心にかかった呪いが生きているとして、それでも前を向きいつかの自分を救うのである。
言葉が呪いになり救いにもなると書き続けているのは、呪われて救われたと何十回だって実感し続けているからだ。
自宅に深めの皿がサラダボウルしかない。ピンクと水色、そして白のなんにでも使えるサラダボウルだ。スープを入れてもサラダでも丼にしても構わない使い勝手のいいサラダボウル。
味噌汁の器では少し小さいと感じる時でも使えるので、大体の食事をこれにいれて食べている。一人暮らしなんてそんなもんである。
キムチ鍋をサラダボウル食べると真っ白な内側にキムチの赤がつく。これが手強くて材質の問題からか一度つくと中々取れない。キッチン用のブリーチを使っても、熱湯を流し込んでも駄目だ。
染みついたそれは時間をかけて何度も使われてはゆっくりと消えていく。しかし汚れは完全に落ちたわけではなく、まだ跡を残している。
サラダボウルで食べなければいいのだし、新しい食器買えよと言われたらそれまでだが、これ以上余計な物を増やしたくないのである。収納には限りがある。
キムチ鍋の跡を残してしまったサラダボウルを見ながら、人の心もこうやって跡を残しゆっくりと消えていくのだと思った。
言葉が呪いになると思っている。それは作家になるずっと前から。言霊というのは本当に存在していて、人の心を蝕んだり苦しめたりすると、ずっと思い続けている。
呪いを自覚したのはいつか。本当に変わったきっかけはこの道の始まりだけれど、もっと昔、子供の頃だと思う。
マイナス発言や思考は多くの人に嫌がられるのであんまりしたくはないけれど、残念な事に私という人間はその掃き溜めの中から現れたから過去を語るには欠かせないのである。
子供の頃、「どうせ」が口癖だった。
どうせ見てくれないし、どうせ出来ないし、どうせ意味無いし。
ずっと、こんな事を言い続けては親に怒られていた。どうせなんて言うな、やめろと。でも全ての根本は自分たちにあると気づきはしなかったようで、ずっとどうせと吐き続けた。
期待されない子だった。運動神経は良かったが、だからといって飛びぬけているわけでもなく。絵を描くのが好きだった。けれど特別でも何でもなく。
勉強が苦手だった。子供の頃から続く評価基準なんて勉強くらいしかないもので、それは大人になっても続いていくのだけれど何より顕著に出るのが幼少期だろう。
不思議な事に、驚くほど勉強が出来なかった。数学は算数から躓いているし、中学以降は何度公式を教えられても、何十回解き直しても、出来たと思っても何故かテストは赤点。
もう本当に不思議で、何で出来ていないのか分からなかった。前日に散々教えられた公式を使ったのに、何故か間違っていた。そう、ドン引くレベルで私は理数系の科目が出来ない。
解ける喜びも楽しみも、一度だって感じた事がない。こいつらとの思い出は全て苦痛で出来ている。
しかし哀れかな、私は出来なくても貴方が貴方らしくいればそれでいいよと言ってくれる人なんていなかった。絵を描こうが馬鹿にされ、空想を言葉にする事さえ怖くて口を閉じた。出来ない事が分からないと言われ続けた。
一人っ子だったらマシだったのだろうかと思うが、残念な事に私には一つ上のスーパー優秀テンプレ型青年の兄がいた。勉強が出来て、人に優しく、明るくリーダーシップがあり、面倒見がよく、運動も出来て、多くの人から好かれるような。
まるで、絵に描いたような人間だった。
子供の頃、絵に描いたようなそんな兄が好きだった。私の幼少時代、遊び相手はずっと兄で。彼の後ろについて回り、いつも彼に手を引かれていた。幼稚園では手を繋いで帰り、園の中で転んだ私に巻き添えを食らった兄もろとも怪我をする時だってあった。
あの人は子供の頃、私の手を離さなかった。転んで泣いた私とは違い、自分だって痛いくせに「大丈夫だよ」とお兄ちゃんしていた。私はそんな兄が好きで、ヒーローに思えた。
二人で悪い事をして締め出された時には兄は早々に謝り中に入れてもらったが、納得が行かない私は謝らず、可哀想だから入れてあげてと兄が母に泣きつくほどだった。
そんなお兄ちゃんは、ある程度の年齢になると私の首を絞める存在に変わった。
優秀で努力家のお兄ちゃんはどんな困難でもやり遂げるような人だった。生来の真面目さと真っ直ぐな所、彼は努力を惜しまない人だった。元より頭が良くいつも成績が良かった。
私の子供時代の思い出は全て
「お兄ちゃんは出来るのにどうして妹は出来ないの?」
に集約されている。
いつも、いつだって比べられてきた。それでも兄が良い人なのは分かっていたので苦しまなかったが、今度は歳の離れた弟が愛される性質を持つような存在で、私は存在意義を失った。
出来なくてもいいよ、得意な事を伸ばせばいいよなんて絵空事である。
私は本当に、何も出来ない愛想のない子だった。可愛いとキャラクターのように愛される気質を持って生まれた弟、優秀で万人に好かれる兄、真ん中の捻くれた何も出来ない子が私。
そんな日々が続くとどんどん擦れていくもので。ただでさえ無かった愛想は皆無になり、程々に悪い事(と言ってもたかが知れているが)もしたし、何をしてもお兄ちゃんの方が凄いと言われる事が、自分がいてもいなくても変わらない世界になっていくのが、死にたくなるほど辛かった。
そんな勉強も何も出来ない私は空想に逃げた。どこでもいい。何でもいい。お願いだから一瞬だけで構わないから。
誰か私にスポットライトを当ててくれ。
誰かに愛されてみたかったし、大事にされたかった。少なくともあだ名が馬鹿とか言われない世界線で。ブスも馬鹿も何も出来ないもおまけも、何も言われない場所。
ここじゃない場所に、行けるなら死んでもいいと願い続けた。
ただ面白い事に不登校にだけはならなかった。何故なら学校に行っても家に帰っても、私は兄の妹で馬鹿でどうしようもなくて、どこに行っても変わらなかったから。なら学校に行ってクラスにいる間だけでもそれを忘れさせてくれよと思いながら行っていた。
どうすればいいかな。どうすればもう傷つかなくて済むかな。そんな事を考えて、強くいようと思った。物理的にも精神的にも、もう誰も私を傷つけられないように、傷つけられそうになったら先に刺せるように言葉はきつくなり、態度は酷くなり、弱くて震えて縮こまる自分を隠してやろうと思った。
結果的にそれは上手く行ったし、私は私を偽った時間を過ごし続けたせいでちょっとおかしくなった。おまけに信用出来る人間も出来ず、高校入るまでの地元の友人はゼロ。笑う。
私の言葉はいつだって届いて欲しい人に届かなかった。いつだって聞く耳を持たれなかった。後でねと言われた事がどれほどあったのか分からない。少しでも話したくて口を開いても、当時の私は話が下手くそでいつも横から入って来た兄の面白い話に奪われた。
食卓を囲みながら馬鹿にされ、目の前に出された食事をずっと兄と奪い合い、向かいでは最初から確保された料理にゆっくりと食事をする弟の姿、奪われる怖さから皿の上に乗った食べ切れない量の食事、自分を抜いて進められる会話。
いなくてもいいと思っていた。
ずっとずっとずっと、早く死なないかなと思っていた。歩いていたら車が飛んでくるとか全然いつでもいいです。建物が壊れて頭上から落ちてくるとか全然構いません。ただこの苦しい時間が消えてくれるのならそれで。
もう充分だと思っていた。
言葉は呪いと言い続けるのは、あの頃の私がずっと呪われていたからだ。出来ない子、お兄ちゃんは凄いのに妹はゴミ、ブスとか馬鹿とかおまけとか。
いつかの習い事の試合の帰り、車の中で優勝したメダルを持ち凄いでしょと笑った。すると母は、「お兄ちゃんの方が人数が多かったんだから、お兄ちゃんの8位の方が凄い」と言った。
これは凄い憶えていて、私は一瞬にして黙り込んだ。例え優勝をしたとしても私は凄くないらしい。じゃあ何しても駄目じゃん。どれだけ頑張っても、何をしても、どうせそっちが凄いって言うんでしょ。じゃあもういいよ。
もういい。
中学時代自分を変えたくて両親の反対を無視し文化部に入った。よく分からないが我が家では必ず運動部に入れという謎の制約があった。しかし無視して好きな部活に入り、自由になろうと思った。
しかし待っていたのは他人が作り上げた私の像で全てを決められた事だった。私の実力や技術を見るのではない、ただキャラだから。それだけ。頑張ってもそれまでだった。
ある日顧問に「優衣羽は叱って伸びる子だから私は褒めない」と言われた。これも凄い憶えていて、私は褒められなれていないから逆に褒められると嬉しくなってもっと、もっとと頑張る性質なのですが、何一つ分かっていないこの発言通り、私はマジで、最後まで、全く褒められなかった。驚き。
そんな人生は高校生になりようやく解放される事となった。
まず、散々言われてきた容姿は真逆の称賛を得た。ブスなんて一度も聞かなかったしむしろその逆。これにはちょっと調子に乗りかけました。高い背もからかわれる事なくそれが何度もプラスに働き、頑張りを見てくれる人が近くにいて、ようやく。
ようやく息が吸えるようになった。
お兄ちゃんを知らない世界は酷く生きやすかった。よく言っているが私が男だったら多分今頃生きてないし作家なんてなっていない。適当に女遊びして、早々に自殺していただろう。生きているのは幸いにも、私が女だったからである。
息が吸えるようになり、言葉で人を傷つけ後悔をし、今ここにいる。全ての始まりは15歳までのどうしようもないほど出来ない子だった私と、18歳の酷く後悔をした私が手を取り合った瞬間なのだ。だから15歳、高校生になるまでの私は死んでたみたいなもんである。
つまり今話していた出来ない子の話は多分臨死体験か、あの世での話だ。
しかし呪いはまだ生きていて、作品に対し完璧主義に近いのも、メンタルがぶんぶんするのもこれが原因で、一人になった私が折れそうになる度迎撃してくるのである。
まるで、サラダボウルについたキムチ鍋の跡のように。
いつか、自分が誰かと結婚して子供を持った日が来るとするならば、私は貴方が元気で生きてくれればそれでいいよと言おう。兄弟がいても、その子が気に病んだとしても、貴方は貴方だから大丈夫だよと言おう。その言葉で、私自身の呪いを解こう。
貴方は貴方が思っている以上に多くの人に愛されているのだと、言葉にして何度も教えよう。言われなきゃ分かんないから。大事だって、行動一つに気づくのはずっと時間が経ってからだから。失ってから思い返して気づくのだから。
だから何度も繰り返そう。生きてていいんだよって、どうせというなら理由を聞こう。あの頃の私はただ怒られるだけでどうしてそう思うのとは聞かれなかったから、何度だって解いてやろう。
そもそもこれの影響が強いから他人に好意を持たれる自分が想像出来ないし、いつか本当に子供が出来たとしたら同じ思いをさせてしまうのではないかと怖くなるので。
だから私は恋愛から逃げているのではないかと思いながらふと、運命の人は二人いる理論を思い出した。
よく分からないが、運命の人は二人いるらしい。
一人目は恋を教えてくれる人で、二人目は愛を教えてくれる人なのだとか。
その理論を聞いた時、何となく、ああそうなのかもと思ったのは、私が今ここにいるのはある後悔から始まって、あれが運命だったと言えるからだ。
結ばれなかった事も、息が吸えた事も、振り返ってあの時間を越す恋愛が出来ないと思うのも。全部、まるで最初から台本が決まっていたような時間だったからだ。
そう考えると二人目がどこかにいて、いつか、私のこのしょうもない呪いを解いてくれるのではないかと思っている。
その時ようやく、サラダボウルの汚れは取れ、私は500mlのペットボトルに入った蒼色の物語を語れるのではないかと思うのだ。
なんて語りながら取れない汚れに今日も相変わらずのアンラッキーを思い返し、寒さに鼻水を垂らすのだ。