結び目を解けば、いつも同じ場所に辿り着く
人は触れてきたもので出来ている
先週歩いた道に咲いていた彼岸花が枯れていた。ただ枯れているのではなく、鮮やかな赤が抜けるように白くなっていた。花弁の先に僅かな薄桃が残っている。茎は茶褐色、水分を失っていた。
彼岸花ってこう枯れるんだ。思わず足を止めた。咲き誇る姿しか知らなかったから、こんな風に色彩を失って枯れるなんて思わなくて、美しいと感じた。
だって真っ白になっていた。色水を吸わせて虹色に変わったカーネーションが、ただの水につけたら元の色に戻っていくのと同じように。繊維すら白に抜けていく。
自分が書いた小説をこの目で体験したような気分になった。
私の世界はどれだけ絶望しても色で溢れ返っている。自分が気づいているから尚更、季節の移り変わりが、色彩が、心折れた日にもうざったいくらい鮮やかでむかついた日もある。
だから、見えない世界を知らない。
その片鱗を味わったようで不思議な気分を抱いた。でも結局、花は色づかなくても美しいんだと思った。元の色彩を知っているからなのかは分からない。でも、色彩が見えなくたって私の世界はきっと鮮やかなのだろう。
街中を歩いてふとしたものに目を惹かれ足を止める人生を送って来た。多くの人が気づかないちょっとした変化に何故か気づいてしまうからだ。美しい物を無意識に探しているからなのかもしれない。
なら見えなくなっても私は世界のちょっとした変化に気づいて足を止めるし、この瞳に光すら映らなくなったら匂いを嗅いでまた、足を止めるのだと思う。私はそういう人間だと、26年の人生で何十回も思い知らされた。
生きにくいと思うのは恐らく、生きやすい場所に身を置いていないからだろうとも思い始めた。報われないと嘆くのは恐らく、それほどまで本気で何かと向き合ったからだろうとも考えた。何が正解かなど分からないが、少なくとも私はもう自分の事を理解したからつまりそういう事なのだろう。
歴史が好きだった。もっと言うと、過去に起きた事象に人々が遺した言葉を知るのが好きだった。死んだ文豪たちの作品ばかりを選ぶのもそれが理由だ。現在はこの眼で見られるから、自分が見られなかった過去を見たいのだと思う。
シェイクスピアはやっぱり凄くて今日に至るまでの恋愛作品のテンプレを作ったような人だし、モームは程々に酔っていながら現実を突きつけてくるし、ヴェルヌは幼き頃に抱いた冒険心をもう一度思い出させてくれる。
ドゥイノはとんでもなく美しき嘆きを叫び、オスカーワイルドは自己犠牲の尊さと惨めさを教え、ダンテは笑えるくらい天才的な文法でまだ見ぬ世界を確立させ、アンデルセンは絶望のうちに遺す愛を教えてくれた。
私の人生は多くの人に感化されて生み出されたものだ。
ちなみに本を読むより漫画を読む方が多いのだが。それは置いておこう。
そんなこんなで私は海外文学の古い作品が好きなのである。
でもこれを理解してくれる人は少なくて、というよりそういったコミュニティに自分がいないという方が正しいだろう。私の生きにくさは確実にそれだ。自分が好きなもののコミュニティにいない事が原因だ。
例えば仕事も。今の仕事は淡々とこなしながらも何だかんだ結構楽しい事をしているが、人とのつながりはそこまでない。前の仕事はしんどい事ばかりだったけれど人に恵まれた。
ベストは自分に向いた仕事を、良い人たちの空間で、稼げる事なんだけどこれをクリアする職場はほとんどないだろう。ていうか皆ないと思う。ほとんどの場合どれかが欠陥してる。主に最後の条件が。
稼ぎが少なくても自分に向いていて人に恵まれていれば続けられる物だ。結局人間は現状に満足出来るか否かで変わるんだから、二つクリア出来ていればよっぽどの事が無い限り生きていられるだろう。
いや嘘、宝くじ当たったレベルの金は欲しい。皆に欲しい。
話を戻そう。26年間生きてきた私が最近ようやく結論付けられた事がある。
それは結び目を解くといつも、同じ場所に辿り着く事だ。
それは何やと思うだろう。簡単に説明すると、自分が好んで手にしたもの、何の気もなしに巡り合ったもの、その全てを結び目だとして。より知ろうとする事を解くと表す。すると必ず、同じ場所に辿り着く。
例えば色が綺麗だと思って買ったお皿があるとしよう。この色の名前は何だろうと調べるとする。何の気もなしに買った皿の色の名前が水縹色だった。あれ、この色……。365でメインカラーにした色や!!!
みたいな感じになる事だ。
こういう現象に名前があったはずなんだけど忘れてしまった。心理学的な観点から見た話なんだけど、何だっけ。まぁいい。
ただそれに直面する事が多かった。何故だろうと考えたのだが、よくよく思うと私は自分が気に入ったものや場所、名前などに何の意味が込められているのか調べる癖がある。知りたいと思うのだ。そういう癖だ。
普通の人が綺麗だね、で済ませるイルミネーションがあったとして。そのイルミネーションの色彩を見て、あの色は何色だろうと知りたくなる。どれくらいのLEDが輝いていて、電気代いくらくらいなんだろうとか。下衆な話。
物事がファーストインプレッションだけで終わらないのだ。その先を知りたくなる。知ってどうするとかはない。ていうか何かに使えたらいいんだけど、仕事とか仕事とか仕事とか。残念ながら私が得る知識のほとんどは生きていく上でいらないものばかりだ。
結び目を解いた時に必ず同じ場所に辿り着くのに気づいたのは大学生くらいの頃。全く持って関係のない分野を学んでも、何故か必ず同じ場所に戻って来た。答えは違う場所になく、元いた場所に置いてあったような、そんな感覚。
つい先日薔薇を買った。
一個自虐しとくんだけど誕生日だったんだよね。でも誕生日当日に祝われた事ってほとんど無くて、友人からメッセージが来るわけでも、恋人に祝われるわけでもなく。18くらいからか、一人で自分へのご褒美を買いに行くだけの日になった。18の時はめっちゃ悲しかったんだけど今は全く何も感じてないのでおーるおっけーです。
人間関係希薄、休日に人と遊びにも行かず永遠と自分の世界に篭って書き続けてたらこうなるんだよ。お前ら、こうはなるなよ。結果素晴らしい存在になりましたってなれる人はほぼおらんからな。切なくなるぞ。
話を戻そう。薔薇を買ったのだ。
ケーキにご褒美、駅を歩いている中花屋が目に映った。店頭に置かれた花は薔薇。薔薇は秋にもシーズンを迎えるらしい。
唐突だが私は真っ赤な薔薇が好きじゃない。そう、薔薇と聞いて多くの人が思い浮かべるであろう、あの血みどろみたいな赤。ごめん表現悪かった。深紅。
プロポーズに使われるようなあの赤色が好きじゃない。あの色彩が好きじゃないのだ。貰っても多分、あんまり嬉しくない。こだわりが強いのはあるんだけど、私の世界での色彩は多くの人が思っているよりも重要なのだ。
店頭に並んでいた薔薇は紫、赤、白っぽい緑、オレンジ。色鮮やかな色彩で溢れていた。パッと見た時、濃いマゼンタの薔薇と淡い紫のアンティークな薔薇が目に入った。
マゼンタの薔薇はサイズが大きく、一輪でも存在があるのに対し、淡い紫の薔薇は花弁の先が枯れているような色彩で繊維の黄緑が映えていた。私は何となく、あ、これだと思った。これだと思った時は基本手に入れるのがスタンスなので、マゼンタの薔薇を一本、紫の薔薇を二本買って帰路についた。
三本の薔薇を抱えながら帰る私にちょっとした虚しさが襲ってきた話はやめよう。
薔薇はアンティーク調の物が好きなのだ。ただ鮮やかなだけではない、古い紙のように色褪せている部分が魅力的で、中心の色が濃いのも萌えポイントである。ついでに私はこのラベンダーに近い色味が好きだ。
アンティーク調の淡い紫の薔薇がとても綺麗で、ある事を思い出す。実家にいた頃も同じような色味の薔薇を買って母に、「お前の色」と言われた事だ。好んで選ぶ色は自然に自分に似合う色に寄る。母の中でこの色は私の色らしい。
さて、紫の薔薇を買った時私は一つの疑問を抱いた。それはこの薔薇の名前が『ナイチンゲール』だった事だ。
ナイチンゲールと言えばクリミアの天使こと、看護師のナイチンゲールを思う人がほとんどだろう。現に私もそうだったが、そもそもナイチンゲールとは鳥なのだ。和名はサヨナキドリ。美しい鳴き声で、夜に歌うという意味を持つ。
よってナイチンゲールの元は鳥であり、そこから女性につけられる名前となったのだ。
で、何でナイチンゲール?薔薇と何の関係があんねんと思ったわけだ。最初は看護師の方のナイチンゲールをもじってつけられたのだと思った。薔薇はよく、著名人などの名を冠し品種改良した花を作り出すからだ。ダイアナ妃の薔薇がいい例だろう。
が、フローレンス・ナイチンゲールの薔薇は既にあった。色は白。白衣の天使である所以か、白く丸い、ダリアのような形の花で柔らかな印象だった。
対してこちらのナイチンゲールの花は剣先型だ。花弁の一枚一枚がツンツンしているタイプ。到底柔らかな印象ではない。
じゃあ何でナイチンゲール?
この花の原産地は西アジアらしい。ペルシャでは薔薇が咲くとサヨナキドリが愛を告げるため鳴き始め、芳香に酔いしれ、やがて薔薇のもとで朽ち果てるというロマンチックな言い伝えがある。らしい。
ちなみに花言葉は『わが心、君のみぞ知る』
え、え、エモーー……。そんなエモい言い伝えがある文化、尊ぶしかないのでは??と思っていたわけだが。花言葉は諸説あるので、必ずしもこれが正解ではないらしい。
ナイチンゲールは恋をする者と呼ばれており、古くから花との関係性があるようだ。
『ナイチンゲールとバラ』という作品がその典型だろう。
本当の愛を知らず毎夜美しい鳴き声で愛を鳴いていたナイチンゲールが、一人の学生が嘆いている所を見つける。彼は意中の人に赤いバラを持ってきたら一緒に踊ってあげると言われたが、彼の家の庭には赤いバラなんてない。
ナイチンゲールは初めて本当の恋人たちを見つけ、彼を手助けすべく赤いバラを用意しようとするが赤いバラは見つからず。
ようやく赤いバラが作れるのを知ったが、それは自身の心臓に棘を刺し歌い続ける事で生み出す、死と引き換えの方法だった。
それでもナイチンゲールは本当の恋人たちのために心臓に棘を刺し歌い続け、赤いバラを咲かせた。そのバラを彼の元に届け、ナイチンゲールは絶命した。
彼は突然現れたバラに奇跡を感じ、それを持って女性の元に行くが
「今日のドレスに合わない、他の人から宝石を貰った。宝石の方がずっと高価だ」
と言い彼の元から去る。彼は憤慨し帰り道バラを道端に捨てて、恋なんて馬鹿げていると言い放ち家に帰って哲学書を読んだ。
そんな話。
自己犠牲型の物語に、どこかで見たなと感じる。そして気づく。
これ、オスカー・ワイルドや。
そう、ナイチンゲールとバラの作者はオスカー・ワイルド。幸福な王子の作者で有名だ。自己犠牲の童話ばかりを書いていた人間。生前どんな人生を送っていたのかは分からないが、非常に耽美で退廃、人生に絶望しながらも自分の中に確固たる美学が無い限り、この愛は書けないだろう。みたいな人。
そうしてまた知らぬ間に、結び目を解いて同じ場所に辿り着いていた。一体全体、どこでどうつながるのか不思議で仕方ないが、触れてきた芸術が今の自分を作っているから結局思考回路も似るのだろう。ff16で身体が灰になり死ぬ設定も、ゲームを手にする数年以上前から私が創作で生み出していた終わり方だった。似るんだ、思考回路って。好むもので。
何度も結び目を解いては辿り着く場所に、何だか面白くて笑えるようになった。人って面白いよな、先人に似るんだ。
そのうち、私が生み出した作品を読んだ誰かが同じように結び目を解いて、同じ場所に辿り着くのだろうか。そしたらそれほど面白い事はないのだろうと笑いながら、枯れても美しいと言われるような、そんな存在でいたいと思った。
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