口にする。瑠璃は呆然とその姿を眺めていた。
「あ、の?」
けれど蓮にとっては推しの視線がこちらに向いている事が耐えられなかった。あの輝く瞳で見つめられたら数秒で昇天すると思っているからだ。瑠璃はハッとしてパンのゴミを持っていた袋に入れる。
そして、蓮に手を差し出した。
「握手ですか!?」
「そうだけど違う!ていうか敬語止めて!クラスメイトなんだから」
「あ、そっか。あー、はい……うん。市来さん」
瑠璃は深く息を吐いてもう一度蓮を見つめる。一体どうしてこうなったのだろうか。いくら考えても出ない答えに呆れてしまいそうだが、今の自分たちは市来さんと海瀬くんだ。
「学校では、友達としていてくれる?」
「え」
「……正体隠してるから学校に仲良い人っていなくて。でも海瀬くんなら知ってるし、ちゃんと隠してくれるだろうから」
だから。瑠璃はもう一度手を伸ばす。
「私と友達になってください、海瀬くん」
きっと、その日の事はいつまでも忘れないだろう。五月の昼下がり、開け放たれた窓から吹く風に揺れるカーテン、食べ終わったパンの匂いが僅かに鼻を掠め瑠璃の長い髪がなびき僅かに緊張した笑みを浮かべている。
蓮はゆっくり手を伸ばし自分よりもずっと、小さな手を握った。握手会の時とは違い、片手で包み込んだその手は昨日よりも温かくて、昨日よりも生きているように思えた。
「うん、よろしく市来さん」
綻んだ瑠璃の顔を見て高鳴った心臓は、ステージにいる彼女を見ている時よりもずっと速く動いていた。
この先何があろうとも、変わらぬ関係性を貫く事を決めた意志は、積み重なる時間によって、崩れていく事になるのだが。
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