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破ってしまった約束は、花弁散らして空へ舞う

約束だよ


「私がいつか――」

ある日の午後、カウチに寝転びながら本を読んでいた彼女がおもむろに口を開いた。開けた窓から吹いた風がレースのカーテンを揺らし、まるでヴェールのように彼女の顔を隠す。どんな表情をしているのかは分からない。けれど恐らく、何ともない顔をしているのだろう。

「うん……約束する」

ソファーに座り、コーヒー片手に半分寝かけていた僕は目を開ける。傾いていたマグカップからコーヒーが零れる瞬間でもあった。

「あ!」

飛び起きたと同時に波を打ち零れたコーヒーは、灰色のソファーに濃い染みを作ってしまう。げんなりした僕の様子に彼女は咎めるでもなく笑うだけだった。

「終わったね」

「買ったばかりなのに……」

レースの隙間から慌てる僕を眺めていただけで、彼女は立ち上がらなかった。この時ばかりは手伝ってくれと文句を言ったのだが、自分の尻は自分で拭けと言われてしまい、結局染み抜きは上手くいかなかった。

「それで、何て言ったんだっけ」

コーヒーの染みと格闘した僕は、冒頭の会話を忘れてしまっていた。ふと溜息が聞こえ、呆れているのだと気づくのに時間はそうかからなかった。それほどまでに同じ時間を共有してきたからか、彼女も僕が話していた事を忘れるのは今に始まったわけではないと分かっているのでそれ以上の言及はない。

「約束するって言ったから、その時までに思い出してくれたらいいよ」

憶えのない約束は叶えられるだろうか。不安になった僕は彼女にもう一度何を言ったか問いかける。けれど返事は来ず、薄いレースの向こう側で目を伏せ唇を僅かに上げただけだった。






彼女が死んだのはそれから数ヶ月後の事だった。職場で倒れ、病院に着いた頃には既に心臓は止まっており、運び込まれてから一時間も経たぬうちに死亡宣告がなされた。脳出血だった。予兆などなく、朝に会話をしただけの終わりだった。好きも愛してるも何もない、ただ今日は遅くなるとか、「行ってきます」「行ってらっしゃい」それだけ。

フィクションで幾度なく見た別れのシーンはもっと切なくて輝いていたけれど、現実のさよならは突然と訪れるくせに何一つ美しくないのだから不思議だ。もしかすると別れを経験した人々が脚色する事で自身の心を救っていたのかもしれない。相手とのさよならは人生で最も意味のあるもので、これがあったからこそ自分が今ここにいるのだ、と。

遺体は灰になり、僅かに残った骨は壺に入れられ彼女の実家に置かれた。仏壇に飾られた笑顔の写真は記憶の中より魅力的に見えなくて、僕の頭が勝手に脚色しているだけなのかもしれないと思ったほどで。灰は墓地に埋められるかと思いきや、先祖代々の墓も無く新たに作るにはお金がかかるし無駄だという考えで、小さなカプセルに詰められ地面に植えられた。聞くと遺灰を肥料にして花を咲かせる新しいさよならの形のようだ。

僕としてもこの選択はとても良いと思った。墓なんて作るのも維持にもお金がかかるのに、すぐに忘れられて無駄になるというのが彼女の考えだったから。彼女の両親がその考えを理解していて尊重したのは故人から見たらこれほど嬉しいものはないのではないだろうか。

ただ、僕は彼女が埋まった地面を見て考えていた。春になれば花が咲くらしい。名前を聞いても分からなかったけど、ピンク色だという事だけは憶えている。葬儀場の人が若くして死んだ女性はピンクと勝手なイメージ故に選んだようだが、当の本人はピンク色は不服だと言うだろう。

彼女はもっと、儚くて触れたら壊れてしまいそうなのに図太くて頑固で、年がら年中咲いてそうな白い花の方がイメージに合う。そう、レースのカーテンのような繊細さを持っているのに中身はコーヒーのようではっきりとした色と味わいを持っている。

結局、約束は何だったのだろうと踵を返し同棲していた家に戻っても、記憶は蘇らなかった。約束を破ったのかさえ分からない。守っていればいいのだろうけど、多分違うだろう。だってもし守っていたら彼女は再び約束を口にしてから「ありがとう」というだろうから。

部屋の中心、一人立ち尽くす。この部屋にはまだ彼女の残り香があった。読みかけの本がカウチに放置され、床に脱ぎ捨てたパジャマ、冷蔵庫の中作りかけで腐った料理、洗面台を占拠する化粧品、並んだ歯ブラシ、色の違う二つの枕、仕舞われたネイルポリッシュ。

僕の心を壊すには充分過ぎるほどのそれらに目を向ける度、鼻の奥がつんとして喉奥がぎゅっと締め付けられる。苦しくてどうしようもなくて、とりあえずソファーに腰を下ろす。すると、コーヒーの染みが目に入った。

それがやけに鮮明に思えて、瞬間、僕はあの日を思い出す。

温かな日差しに微睡んで、最早眠っていたと言っても過言ではないあの日。

耳に届いたのは、鼻を啜る音とたった一言。

「私がいつか死んだら、土の下には埋めずに空に撒いて欲しいの」

非業の死を遂げた登場人物が土葬され、彼を取り巻いていた人間がどのような人生を歩んだかという物語だった。最初こそ、嘆き花を置く人々で絶えなかったが、そのうち墓に訪れる人はいなくなった。彼らには人生があって、生きていく限り生活が続いていく。先に死んだ人間の事など構っていられなくなる。そうして残された死者は、冷たい土の下で孤独になるしかない。

仕方のない事だと思う。生きていかなくちゃいけないから。どれだけ大切にされていようが、好かれていたとしても、存在はどんどん薄れていく。

そんなどうしようもない事を鮮明に、事細かに描いた物語に彼女は鼻を啜った。今思えば泣いているのを見せたくないからカーテンで顔を隠していたのだろう。そして、寝ぼけた僕にそう言った。

約束すると、そう返したのに。

「破っちゃってごめん」

頬に一筋の熱が伝った。ソファーに落ち染みとなる。また一つ、乾いたアスファルトに降った雨のように染みを作る。後悔ばかりで、気づく度罪悪感が増していくのが人生なのに、僕は大事な約束を思い出してしまった。それを破ってしまった。最愛の人との別れは、僕に大きな後悔を抱かせる。

「咲いた花を摘んで飛ばすから、許してくれる?」

仕方ないな、なんて。

欲しい言葉は二度と聞けないけど。

雨は止まず傘を差す人は現れず、僕はソファーを濡らしていく。不意に開けた窓から風が吹きカーテンが靡いた。息苦しい夕方五時過ぎの風はわずかな涼しさを孕んでいて、夏の終わりを教えていた。

「春まで生きなくちゃ」

彼女の灰で咲いた花を空に飛ばすために。後はもう、考えなくていい。死にたいなら死のう。悲しみはいつまでも続くわけじゃないけれど、後悔は生涯残り心に傷をつけて時に痛ませるから。その度に彼女を思い出して苦しくなるのなら終わりにするのも悪くない。

だから春まで頑張ろう。

両手で顔を覆い泣きじゃくる僕の耳に、子供の声や車の音が届き世界が回っている事を突きつける。煩わしくて、けれど窓を閉める気にはなれなくて。レースのカーテンが靡けば、彼女がそこにいる気がするから。

「どうせなら一緒に飛ぼっか」

僕が死んだら遺体は焼かれ、墓石の下に埋められるだろうから。なら僕が彼女の花を抱いて高い高い空の上から飛び降りよう。

花弁を散らすのと同じように命を散らして、この恋を終わらせよう。

「待っててね、絶対叶えるから」

約束を叶えるまで、残り八ヶ月。

もう少しだけ、生きてみようと思う。

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