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深海を照らしていた光は今、心臓の真ん中で輝いている

忘れられない瞬間がある。

午後一時、靡く薄水色のカーテン、黒板を弾くチョークの音、水平線のような空、制汗剤の匂い、薄手のシャツ、誰かの寝息、静かな教室。

電気のついていない室内が陽の光だけで照らされている。優しいその光が、子供の頃からずっと好きだった。今でも陽が暮れるまで電気はつけないし、目安はキーボードを打ち間違えるくらい暗くなるまで。

小さな声、息遣い、酸素を求める魚のようにパクパクと動かして。その先には忘れられない人生の欠片がある。

当時はこんなにも憶えているような瞬間になるとは思えなくて、一瞬は一瞬で消え去るのだと知らないまま当たり前が続くと思考の底面がまるでそれを基礎だとでも言うように信じていた。止まない雨はないように、明けない夜はないように、太陽が沈まないわけがなく、命はいつかどこかで終わる。

そんな当たり前の事が、自分の人生に対して何故か対象外だと思っていたのだろう。人は自分にとって都合の良い事は起こると信じているくせに、悪い事は起こらないと思っている。けれど実際、人生は悪い事の方が起きやすい。それはきっと都合の良い事として望む物事があまりに不可能だから。宝くじが当たるとか、白馬の王子様が迎えに来るとか。

ガラスの靴を履いてもないくせに、追われて選ばれハッピーエンドを迎えると思っている。優しく可愛らしい理想の相手が、自分だけを愛し、支えてくれると思っている。そんな訳がないのに、相手にそれを求めるのは酷すぎるだろう。

願うなら自分が変わらなければ。求めるなら与えなければ。先に動かないと理想は手に入らない。妥協して時に洗練して、時間は過ぎ去り人は成長していくのだろう。

何にせよ、忘れられない瞬間がある。春の午後、シーツを照らす陽の光とか、木漏れ日、夏の夜、一日中降る雨、散った金木犀、白い息、鼻の奥がツンとする季節。思い出は五感と結びつくから、嗅げば当時を思い出したり、聴けばあの日に戻ったり、そうやって生きてきた時間が顔を出す。

いつか消える時が来るだろうか。なんてずっと考えていたけれど、もう随分と薄れてしまったと思う。特にここ一年ほどで積み重ねた時間よりもずっと遠くに行った気がした。思い出す事さえ無くなり、センチメンタルに浸って目を伏せる事も無くなった。正直無くなれば無くなるほど精神的にはいい。

忘れるという事は消える事ではなく、頭の奥、引き出しに仕舞ったものがどこにあるか忘れてしまった感覚に近い。消失ではなく埋まる。タイムカプセルを開けるには土を掘り返さないといけないように、仕舞った場所を憶えていて、それをもう一度見たいと願わない限り、人はスコップを持たない。

いつまでもスコップを持っていても何も変わらないと知っていながら掘り返したくなる。そんな精神状態は多分きっとよくなくて。過去に縋るしか出来ないという事は今を生きていないのと同じな訳で。それを知らずのうちに過ぎ去った時間が教えてくれた。

ここ一年の私が今を生きているから、振り返る時間さえ勿体ないと思うほど前を向いて先に歩きたがるから。忘れられなかった全てが遠ざかった気がする。ずっとずっと、遠くにいる気がする。

壊れた心を繋ぎ留めるのがテープでもホッチキスでもなく、金継ぎになったように。完全に元に戻そうとするのではなく、元の姿を愛しながらさらに美しくするように、思い出全部を抱きしめて歩けるようになって変わった。人に対して重みを見るようになった。

この人はどんな人生を送ってきたのか、どんな経験をしてきたのかは顔を見て話せば大体分かる。視線、口調、話の引き出し、外見、好きな物、口角は上がっているか下がっているのか、刻まれた皺は眉間か目尻か。服も見た目も口調も背筋も表情も何もかも、歳を取れば取るほどその人の人生を現す。

面倒な人間は大体口角が下がっているし、すぐ怒る人はやっぱり眉間に皺がある。ゲラの人は目尻に皺があって、口角は緩い。視線が合わない人はコミュニケーションを取る気が無いのだと思うし、もし会ったとしてもこの歳でそれをやって来る感覚の人間なのかと思ったりする。

良いか悪いかは別として、何となく自分と合う合わないが歳を取れば取るほど分かりやすくなっていく。仲良くなれる人の意識は似通っている。服装や表情まで似ていたりもする。人間はこうやって集合体を作るのかなんて、集団の中で話しながらふと視線を外し客観視してしまう度に思う。ああ、人って面白いなあ、なんて。年々そう思える事が増えたのは良い事だ。

あれだけ今が嫌で、早くどこかに行きたいと願った十代は、過ぎてしまうと何が良くて悪かったのかを理解出来たりする。生きてきた場所が狭い世界だったのを気づく事になる。世界はそこだけじゃないと知る。今が苦しくても過ぎ行く時間の中で自分が自由になる選択をし続ければ、人はどこにだって飛んで行けると知った。

それと、世の中は想像よりもずっとろくでもなくて酷いけれど、日常を同じ色にするかは自分次第なのだと気づいた。今が楽しいと生きている人は若いと環境、初期ステータスがいい場合が多い。歳を取っていると自分が関曲を作った場合がほとんどだ。初期ステータスがゲット出来なかった場合後者にかけるしかないんだよね。だって魔法が使えないのに魔法使いにはなれないじゃん。

我々が求めていたのは全員が魔法を使えて各々得意魔法が違うような環境だったのに、蓋を開けてみれば魔法が使えない、しょぼい奴も結構いて。でも使い方次第でいくらでも化けるのに、攻撃魔法しか教えてもらえなかったからその中で甲乙をつけていただけだったのだ。

ファイアよりグラビテの方が使い勝手がいいのに、若い頃は派手なファイアが人気なのである。

けれどファイアしか使えないままなら、この先の人生は大したものにならないだろう。ファイジャまで行ったら話は別だけど、そもそもファイジャまで使える人間は極々わずかだ。

グラビテと剣技を覚えたら、やれる事は広がるだろう。ついでに赤魔法なんか習得しちゃったら完璧になるかもしれない。

人生って多分こういう事で、持っている手札の初期値が高い奴は早めに脚光を浴びるけど、それに甘んじていたら手札を強化してきた人間に一瞬で裏返されるのだ。一番いいのは初期手札から自分の才能を見つけ出し、それを磨く事だろうけど、まあ難しいだろう。

手札が多ければ多いほど選択肢は増え、世界は拓いていく。そうして人は過去を思い出さなくなる。狭い世界で起きた小さな事件など、目の前に広がる世界で起きた事件よりもずっと馬鹿げていてどうでもよくなるから。

時折思う。まだ世界を拓いている最中だと。けれど広い世界に飛び込んだのだ、狭い世界にはもう戻らないのだと心臓の裏側辺りで確信している。戻れないし戻らない。だってこっちの方がずっと楽しいから。

手を広げ風を感じ、一寸先が底の見えない闇だとしても笑いながら飛び込めるほどの精神は、それまで過ぎ去った狭い世界たちで培ってきたスキルで、いくつもの世界を渡り歩いたのは意味があったのだと気づく。

だから、先が暗闇でも思いっきり踏み切って飛び込めるのだ。


忘れられない瞬間がある。

午後一時、靡く薄水色のカーテン、黒板を弾くチョークの音、水平線のような空、制汗剤の匂い、薄手のシャツ、誰かの寝息、静かな教室。

電気のついていない室内が陽の光だけで照らされている。優しいその光が、子供の頃からずっと好きだ。今でも陽が暮れるまで電気はつけないし、目安はキーボードを打ち間違えるくらい暗くなるまで。

小さな声、息遣い、酸素を求める魚のようにパクパクと動かしていた。その先には忘れられない人生の欠片があった。

脳の片隅で。引き出しの奥底で。開けてもないのに時折顔を出す。でもどこに仕舞ったのか分からなくなりそうなほど遠くへ来た。そして飛び込んだ暗闇の先、足がついたとしてもそれがまた顔を出すわけじゃない。この世界にはその思い出がないから。ただ新しい世界が続き、歩けば歩くほど過去になって新たな思い出が出来るだけだ。

でもそれでいいんだよな。立ち止まった私は目を瞬かせた後笑う。それが自分だから。それが私の選んだ道だから。にっと口角を上げ真っ暗闇に、暗いななんて文句を言って走り出す。上へ上へと目指すのは浮上して息をするためじゃない。飛んで美しい景色を見るため。

深海を照らしていた光は今、心臓の真ん中で輝いている。

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優衣羽(Yuiha)
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