唯一になりたかったのは必要とされないと価値が無いと思っていたから
君は僕の特別
誰かの何かになりたかった。唯一。替えの効かない存在。その言葉は酷く魅力的で、まるで月に手を伸ばすかのような感覚で求め続けた。
もがき、足掻き、苦しんで。誰かの何かになれない事に気づいた。自分はどこにでもいる何かで、替えはいくらでも効く、手は月に生涯届かない。
薄々気づいていた感覚が、脳天から直撃して脊髄を通り爪先まで充満した時、光のない場所で立ち止まった事を憶えている。無力感、世界へ唾を吐く感覚、降る雨は慈雨ではなく針のようにも思えた。
誰かの何かになりたかった。ただそれだけの話。
そんな日々があったのを不意に思い出した連休最終日。世に出す気はまだない、誰にも求められていない創作ばかりをしていた時にはたと手を止めた。
五月の風は随分温かく、起き抜けで何も食べずお気に入りのパン屋まで歩き買い物をして神社で祈って帰って来た。メロンパンと三個のから揚げ。それだけで終わった朝昼兼用食に随分低燃費だなと独り言ちる。
一人でいると、自分がめちゃくちゃ食べられる人間だと錯覚する時がある。でも、外食する度にそんな事はなかったと気づくのだ。何なら常人より食わない。一時期K-POP界隈で話題になったプリンクルス一本食べ切れるか否かに似ている。頑張れば食べられるだろうけど、その前に飽きて食べなくなりそうプリンクルス。
少し前まで、どこにも求められていない創作を書く事を怖がった。その時間があるなら早く仕事を取りに行かなくちゃ。お金を稼がなきゃ。名を残さなきゃ。
だって人間なんてすぐ忘れちゃうんだから。
でも随分変わったもので。今の仕事とこの土地に引っ越してきてから有り得ないくらい良い精神状態は、誰に見せるわけでもない創作を楽しみ始めた。
そうだ、そもそも好きで書き始めたんじゃないか。仕事になって求められて、残さなきゃと躍起になっておかしくなってしまったせいで。自分のために書く物語は楽しくて、攻撃されない心地よさがあった。
一番攻撃していたのは自分だというのに。
誰かの何かになりたかったと思っていたけれど、別に誰かの何かにならなくてもいいと気づいた。だってそのままで唯一無二だ。私のクローンはこの世に存在しないし、いいバージョンはいるかもしれないけど、全く持って同じ思考回路の人間はいない。それくらい異質だと自分でも分かっている。
というより、全員が全員、替えが効かないただの唯一だと気づいた。替えが効くと思っているのは社会が生み出した構図の中で求められるポジションのせいで、唯一になりたかったのは誰かに必要とされたかったから。そうじゃなきゃ、存在証明が出来ないと思っていたのだろう。
今の私はこのままで自分の存在証明が出来る。誰かがつけた価値に左右されて、必要とされるために愛や立場を求めなくなった。
だって私にしか書けない物語があって、私にしか考えられない物事がある。私にしか見えない世界があって、私にしか分からない価値を尊び愛している。
例え世界に一人残されても、私は私のための空想をし続けるだろう。
ある時は空を飛び、戦い、恋に落ち、平凡に生き、何かを創り、旅をし、閉じ籠り、声を上げ、何かを拾い集める。そんな数えきれない色彩のような物語を、ペンが無くなったら砂浜に書いて、石を削り、目を閉じ生み出すだろう。
ある瞬間に気づくのだ。あ、私、今自分の事結構好きだな、と。
好きな事をして、好きな物を食べて、好きな物に囲まれ、好きな人とだけ関わり、散った花や砂浜に輝く石、変わりゆく空の色と風の匂い、そういうものに目を向けられる自分が好きだ。
勿論どうしようもないな、お前。と思う事は沢山ある。もっと上手く立ち回れたんじゃないかと、綺麗な言葉を吐けたのではないか、一瞬でも嘘で塗り固めた善性を見せれば良かったかなとか、くだらない事を思う日もある。
でも、思うのだ。私は別に、誰かの唯一にならなくても生きていけると。だって私が私に対して、唯一だと思えたから。駄目な所も良い所も全部ひっくるめて、唯一無二だと思えたから。
じゃあもういいじゃん。別に他人に自分の価値を求めなくても、私は私のままで好きになってくれる人に巡り合うのが一番だし、誰かに好かれるために自分の根底を変える必要はどこにもないし、そんな事しなきゃいけない関係は無駄にしかならないからやめちまえ。
だって、君は僕の特別で、僕は君の特別なんだから。
そのままだから光り輝いて、そのままだから他愛のない日常の美しさを知れるんだ。そのままだから、人がどれだけ醜くて愚かで浅ましくて、けれど愚直で馬鹿みたいでどうしようもないくらい美しいと知ってるんだ。
君も、その一人なだけで。
誰かの何かになりたかった。時折、そう思う事もあるけれど、少し変わったかもしれない。何かになりたかったではなく、私は自分の中で価値があると思える人と一緒にいたい。それを、唯一と呼ぼう。そんな考えになった。
何とも良い事だ。なんてまるで開いた本を閉じるように苦笑して目を伏せる。
テーブルには、まだ開かない芍薬が光を浴びる瞬間を待ち侘びていた。