潮騒と青と幸せと自由を忘れていた一人
波打ち際に残した足跡は消えてしまうけれど
絶望的な運動不足により数時間の移動で筋肉痛が起きた。階段上り下り、スーツケースを何度も持ち上げ右腕が死んだ。同時に、自分に対し死ぬほど引いた。
嘘でしょ?君、このレベルの移動で筋肉痛になるの?笑えないよ?人生まだ続くらしいよ?今からこれってやばいよ?冗談止めようぜ……?
東京の片隅、用が無いと外出せずただ何にもならない文章を書き綴る日々。足元から腐っていく感覚がした。茶色く濁った水のように心は色を変え、折れた花のように身体は崩れていく。
外出が嫌いなわけではない。けれど美しいと思わないと外に出なかった。人混みを避け、行きたい所が無い限りテリトリー内から出ない。そんな腐った生活を続けた結果がこの体たらくな身体である。
いや駄目じゃね!?!?
まだ26なの!!まだって言い方もどうかと思うけど、26なの!!元気であるべきなの!!これやばない!?
危機感を感じた26歳は引っ越しを機にお散歩を習慣づけようと決めた。
来たる土曜日、絶望的な体力の成人はお散歩を決行した。それは歩いて海まで行き、気分が乗らなくなるまで帰らないというプランだ。
一本道を歩き続けた。幸か不幸か、歩くのが速いので想像よりずっと速く海辺まで辿り着いた。
顔を上げた。天気はそこまで良くない。けれど水平線が見えた。マスクをつけていて良かったと思う。呆然と、口を開けていたから。
泳ぐのが好きなわけでもない。海は遠目から見てるのが一番である。雨の日に、窓の外を眺めるのと同じ感覚。海面は星のような輝きを放ち、サーフィンをする人たちが黒い影と化す。
僅かに香る潮。5年振りだろうか。砂浜を踏んだ。凹凸した砂に足を取られながら一歩、一歩と海へ近づく。打ち上げられた貝殻、ゴミ、海藻、流木が砂浜という紙へ楽譜の線を引くように伸びていた。一つの線で立ち止まる。気分は音符。きっと、綺麗な音は鳴らないだろうけど。
泡立つ波を間近に感じた。噴き出したソーダの泡より濃厚そうだった。どちらかと言うと、ビールの泡に近い。それも、振ってしまった時に暴発する泡。
パチパチ、シュワシュワ。砂浜に後を残し消えていった。引いていった波、砂浜にいくつかの穴が空く。あの中に貝がいるのを知っている。ほじくってやろうと思ったが濡れたくなかったので止めた。
流される小さなカニ、ウニの死骸、割れた貝殻。砂浜には沢山の物が流れついていた。靴の先でつつきながら波打ち際を進む。綺麗な貝やシーグラスを見つけ拾う。子供の頃から、やってる事が変わらないと思った。
まだ幼い頃、海に連れて行かれると必ず砂浜でシーグラスを探していた。母が一緒に探してくれて、拾い集めては宝物のように仕舞い込んだ。大人になり忘れた童心。けれどあの頃とは違う感覚がして、輝く何かを探していた。
それからまた隣の浜に映る。大した距離もないのに、隣の浜は波の打ち方、砂浜の色、落ちている物、そして海の色が違った。水縹色の海。白く泡立つ波は噴き出したソーダ。白っぽい砂に腐った海藻の匂いが潮に混じり鼻がツンとした。臭い。色彩に反して臭すぎる。
すぐ隣なのにここまで変わるものか。私はまじまじと海を見つめる。落ちている貝殻も、隣の浜とは別物だ。写真を撮っている人が多く、そういえば観光地だったと思い出す。私にとってここら辺は子供の頃からよく来た場所なので、物珍しさを感じなかったのだが、世の中で言うとここはレアな景色である。
確かに、先程の浜より写真映えしそうな色だもんなと思いつつ、美しい所が必ずしもいい匂いでない事を知った。もしかしたら天国も臭いかもしれないとくだらない事を思ったものだ。
線路沿いを歩き観光客が構えるカメラに映らぬよう避ける。土日に来るのは間違いだった。平日の休憩時間にお散歩した方がいい。次からはそうしよう。小さな学びを得て歩く。とにかく歩く。やがて足が疲れてきてどこまで歩くか考える。出発から既に2時間が経過していた。
私、2時間も歩き続けていたのか。小さな発見に心躍らされ目を輝かせていたうちに時間は経過していたらしい。人生のほとんどの時間がこういう風に過ぎていけばいいのにと思う。
有名なケーキ屋さんの前を通る。きっと土日は混んでいるから入れないだろう。それにしても昼食を取っていない。そこまでお腹は空いてないけど何か入れた方がいいな。
やっぱり一回見ちゃう?行けるか確認する?
ケーキに目を奪われた私は踵を返した。目の前の看板でメニューを確認し階段を上がる。
何という事でしょう。テーブルは空いていたのです。
そしてお散歩で消費したカロリーを一瞬で消し飛ばした。ケーキセットを頼み一人で贅沢な時間を過ごしてしまったのだ。窓の外に海が見える。ノンアルコールのドリンクを飲みながら大きなケーキを頬張る。
幸せ……。久方振りに心からそう思った。何に追われるわけでもない、ただ気ままに散歩して美味しい物を食べて、誰の事も考えなくていい。良い物を書けず自分を責め立てなくてもいい、そんな時間が来るのはいつ振りだろうか。
私はずっと、気づかぬうちに自分へナイフを向ける生活をしていたのかもしれない。
どこへだって行けたのに。何にだってなれたのに。それを地球の裏側に行った時知ったくせに。私を追い詰めるのはいつだって私自身だ。自由気ままにお散歩をして、好きな物を食べ、新しい風を感じ、流れた桜に立ち止まり、潮騒に耳を傾け、足が痛くなるまで幸せになるために歩いてよかったのに。
誰のためでもない、自分の心のために世界へ触れてよかったのに。
ずっと足りないと思っていた。今も思っている。私は足りない所が多すぎる。あ、これ社会人としてではなくてね。社会人としては私結構優秀な方だと思うよ。自画自賛するけどあまりに現場評価良いので、使える方だと自覚しています。
それは置いといて。
人として、足りない所ばかりだと思う。特にビジネスを抜いた人間関係に対しては酷い。根本的な考え方が違うのだと思う。察して欲しいとか思う時もなくはないが、それをやられると、「はあ?その口飾りか?言葉にせえよ」と普通に思うし、思ってもないのに空気を読んで望まれた言葉を言うのが苦手だ。
多分世の人たちはこれを怠いと思いながらも顔に出さず口にしている。出来なくはないがしんどくて、結局疎遠になっていく。私はビジネスを抜いた場において、相手が求める回答を理解していながらもそれを口に出せないのだ。
何を期待してるんだ。そう思ってしまうのだろう。どうして何もせず何かを貰えると思っているのか。なんて、捻くれた思考回路は最適解を知りながらも適当に流す。
子供の頃から分析力が高い子供だった。相手を観察し何を考えているのかある程度読めるようになった。ただ良い事も悪い所もぶち抜くように言ってしまうため、図星で気分を悪くさせていた。
人は自分の本心を突きつけられるのが苦手だ。私はそうでもないけど世の中の人は本心を暴かれるのが嫌い。そうでもないと思うのは恐らく、私の本心や思考回路を暴いた人間がいないからだろう。私も私が何を考えてどこまで見ているのか分かっていないから。
合わせる。空気を読む。望まれた返事をする。全部苦手な事ばかりで、これが出来た人から群れを成せるんだろうと思っている。なので私は人としてだいぶ欠陥商品だ。動物は群れて繁殖し集合体を作るから、そもそも群れられない時点で動物として欠陥だと思っているよ、私はね。
そうやって足りない所ばかりに目を向けて、劣等感に塗れた人生だと思う。生まれた時から何百回もへし折られた自尊心は知らぬ間に戻らなくなっていた。捻くれて捻じ曲がって、必死に元の形へ戻そうと泣きながら接着剤をつけた。
でも戻らない。何をしたって救われない。あの頃の私はずっと泣いている。いつだって振り返れば強く見せる事で折れた心を隠し、反抗的な態度のせいでより嫌われる、不器用でどうしようもない子供がいる。ただ一言、助けて欲しいと言えばよかったのに、それが出来なかった幼子。いつの間にか自分が作った像に苦しめられ全部終わらせたくなった物語。
そんなどうしようもない劣等感が根本にあると、たった一つ自分にしか出来ない物を手に入れた瞬間、絶対に失敗したくない、何としてもここに縋らなくちゃいけない、だって自分には何も無いんだからと必死になった。
書いても書いても結果が出せなくて、書いても書いても書きたい物語を書けなくて、書いても書いても心臓を締め付けて、書いても書いても。書いても。
そうして奪った幸せは私から行動力を消し去った。
幸せだと感じた日に思うのは、死ななくて良かったという事。死んでいたらこのケーキは食べられなかった。死んでいたら空の青さを知れなかった。死んでいたら波打ち際に目を細められなかった。死んでいたら流れた花弁に足を止められなかった。
他愛もない日々に自由を知る。
だから言ったじゃん、どこへだって行けるって。どこでも生きられるんだって。狭い世界で生きなきゃいけないわけじゃない。知ってたでしょ?
どこかでそんな声がしてそうだねと返す。知ってたよ。忘れてただけ。苦しくて辛くて、けれど立ち止まれなかったから歩いていただけ。
こんなにも足取りが軽い日はいつ振りだろうか。
カフェから出て下の階でお菓子を買う。久々に会う人がいるから、きっと喜ぶだろうと思って。美味しかった物を独り占めするのではなく誰かと共有する思考なのは育ち方によるものだろう。子供の頃から沢山分け合ったせいだ。
来た道を戻り気になっていた神社へ足を踏み入れる。人は一人もおらず潮騒が耳に届いた。
ああ、一生こんな感じでいたいな。お金を稼ぐ事なんて気にせず、生活を気にせず、ただ好きな物語を両手に抱えきれないくらいに書けたなら。名声なんて気にせず、称賛も批評にも目を向けず、ただ息が吸えたなら。
ただ、馬鹿みたいに笑いながら溢れ返る物語の中で眠れたなら。
それが一番の幸福だと思った。
勿論称賛は嬉しい。名声も得られるなら欲しい。そこに金銭がついてくるのなら尚更。
けれどただ、概念になりたい。概念になる物語が書きたい。J.K.ローリングのような、トールキンのような、シェイクスピアやモーム、彼らが残した物語は概念となった。そんな物語が書きたい。
確実に売れる物語を書くのではなく、ただ美しいと思える世界を見たい。ただ心が求めた世界を書きたい。この目に見えるここではないどこかの物語を文章にしたい。瞼を閉じれば誰かが生きている。一生を過ごしている。それを全部形にしたい。
馬鹿みたいな理想を、ある海街で息を吸うように言葉にした。潮風が木々を揺らす。落ちた椿がまだ鮮やかだ。砂利道の音に耳を澄ませる。笑ってしまうほど、世界は美しい。知っていたのに、気づけなかった。
どうしようもないくらい、形のない物で彩られている。
帰路につき家を通り越して評価のいい酒屋さんに行った。店主の方が迷う私に色んな説明をしてくれた。ワインを二本買い抱えて家に帰った。一本を冷蔵庫に入れ、服を脱ぎルームウェアを着る。潮の香りが僅かに残る髪のまま、ベッドへダイブした。
カーテンの隙間から覗く陽の光が眠りへ誘う。
微笑んだまま、私は目を閉じた。
起きたらワインを開けて仕込んでおいたカルパッチョと飲もう。昨日の残り物も出して、買ったクッキーを数枚食べてしまおうか。食事が終わったらシャワーを浴びよう。花の水を変えて、爪を海の色にしよう。
そんな事を考えながら、ああ、良かったと思う。
未来に対し前向きな想いを馳せられるようになって、良かったと。