世界が終わる日にきっと、
世界が終わるとしたら
子供の頃、よく考えていた。
明日、世界が終わるとしたら。
その瞬間はどのように訪れるだろうか。幾度なく見た映画や小説のように、隕石が落ちてきたり、怪物に破壊され、大地震、津波、アトランティスのように海に飲まれ消えるのかもしれない。
ただ世界が終わるなら、さっさと死んで生まれ変わりたいと思っていた。
人生に意味など無く、未来に希望は存在しない。スポットライトを浴びる人間を陰から見て唇を噛み締めるくせに足踏みする。そんな生き様がお似合いだとでも言うように私の世界は狭く、醜く、苦しいものであった。
ならばさっさと死んで生まれ変わって、幸福なスタートを切りたいと願った。実際転生なんて存在するかどうかも分からない概念と幸福な生を受けることを信じている方がよっぽど馬鹿げているのに、人は自分が不幸になる想像をしない。
正常バイアスとはよく言ったもので、どんな状況に陥っても自分は大丈夫だと信じ込んでしまうのだ。宝くじが当たるより飛行機が落ちる確率の方が高いのに、人は飛行機が落ちると信じず宝くじが当たると信じている。
詰まる所、もし転生なんてものがあって死んで生まれ変われたとしても、再び人として生を受け人生勝ち組イージーモードのスタートが切れるわけないのだ。それこそ、宝くじが当たるよりも少ない確率だろう。
でも、信じていた。明日世界が終わるとして、苦しい思いもせずさっさと死んで生まれ変われたら、幸せになる未来が待っていると。そんな幻想を抱くほど、人生に希望を持てなかったのだろう。
ふと、明日世界が終わるとしたらどんな終わり方か、今の私は考える。大人になった私が思う世界の終わりは一瞬で奪われるものではなく、徐々に、足音を立てず忍び寄った滅びが蔓延し、名前のつく事象となって脅威が降り注ぎ終わるものだと思っている。
昨今の給料問題とか、出生率とか、社会のシステムとか。そういう小さな不満が大きくなり生活を圧迫して上下関係が浮き彫りになった時、暴動が起き革命が始まり全てが崩壊してひっくり返るというのは歴史を見れば明らかで。結局一部の人間が甘い蜜を吸っていると反旗を翻されるから程々に上手く扱わなければならないのである。
ということを、連日広い世界を見ていても私の生きる狭い世界を見ていても目にする事が多く、溜まったフラストレーションは原因が消えない限り終わらないよなと思っている所存である。
何にせよ、世界の滅びはきっと分かりやすい自然現象が全てを終わらせるのではなく、そうやって忍び寄っていた絶望が大きくなり全てをひっくり返すのだと、大人になってから思い知らされた。
気づいていないだけで滅びはゆっくりと忍び寄っている。そもそも地球が生まれてから、人類がこの星に生きるようになった時間を考えればそれもそうだろと納得する。永遠なんてどこにもないし、明日が必ず訪れる保証など存在しないのだ。
朝起きたら全てが灰燼に帰しているかもしれないし、そんな記憶をどこかで歩いている時に思い出しては、あれ?もしかして二回目入ってます??なんて思ってるかもしれない。絶対などこの世界には存在しないし、有り得ない事も何もない。絶対という言葉を使う時は自分の中で分かり切っている物事に使うべきだ。例えば君を好きになる事は絶対ない、みたいにね。
大人になった私は世界が滅んで欲しいと思わなくなった。強いて言えば私の世界が美しいものであればいい。他の誰にも侵されない、他人の声も聞こえない優しく美しい、酸素が多く少し毒づいた世界であればいい。それだけをずっと考えている。
何にせよ、どれだけ世界が滅べと思っていようが滅んで欲しい時には滅ばないし、今が続けばいいと思ってる時ほど滅んで終わるものだと知ったからだろう。当たり前の日常が一瞬で崩れ去る事を知った日から、私は世界の終わりを望まなくなった。
ただ滅ぶなら、自分の手で終わりを決めたいくらいである。
自分を取り巻く環境が変わる度、過ごしやすい世界を壊した要因を潰したくなるのは仕方のない事で、取捨選択、君がいなければこうはならなかったと思うのは一度や二度ではない。
けれどその度に私がこいつのいる世界で生きなければいい、そもそも私の世界に存在させなければいい話だなと思うのは、悲しいくらい期待をしていないからなのだろう。どれだけ説明しようと理解出来ない人間は沢山いて、理解し合えないのに分かろうと近づいてきては自分の考えが通らない事に怒り責めて消えていく人間ばかりだ。
それこそが人が人である所以なのだろうけど。
自分こそが正義だと思っている人間だけ同じ場所に集め閉じ込めて、そこでバトルロワイアルを開催し生き残った奴だけが正義を語っていいみたいな、そんな蟲毒を上から眺めていたい気分である。最近カイジでお金持ちの人たちが別室で眺めては楽しんでいる下衆さがちょっと分かるような気がする。
ただ見たいと本心から思えないのは、可哀想だとか馬鹿にしているとかそんなくだらない感情論ではなく。私の目は美しいものだけを見るために存在しているから、自分の人生という短い時間の中で、私自身が見る必要が無いと思うものを見たくないのだろう。
世界の終わりがそんな馬鹿げた人間の欲で始まっているのだとしたら。見たくないから自分の世界に篭るんだろうと、毎週末パソコンに向き合っている中で思う。だからといって知らないのはまずいし、無知は恥だと思っている性分のため世の中を見ているのだけれど。ただ理不尽や悲しい物事が見えるその度に、きっと人が人である事を辞めない限りこういったものは消えないのだろうと悲しくなり目を閉じる。
ならそんな世界で生きる人たちに救いはないのかと考え、書く事しか出来ない私はくだらない日常を、触れる事の出来ない恋物語を、どこか遠くで起きたような幻想を書くのである。それは自分を救うためでもあるし、腐った世の中に中指立てる気持ちもあるし、誰かの日々を少しでも楽しませる事が出来たならという可愛らしい理由でもある。
どれだけ文句を言おうが嘆こうが何をしようが、結局私に出来る事なんてたった一つ、書く事だけなのだと分かっているからこそこの指を止めないのだろう。
もし明日、世界が終わるとしたら。私は何をするだろう。世界はどうやって終わるのか知り笑うだろうか。これはどうしようもないねなんて言っているかもしれない。予想がつく。
特別遺したいものも伝えたい言葉もない。愛を囁く相手はいないし、最後にやりたかった事も、暴走する気さえない。きっと、ベッドで1人、目を閉じて夢想するだろう。
どこかの街中で、浜辺で、宇宙の片隅で、星の見える空で、昼間の月に目を奪われて、青い惑星を眺めているその最中。
また人生を送り日々を生きている時、瞬きするその一瞬に終わりの記憶が流れたら。
私はきっと、それが自分の妄想だと信じて疑わないだろう。けれどきっと、それをどこか遠くで起きた記憶の欠片だとも思うのだろう。
そして必ず、文字に残してまた日常に戻る。
そんな時間が存在する妄想をして、世界の終わりを迎えるのだ。