青い春が一瞬だと気づいたのはダイヤモンドの輝きを知ってしまったからだ
好きな人がいた。一生に一度の恋だと思った。そんな時期をほとんどの人間が通り過ぎてきた。
大人になるにつれ時間が過ぎるのが早くなった。当時と同じ時間を過ごしているはずなのに何故だか一瞬で過ぎ去っていく。
いつの間にか、一人暮らしを始めて一年が経った。あっという間の一年で振り返ってみても、本当に一年が経ったのか分からないくらいだった。でも間違いなく一年は過ぎ去っている。
子供の頃、一日が長かった。早く終わらないかなと思っていたし一週間が、一ヶ月がとても長く感じた。けれど長期休みが早く感じたのは楽しかったからなのだろう。
今は一瞬だ。長期休みが早く感じたあの頃とは別の感覚で時間が過ぎていく。悲しきかな、大人とはそういうものである。
どうしてそんなに早く過ぎていくのだろう。私は過去と現在を比べてみた。
そして気づく。子供の頃は毎日が休みだった事に。
学校も塾も習い事も部活も、全部本気でやって来た人がいるのは事実だ。でもそこに責任が加わるかと言われたらまた変わって来る。どこに行っても友人や同級生、他の人がいて集中し続けなくてもいい環境。
というより、自分自身に責任を感じ、課せなくてもいい環境。
大人になったら呆然とする時間が減った。授業中どこかにトリップするのも、帰ってきて好きな事をする時間も変わる。拘束される時間がそもそも変わるのだ。
もしかすると働いていない人は今も同じように時間が流れているのかもしれない。数ヶ月ほど作家活動だけで生きていた時間があるけれど、その時同じような事を思った。
けれど時間の使い方が変わった我々はもう二度とあの頃のように時間が過ぎるのが遅いと嘆く事は無いのだろう。明日になったら遠足だから。ワクワクして眠れない日がどれほどあっただろう。ちなみに、これに関しては別の意味で今でも寝られなくなったりする。遅刻しそうだなと思い焦りで寝られなくなるのだ。前科ありなので。
夏休みが待ち遠しい気持ちはいつの間にか連休が待ち遠しい気持ちに変わった。でも二度と、あれほどの長い休みを駆ける事は出来ないだろう。日本にバカンス制度は存在しない。もしあっても、日々の家事や細かな時給の発生しない労働でどれだけ削れるだろう。
呆然と日常の過ぎる遅さを感じていたのはそんな労働を自分自身が行ってこなかったからだ。両親がそれを行っていたからだ。もし当時から一人で暮らし家事も仕事も行っていたら日常は瞬く間に過ぎていっただろう。
忙しいほど、時間は早く過ぎていく。
人生100年時代と言われるようになってからよく思う。もし本当に100年生きられるのなら、働くペースを間違えてはいないかと。5分の1で作り変えたなら労働は30~60の間に留めるべきではないかと思うのだ。これは仕事がしたくないからとかじゃない。
純粋に、働かなければ生きていけないけど、毎日を仕事というお金稼ぎに奪われていった結果我々は空を見る事さえ忘れかけているような気がしたからだ。心の余裕を奪われ疲弊していく。それでも余裕がある人はいるからお前だけじゃないと言うかもしれないが、それは結構特殊な例だ。
人には人のキャパシティーがあって、その大きさは他人に測れないのだから。
ふと、好きな人がいた学生時代を思い出した。毎日が微かな希望の連続だった。今日は話せるだろうか、おはようは、また明日は言えるかな。他愛もない会話をどれほど出来るだろう。満員電車に揺られながら考えた日が、多くの人にあったのだろうと考えた。
車内で今日も見つけた。こっちを見た。最寄り駅で偶然会った。朝、おはようと言えた。休み時間二人だけで話せた。放課後ちゃんとまた明日と言えた。
そんな、くだらない日々の連続は明日を信じてやまなかった。明日になればまた会える。明日になったらちゃんと言えるだろうか。明日も一緒にいられるかな。小さかった希望はどんどん大きくなっていく。
日々が放物線を描いたホースが撒き散らす水のように、冷たくて君を反射させて光を吸収し地面に吸われていく一瞬なのにそれが永遠に続くと感じていた。
一生に一度の恋だと錯覚して、この日々がいくつになっても続くと信じてやまなかったのだろう。君も僕も皆、そんなものだ。
でもそれが一瞬だったのだと今だから言える。永遠になる人はごくわずか、そうなったとしても輝きはあの頃と全く違う色彩を放っただろう。
いつから飛び散る水滴よりダイヤモンドの方が美しいと思い始めたのだろう。
いつから慎ましい生活より華やかな生活を求め始めたのだろう。
いつから、現実に気づき始めたのだろう。
愛があってもお金がなきゃ生きていけないって、どの瞬間に人は気づいたのだろう。もしデータがあるのなら見せて欲しい。大体何歳くらいからとか書いて欲しい。関係のない話だが私は結構論文やくだらないデータを見るのが好きだ。
私は何度も思うのである。
飛び散る水滴と薄水色に包まれた教室が美しかったのは、今が永遠になると信じていたからだ。
光り輝くダイヤモンドと広い部屋が安心するのは、未来に安定を感じさせるからだ。
もう二度と、あの瞬間には戻れない。だから青い春は美しいまま人々の心に残るのだと思いながら、ダイヤモンドも広い部屋もないここで私は今日も現実と空想の狭間を行き来するのである。
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