水飛沫に鏡面世界、あの日にあった童心は薄れたが
水溜りに飛び込んだ時のような無邪気さを、忘れずに生きていたら幸せだったろうか
子供の頃水溜りを見るのが好きだった。鏡面世界、浮かび上がる空に覗き込む自分の顔。反対側に、世界があるみたいだった。
一歩踏み出したら足が沈んで、反対側にいけるかと思っていた。飛んで跳ねる水しぶきも、泥にまみれているのに綺麗に思えたのも、子供特有の純真さで出来ていたのかもしれない。
今はどうだろう。水溜りに飛び込むなんて絶対無理だ。靴も服も全部汚れてしまう。目の前にあったら確実に避ける。
ただ雨の日に水溜りを避けきれなかった場合のみ水が薄い所に飛ぶのだが、極力避けたいよね。後が面倒だし。
いつの間にか水溜りに映る自分を見る事がなくなって、代わりに現実を見るようになった。空すら見ず中途半端に下を見るようになった。
童心は消え去った。
と、思ったのだが私の童心は残念ながら消えていなかったらしい。
サンダルで水溜りを思わず踏んだ時、やってしまったより思わず噴き出した。えぇーやっちゃうんだ笑える―みたいな。心の中に飼っているギャルが盛り上がる。
何歳だ、子供か、お馬鹿か。誰かが見たら口にするような、年相応でもない行動を私は一人、楽しんでいた。
また一歩、わざと水溜りを踏む。飛沫が上がる。35度越えの天気で日傘を差しながら水溜りを覗き込んだ。
大人になった私が覗き込んでいる。日傘の隙間から覗く青はあの頃と同じ色彩だったか。
パチパチと目を瞬かせ、覗き込んだ世界の果てで見えた色彩は、きっともっと綺麗だったのに。いつから鈍色になったのだろう。
世界があの頃の鮮やかさに戻るまでどれくらいの時間を有するのだろうか。
いや、きっと戻らない。
幼い瞼から見た世界の情景は、美しさは、きっと戻らない。あの頃の自分にしか感じられなかった世界があって、色彩があった。初めて会った世界の美しさは、日に日に慣れて鮮やかさが分からなくなったのかもしれない。
これが、歳を取るって事なのだろう。
でも私は忘れていない。水溜りを踏んだ瞬間も、鏡面世界も空の色も、全部全部忘れていないのだ。避けるようになっても、見えなくなっても。私はそんな世界を愛して歩き続けてここに来たのだから。
何だか気分が良くなって、額から溢れた汗すら気にせず耳から流れる音楽に乗って足取りは軽やかになっていく。サンダルの水気はすぐに飛ぶ。坂道に入道雲が覗いた。
ああ、夏だ。
馬鹿みたいに暑くて、人類全てを殺してしまいそうなほどの太陽光が燦燦と降り注ぐ。息が、苦しい。アスファルトに卵を落としたら火が通りそうだ。肌がひりついて気を抜けば眩暈がしそうになる。
そんな、世界の片隅に残った童心が声を上げた。
「くだらない日々こそ美しい」
なんて、歳を取ったからこそ思える一言が口から零れた。
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