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雨音を聞くその時に、私が私であればいい

つんとした、空気の冷たさに目を細める。

子供の頃、雨が好きではなかった。

濡れたランドセル、浸水した靴、水浸しの廊下、鬱々とした空気。

成長した後も雨はいつだって私を憂鬱にさせていた気がする。制服が濡れ、ローファーの隙間からぐちゅぐちゅと音を立て溢れる泡に、心底吐き気がしたのを憶えている。

高い湿度、乾かない洋服、家路につく足が速まるのに気分は億劫。水溜りを踏んでしまえば尚の事。

でも子供の頃から私は、本当の意味で雨が嫌いなわけではなかったりする。

静かな部屋で電気もつけずに雨音を聞くのが好きだった。普段なら聴こえる人の声もその日だけは鳴りを潜め、車のエンジン音ですら遠く遠く、耳に届かない場所にいた。大きな窓から見る世界は、灰色に淡い薄水色の色彩が混じっている。水は透明ではないらしい。それを知らぬ間に見て触れて感じていたのだろう。

水滴は冷たかった。春雨も梅雨も夕立も秋雨も時雨も。いついかなる時でさえ指に触れる雨粒は冷たい。鼻の奥がつんとする。空気の匂いが違う。窓から眺める雨が、私はずっと好きだった。


なんてことを、先日の雨で思い出す。傘を差し自宅から出て歩いていたその時、空気が鼻の奥まで届いてつんとする。冬の静けさが混じった匂いだった。冬になれば何度でも嗅ぐ冷たさは身体の芯まで凍えさせるから好きではないくせに、季節の訪れに気づいた足は軽くなる。

雨が好きではなかった。けれど年々嫌いなものは変わっていく。今の私は雨の日、人のいない静かな街を歩くのが好きで傘を弾く雫も好きだ。雨粒を眺めるのも、葉から滑り落ちた雫に気づく瞬間、私の世界は一層美しさを増す。

それは輝きではない何か。例えるなら遠い昔に読んだ色褪せた本のページをめくるような感覚に近い。決して輝いてはいないのに、ずっと昔に読んだ内容のくせに、めくればめくるほど新たな気づきを得る。宝石のように輝くわけじゃないのに、静かでどこか切ない薄灰と水色の混じったそれらを、私はずっと愛していたことに気づく。

目に見える世界が全てではないと言うが、世界は目に見えているのに気づかないことばかりでもあると思う。

余裕があるから気づくのだろうか。きっと違う。確かに余裕があればあるほど周りを見れるしおおらかに生きられると思う。でも気づくか気づかないかは当人次第なのだろう。

前だけ見ていたら、後ろにいる誰かに気づかないように。
下ばかり見ていたら、空の色が分からないように。

それだけの話なのだと、最近しみじみと感じるのは自分が思っていたよりもずっと人はちょっとしたことに気づかないのを、身を持って体感しているからなのかもしれない。

私の世界に映る全てと誰かの世界に映る全ては同じはずなのに同じではない。それが不思議でたまらなくて、ぱしゃりと水溜りをあえて踏んでみた。水面は揺らぎ私の姿を映す。そしてふと考える。

もしかしたらこの目に映る全ては、私という映写機がフィルムを持ち寄って、瞳のスクリーンを通しただ映像を見せているだけなのかもしれない。

フィルムが違えば流れる映像も違う。我々は皆映写機で似ているようで異なったフィルムを配られているだけなのだ。

そう考えたら違って当然かと納得出来たので水溜りから足を離す。きっと生涯同じ景色を見て同じ気持ちを抱くことは出来ないだろう。それは全ての人間へ平等に存在する価値観だ。

だから同じものを見ようとするのだろう。分かち合おうとするのだろう。同じ志を持ち、高め合い、時に愛し合っては手を取る。違うから同じになろうとする。同じだと思っているから違いに気づき恐れる。単純明快な話だ。

ひとつ、またひとつ。出会いと別れを経験し大人になって、その度に自分にとって大切な感覚を再確認する。私は何がしたいのか。時折言えない日もあって、そんな時は自分が嫌になったりする。でもそれが続くわけではない。

蓋を開ければいつだって同じ望みが転がっているのだから。

目を閉じて雨音を聞く瞬間、私が私であればいい。なんて言いながらきっと冬になった瞬間寒すぎてキレるのだろうと、私は私をよく理解しているのでどうか温暖な冬でありますようにと願いを込めてみるのだ。

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優衣羽(Yuiha)
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