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人生がひとつの物語だとしたら、最期を決められるようにしておいてくれ
人生がひとつの映画なら
なんて一文から始まる物語を書いた事がある。起承転結の起は必ずしもこの世に生まれ落ちた日ではない。私は勝手に、初めて自我を持った日だと考えている。
自我と言っても幼い子供が持つそれではなく、今後の人生を左右してしまうほどの選択がいつの間にか目の前に訪れ、全てが終わってようやく自我を持つような感覚。その選択が間違いであろうがなかろうが、自分の手で初めて選び取る取り返しのつかない人生の選択を超えた時が、私にとって自我の芽生えであると考えているのだ。
大人になってから、生まれたばかりのような感覚を味わっている。それまでのうのうと生きてきただけの、先がそれなりに見えてきた人生。ただここ数年でようやく自分の力で得た選択の結果に満足して、楽しいと言えるようになれた。
ようやく水中から顔を出し、この世界で息をし始めたのだと思う。
人生はしばしば、物語のようであると思う。
一冊の本、一本の映画。印象的なシーンは絵に残り、幕間で日常が過ぎ去っていく。書き始める選択をした日から、もしくはそのずっと前から、私にとっての人生は一つの物語だ。
物語と称するのは、そうでなければ飲み込めないほど辛い事や悲しい事が溢れ返っているからである。今は何章の何行目なんだよ、ここでは主人公が辛い経験をするのさ。でも安心して。この後ハッピーエンドに結びつくから。などと言われないとやってられないくらい、色んな事があったからだと思う。
最初からそういう物語でしたと言われれば、仕方ないなって思えるのだ。勿論、物語だからこそこの先の未来をより良い筋書きにしていきたいと願い歩を進める。
私という物語が一冊の本になった時、駄作と呼ばれてしまうのが嫌だから。
せめてより良いものにしよう、私の人生を幸せに出来るのは私だけなのだから。期待することを止めた日にそれを学んだ。
子供の頃、かかりつけの病院で置かれていたおとぎ話を読むのが好きだった。熱で浮かされた頭、怠さで身体をソファーに預け、それでも手にしていたのは人魚姫。
片想いをして声と足を引き換えに人間になり、想いを伝えることもせず他の女に恋した男を奪われ、それでも殺せずに泡になって消えゆく馬鹿な女の話を、私はどんなおとぎ話よりも好きだった。
硝子の靴を落としたら国中を探して見つけ出してくれる王子様、百年の眠りに待ち続ける女と毒林檎を食べて死んだはずの女を口づけ一つで救ってしまうご都合展開。
めでたしめでたしで終わる結末を、羨ましいと思いながらも物足りなかった。
何度でも言うが、私は人魚姫の物語を、世間知らずのお嬢様が代償を払ったくせにアピールもせず恋に破れ自死する馬鹿げた物語だと思っている。海に溺れた貴方を助けたのは私です、くらい言えばよかったのだ。詳細を突っ込まれたら濁せばいくらでも伝えられた。
好きの気持ち一つ取ってもそうだ。最後に欲しい物を手に入れるのは強欲で我儘な人間に他ならない。結局のところ、どれだけ想っていたとて行動しないと伝わらないのだから。
自死を選ぶ最期を、自己犠牲の美しい愛だと言うかもしれないが、正直蓋を開けてみればジュリエットと同じようなものである。愛する人がいない世界に意味が無いと言って死んだ彼女と、愛する人を殺してまで戻りたくはないから死んだ彼女。若さはいつだって突拍子のない選択をしてしまう。
ではなぜ人魚姫が好きだったのだろうと考えた時に、その馬鹿なところこそ、この物語の美しく色づけていると思っていたからなのかもしれない。
そして、最期を自分の手で選ぶ強さに薄水色の儚い雪のような、どこかで溶けて消えてしまうくせに思い出を残し、いつまでも心のどこかで生き続けてしまうような感じがどうしようもなく美しかったのだと思う。
辛抱強く我慢して、いつか来るかもしれないラッキーを待ち続けるのではなく、
この物語は自らの手で選び、決断し、終わらせた物語だからだ。
その強さこそが、愚かにも美しく、人間が選択出来る物事を超越した何かを感じたのだと思う。
だって人はもっと醜くて酷い。幸福な人に後ろ指を差し、引きずり落とす好機をうかがっている。ニコニコ笑っていると思いきや裏では馬鹿にして、顔も知らない誰かに酷い言葉をぶつけてはストレスを発散し、小さなミスを責め立て文句を言う。関係のない人間ほど声が大きいのを、インターネットが当たり前になった世界のせいで笑ってしまうくらいに目につく。その度、私の目は美しいものを見るためにあるのに、否が応でも汚いものが入ってきてしまうと嘆くのだ。
最も、私自身美しい内面を持っているわけでもキラキラした生活を送っているわけでもない。何なら基本人間は自分を含めて全員くそだから期待するだけ無駄だと思っているし、ほぼ外に出ない生活を送り一日中パジャマで生きている。
けれど私の中にある感性が美しいものを眺めたいと願うので、見て聞いて吸収して、終わっている性格を補強するかのごとく美しいもので固めていくのである。
人魚姫もロミオとジュリエットも、女性が選択する物語だ。他のおとぎ話が悪いと言っているわけではない。ただ結婚が女の幸せだと決めつけられ、仕事も夢を追う事も出来ず、家に入るしかなかった当時を考えたら、非常に先進的だと思うのだ。
だって王子様のキスを待つだけの女じゃないから。
私は多分、自分で死ぬという選択をした人魚姫の強さが儚くも美しいと思ったのだろう。自己犠牲の愛として見たわけではなく、人としての美しさを愛していたのだと思う。
死に方を自分で決められるほど最高な事はないんじゃないかと思っている。残念ながら人間界は死に方を選べず死ぬのがほとんどだ。病気に衰弱していく身体、突然の事故、一瞬の死。世界は今日も理不尽に人の命を奪っている。
美しい人から死んでいくとよく言うが、あれは実際美しいわけではなく、周囲が個人の思い出を脚色して美しく魅せられただけなのだろう。脳は盛り癖があるので、思い出は基本脚色されていると思っていい。
若くして去った事実が辛くて悲しくて、受け入れがたいから美しい人から神様が奪っていくと言ったのだと思う。実際私も愛した人が若くして亡くなったら同じ事を言うのかもしれない。いや、嘘、言わないかも。私にとっては美しく眩しい人だったとだけ言って周りに同じ気持ちを求めないだろう。
だってその悲しみは自分だけのものだから。
そう言いながらも、死んだ時に惜しまれる人であればいいなと思う。その辺で野垂れ死に、誰も存在を知らず塵となって消えていく。そんな末路もいいけれど、きっと人は本当の意味で一人にはなれないからそれは難しそうだ。生きている限り、孤独だと思えても。人との関わりがないと話しても。本当の意味で一人になる事は難しい。
誰かの記憶に自分がいる限り、一人にはなれないのだと思っている。
明日、私を誰一人として思い出す事もなく、最初からいなかった状態になるのならそれが出来るのだろうけど。
何にせよ、人生は物語のようだと思っている。これは私が作家だから物語だと言っているのだとも思っている。もし絵描きだったら一つの絵画だと言うし、映画監督なら一本の映画だと言うから。
分厚さは人それぞれ違う、装丁も、文字の大きさも一人一人違う。古びて題名の読めない表紙もあれば、プラスチックみたいに透明な表紙もあって、丸文字だったり癖のある字だったり、辞書と絵本レベルで違うかもしれない。
でも、それは間違いなく自分という人生の物語だと思っている。
私の物語が面白いものであればいい、そのためには私が面白くしなければなんて思いながら、真昼の雲一つない青空のような装丁か、夜の浅瀬に打ち付ける月光と星々の明かりを反射させた波のような装丁、はたまた他の装丁か、選べるのならどれにしようと馬鹿げた想像を繰り返すのだ。
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![優衣羽(Yuiha)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/72562197/profile_e54491ccb68ce05a148717f2e8a06c56.jpg?width=600&crop=1:1,smart)