なんて、しょうもない日々に告げる。
泣いたふりをした
最後に泣き真似をしたのはいつだろう。多分子供の頃だと思う。遡る事20年前くらいだろうか、嘘泣きで人の関心を得られる時間はそう長く続かなかった。
どれだけ泣き真似をしても構ってはもらえない事に気づくのは随分と速かった。それが良いか悪いかは未だに分からない。ただ泣き真似をしようがしなかろうが、変わらないと気づいたのだろう。
平々凡々な人生、愛は平等に与えられず、嘘をついて関心を得ても欲しかった物は手に入らない。人間なんぞそんなものである。
それなりに大きくなった時、ふと、上手に泣き真似をする人間が一定数いる事に気づいた。か弱く見せれば構ってもらえる、可哀想と関心を集め欲しい物を得る姿は正直、か弱いというより食虫植物かよと思ったものだ。ハエトリソウ、ウツボカズラ、モウセンゴケ。人類の中には一定数、食虫植物系が紛れ込んでいるらしい。
どうしていくつになってもそんな事が出来るのだろうと、遠巻きに相手を見ていた事がある。不思議だったのだ。だって自分は早々に意味がないと気づいてしまったから。関心が向かなかったから。何で出来るんだろうと、興味本位で観察するあたり、こういう所が君の悪い所だぜって私は私に言い聞かせているんだけど。
話を聞いて、生き様を知って、今を見て。なるほどと思った。食虫植物系の人間は子供の頃に、泣き真似をしてか弱く見せれば自分に関心が向く事を成功体験として持っているのだ。つまり、幼少期の私もそこで成功すれば今でも同じ事をしている可能性がある事に気づき、いたく感心した覚えがある。
まぁ、死ぬほどどうでもいい話なんだけど。
大人になればなるほど、自分の冷めきった部分と向き合う時間が増える。というより、どこか俯瞰して世界を見ている。自分を客観視する癖がある。これは悪い意味ではなく、思考の世界に放り出された時、遠くから見ているような感覚に陥る事が多々あるのだ。幼少期からその節はあったが、年々、ていうかこの職業に就いてから余計に強くなった。
思考の世界に溺れれば溺れるほど、人はどこか一点に集中するものだと思っていた。簡単に言うと、ガムと飴が好きだったのに、ガムだけを突き詰めて飴がどうでも良くなるような感じ。私の思考は偏るものだと思っていた。まぁ偏っている所は偏ってるんですけどね。
ただ生きてきて、色んな人と出会い触れ離れてを繰り返せば繰り返すほど、人間界には色んな人がいてどうしても分かち合えない人がいる事を知った。差別は結局、嫌悪や恐れから生まれるものだと気づいた。自分を含む人間は、どいつもこいつもちっぽけな存在だと分かった。
宇宙単位で見たら我々なんぞアリの巣みたいなもんだと思っている。規模が変わるだけの話。社会の縮図はどこに行こうが何をしようが差して変わらない。
だから食虫植物系になれなかった事に、羨ましさを抱く必要はないと知った。
少々サイコパスな発言をするが、個人的に思っている事は、どれだけ肌の色、思想、宗教、性別、ありとあらゆる物事で優越をつけようが、人間なんぞ面の皮剥いで並べても素人目で見たら誰が誰だか分からん。
じゃあそれでいいじゃん。何も言い合う事ないじゃん。変えようのない物事に対して相手を傷つける必要はないじゃんと、大人になるまで言えなかった。10代の頃は自分の事ばかりで周りなんて見えなかったから、見知らぬ世界で何が起きてようが知ろうともしなかった。
今でも自分のテリトリーに入ってこなければ構わないと思っている節はあるけれど、他人に対して寛容になったと思う。寛容になったというより、興味が無くなったという方が正しいだろうか。いい意味で、自分の事ばかりという思考がマイナス的な物ではなくプラスになったから。
まぁ何が言いたいかって。随分丸くなったのだ私も。
多くの人が考えるような平均、普通に当てはまらない人間だと分かっているから。ようやく周りも分かってくれたから。それに対して合わせなきゃと思う考えもないし、皆違って皆良いんじゃない?おもろいし。生来持っていた思考だけど、ここに来るまで随分と時間がかかったねとも思う。
だから友人たちのぶっ飛んだ経験談に対し、笑い飛ばせるんだろうけど。
食虫植物系になれなかろうが、媚を売れなかろうが、残念な事に私は私である。キャラじゃないとか何を言われようが、それは他人が勝手に求めた私の理想図なのだ。つまり、私はここから何者になってもいいし、どんなことをしようと構わないのだ。結局、怖かったのは他人の目だと悟った。
他人に言われたからこうしよう、ではなく、私がこうしたいからやる。意見を求める。そういう考えになればなるほど生きやすくなった。これはあくまで私の話なので、皆が皆そうじゃないとも分かってるから真似しろとは言わない。
ただ上手くいかなかった事も、苦しかった日々も、ちゃんと意味があったんだと言えるようになるまでどれだけ時間がかかっただろう。
今の私が、どうしようもない時間に意味を持たせる事が出来るような人になれたから。現状に満足しているわけでもないけれど、振り返った時に無作為に時間を消失してきたわけではなかったのだと、言える人になれたのはきっと大きい。
あと何歩で叶えたかった物事に手が届くだろうか。あとどれくらい研鑽を重ねれば花束みたいな幸福を抱えられるだろうか。一本一本、地面に捨て去られた花を拾い集め、大切に抱え愛で続け、あの頃の自分を救うのは今の自分しかいないんだよと言い聞かせる。いつか、両手いっぱいに抱えた美しい色彩に満足出来る日が来るだろうか。
いつかの、無彩色しか手の中になく、現状に嘆くしかなかった自分に言おう。色彩は与えられるものではなく、自分から色づけにいくものだと。しょうもなかった日々に言おう。もう帰れないから美しいんだって。
なんて、ちょっとした話をしながらも寒さに鼻を啜った。何だか泣き真似みたいだと思い思わず笑ってしまう。今日もまた、しょうもない日々を積み重ねては文字を綴る。