振り返って救いの手を伸ばさなくても、君は一人で歩いてきただろう
郷愁という言葉がある。異郷に来て故郷を懐かしむ意味を持つ言葉だ。別名ノスタルジア。恐らく現代においては後者の方が馴染み深い言葉だろう。
ただ過去を懐かしむという言葉を懐古という。ちなみに、過去を顧みる言葉は回顧。回顧録とは過去に起きた事象をまとめ、いつかの未来に生きた人々が過去に起きた事象を顧みるための記録らしい。
つまり懐古厨とは過去を懐かしんではそこに立ち止まる人々のことをネット用語で表した言葉なのだろうけれど。まあそんなことはどうでもいいか。
懐かしむほどの過去を持てば持つほど、歳を取り経験を重ねたのだと思うようになった。ただ歳を取るだけでは懐かしむほどの過去は少ないのかもしれない。それなりに経験して、後悔し、苦しんでは悲しんで、喜んでは楽しんで。そんな日々を繰り返すほど時間は経っていく。
その昔、早く大人になりたかった。大人になれば自立して、何も言われなくなると思ったから。こんな環境からすぐおさらば出来ると思ったから。
少し経つと、子供になりたくなった。押し寄せる現実と不条理に、何も知らなかったあの頃へ戻りたいと願ったから。
それから数年。戻りたいも進みたいさえ願うこともなくなった。
さて、どうしてそう思うようになったのだろう。私は腕を組み振り返っては考えた。これまで進んできた人生は決して美しいものではなかった。
嫌悪、劣等、嫉妬、羨望、比較されては落ち込んで、拗れて捻じ曲がりひねくれて、誰かから愛されるような、大切にされるような存在じゃなかった最低な人間の、人間にすらなれなかったようなヒトモドキの回顧録。
もし人生をやり直せるなら私はもっと上手く立ち回ってこの最低なヒトモドキを作り出すことはしないだろう。そんな、くだらない回顧。
あの時ああしていれば、あの選択が、後悔が、その全てが。何もかも選び間違えていなかったら、心の片隅、今もまだ燻っては消える小さな劣等感という炎は燃える事無く灰さえ存在せず穏やかな日々を生きていただろう。
ずっと、自分以外の誰かになりたかった。スポットライトの当たらない人生が嫌で、大切にされない自分が嫌で、愛されない自分に価値はないと決めつけて、何も出来ない自分へ何が出来るかさえ探す余裕もないほどに嫌だった。自分以外の誰かになれれば、そんな葛藤も感じなくなると思っていた。
けれどいつからか。戻りたいも進みたいとさえ思うことも無くなり、自分以外の誰かになりたいと思うこともなくなった。
ひとつ、歳を取れば取るほど私は自分のことを愛せるようになっていた。歩けば歩くほど、自分を許せるようになった。苦しかった空間で生きてきた時間があったからこそ、今が自由で息の吸える日々だと感じるようになった。
ようやく自分を愛せるようになったのは、色んな物を諦めて残された小さな欠片と向き合ったからだと思う。出来なかったこと、選べなかった未来、心に残る後悔、小さな子供がそれら全てを抱えて立ち尽くしている。
振り返る度私はどうにかしてその子供を救おうと物語を紡ぐ。抱えたまま今を生きようとしてまた失敗する。いつまでも過去が足にしがみついて幸せになろうと進む一歩を、羽ばたく瞬間の空を真っ暗にさせてしまう。
ある時、私は気づく。別にこいつを救わなくても良いんじゃないか、と。
だってどうやっても過去には戻れないし、あの時感じた苦しみも悲しみも幸福も喜びも何もかも、今の私が手を伸ばして救えるわけじゃない。欲しかったのはあの瞬間に救ってもらえる手が伸びてくることで。既に起きた過去に伸ばす救いの手は何の意味もない。
どうやったって、あの瞬間の私は救えないんだから。
あの時求めた手は未来の自分の手ではなく別の誰かから伸ばされるものだったのに。必死になって今の私が伸ばす必要は無いんだと気づいた。伸ばせば伸ばすほど過去を振り返っては当時の感情に落ちていってしまうから。今を苦しめるものになるから。
なら、もう戻る必要はない。見なくていい。だって、全てを抱えて半べそをかいていた子供は涙を拭いながら未来を睨みつけて歩き始めたのを私は知っている。自分が通ってきた道だから分かる。苦しくても悲しくてもどうしようもない人間だと言われ続けても、うるせぇなくそくらえって言って、今日を諦めなかった日々を繰り返してきたのを知っている。
手を伸ばす必要なんてなかった。私はもう、自分で自分をずっと救い続けていたのだ。
気づいてからは振り返るのを止めた。だって歩んできた全てが今を形作っているのだから、戻ったら今が崩れ無かった未来になってしまう。ようやく自分で幸せを求め、自由を愛し、手を広げどんな言葉を投げられても月まで飛ぶために前を向いては笑う日々が、全部無かったことになってしまうから。
今日を諦めてきたと思っていたけれど、ただ生きているだけで十二分に今日を諦めていなかったと、自分を諦めなかったのだと気づけたから。
そんな日々を繰り返しているだけでお前は凄い奴なんだと、言えるようになった。
才能はきっとこの身体に宿っている。ダイヤモンドか、はたまた時間をかけて美しく光るオパールか。月明かりのように幻想的なのか、星のように眩いのか。そんなものは誰にも分からない。
多分、私を応援してくれる多くの人たちは365の影響で私の才能を可視化したら桜にまつわるような言葉が出てくるのだろうけれど、本人から見ればそれは絶対ないとだけ言える。なんたって花のように儚い存在じゃないからね!もっと図々しくてうるさいからね!桜のような才能を持つ人間は間違いなく万人受けするよね!!
まあそんなことはどうでも良くて。
もしかすると昼間の星のように見えないかもしれない。昼間の月のように白く気づかないのかもしれない。夜空に飛んで燃え尽きたよだかかもしれないし、イカロスみたいに羽が解け落下している真っ最中かもしれない。
おもむろに弾いたピアノの一音、風鈴の音、ぬるい風、鼻の奥まで突き抜けるほど冷たい空気、メロンソーダのような鮮やかさ、コーヒーの香り。
きっと、才能の数だけ違うそれらは、輝きは違えど全ての人間が持っているもので。求めた才能で無い可能性は高いし、気づかないまま人生が終わることだって当たり前にある。
でもきっと。小さく灯る火のように、何かがあるはずだと思うようになった。
スポットライトが決して美しいわけではないと気づいた。そもそも、望んでいた光がスポットライトではないことも気づいた。舞台の上を煌々と照らすスポットライトは熱くてじりじりと肌を焼こうとするから、海面に出来た月明かりの道の方がずっと好きなことに気づいた。
歩いてきた全てが今を形作るなら、戻らなくていいし今が一番だと思うようになった。
年々私、思っていたよりも出来る奴だなと思う。自画自賛をすると人間は嫌悪を抱くがそのほとんどは嫉妬による暴走なのでどうでもいいと思えるようになった。というか自画自賛しないと生きていくのしんどいから、皆軽率に自分を褒めてお前良く出来る奴だな!って言うべきだと思う。これは本当に心を救います。
散々出来ないと言われてきたのに、否、出来ないと言われてきたからか身の振り方を人一倍考えるようになり、無条件で好かれる存在にはなれないからこそ愛想を良くして人一倍気を付けるようになった。
こうやって今を作っているのだと気づく度、歩いてきた人生に意味がないなんてないと知る。もしかすると、意味はなかったのかもしれない。ただ私が意味のない時間でしたと言うのが嫌で、自分が頑張ることで意味を作ったのかもしれない。
きっと、無意識のうちに作り出してきたのだろうけれど。
雨が好きになったり、夜が怖くなくなったり、朝も悪くないと思えたり、立ち止まってしまった瞬間も大丈夫だと言えるようになったのは、生きてきたからなのだろう。
そうして生み出された自己肯定感爆上げヒトモドキは、ちょっとやそっとのことで落ち込まなくなった。自分が出来る奴だと、努力してきて今があると心から思えるようになったからか、大概のことは鼻で笑えるようになった。
周りが何をしていようが関係ないし、どんな言葉が降ってきてもくだらないし、そもそも自分を不快にする物事に思考を割けるほど人生は長くないから。
自己肯定感が爆上がりすると、周りのことをよく見れるようになる。誰かの頑張りに気づいて、純粋に凄いという言葉を伝えられるようになる。人間って意外と自分の頑張りは認めて欲しいと他者に押し付けるくせに、自分が他者の頑張りに気づいて言葉にすることが少ないのだ。
欲しい欲しいばかり言い続けて、自分は誰かに与えようとは思わない。だから貰えないんだと気づいてからは、言葉にして伝えるようになった。因果応報とはよくいったものだけれど、自分が言った言葉は自分に返って来る。いい意味でも。
そうしてまた返ってきた言葉が私の肯定感を爆上げさせ、どんどん無敵になっていくのだ。なんていいサイクル。それもこれも、今日を諦めなかった過去があるからだ。
だから今を、飛んで行けるのだ。
今の私が夢想するのは懐古ではなく、もしこれまで会ってきた全ての物事を忘れて初めましてから始めるとしたら。同じ道を選ぶだろうか、だ。
まるで人体実験のような感覚。記憶を全て失くしても私は書くことを選ぶのだろうか。今を選ぶのか。まっさらな状態で始まるルート選択を、上から眺めて見たいと思う。全く同じ人生になったら滅茶苦茶面白いし、全然違うじんせいになっても面白い。
多分、私という人間にまだ気づいていない才能がないか知りたいのだろう。
同じ道に戻ったら、ああやっぱりお前にはそれしかないよと笑うし、そうじゃなかったら興味津々で見るだろう。
でも何となく、同じことをするんだろうと思っているのは思っている以上に私にはこの才能で生かされていると感じているから。前世とか来世とか。よく分からない可能性の未来でも、同じことをしていたんじゃないかと思うくらいには安心感があって。いつまでも止められない呪いをかけられてるんじゃないかと思っている。誰か呪いました?
この呪いを幸福にするか不幸にするかはやっぱり自分自身の選択で。天秤は均衡、ほんの少しだけどちらかが勝っている状態。いつでもひっくり返る状況で、幸せにするには私がそれを選んで歩くしかないのだ。
飛ぶしかないのだ。
一秒経てば過去になる。今もそう、書きながら過去になっていく。時間には勝てない。
ただ、この先の未来が自分にとって幸せで納得出来るものにするために私はまた書いて、書いて、書き続けて。折れかけてはまた自分を信じ、夜空を睨みつけては飛ぼうとするのだろう。
いつか、そんな馬鹿みたいに走り続ける人生の中。月明かりに波音が聞こえるどこかの星で、シーツの上、安心して眠れる場所が出来たなら。それほど愛しく美しい幸福は無いだろうと思いつつ、今日もまた、馬鹿みたいに文字を綴り続けるのだ。