濡れている方が好きだなんて嘘だよ
濡れた肩の分だけ
「雨だ」
最初に言ったのは誰だろう。騒がしさが静まり、教室にいた人間は窓の外へ視線をやる。
灰色の空から降り注いだ滴が透明な硝子にひとつ張り付いた。またひとつ、ぽつぽつと張り付くそれに窓を閉める。
「もう梅雨入りしたんだっけ」
前の席の友人がスマートフォン片手にこちらへ身体を向けた。
「さあ」
席に着き頬杖をついた。折り畳み傘持ってるっけ、なんて他愛ない話を続けていると、友人はスマートフォンから顔を上げる。
「それで、どうなの?」
にんまりとした表情に私は溜息を吐く。
「何もないよ」
「嘘、隣のクラスの子から聞いたよ。あんたとあいつが楽しそうに話してたって」
「話してただけだよ」
「本当に~?」
にやにやしながら肘で小突いてくる友人に呆れながらも教科書を取り出す。
「本当。そんなんじゃないって」
追及を逃れるように出した言葉に、タイミングよくチャイムの音が鳴り響く。友人は諦めて前を向き、私だけが窓の外に視線を向けていた。
「止まなかった……」
昇降口の前、鞄を握り締めながら空を仰ぎ見る。一時間前に降り始めた雨は激しさを増していた。折り畳み傘を握り締め、朝の母に感謝する。ありがとうお母さん。あなたが言ってくれなかったら、私は今頃濡れて帰る所でした。
折り畳み傘を開き歩き始める。雨の弾く音はまるで何かの音楽のようだった。数歩歩いた所で背後から声をかけられる。私が振り向いたのと、声の主が傘に入って来たのは同時だった。
「駅まで入れてくれたりしない?」
「もう入ってるよね」
差した傘に頭をぶつけ、白いシャツは濡れ水玉模様を作っている。人懐っこい笑み、短い髪は湿気で元気を失っていた。
「まあいいじゃん、行こうぜ~」
「お礼はアイスがいいかな」
「任せろ、ちなみに俺の財布の中は三百円」
「終わってんだよそれは」
狭い傘に二人、身を寄せ合い歩き始める。私の手から傘を奪い、持ってくれた彼は何も言わずこちらへ傾けた。
「ねぇ濡れるよ」
「俺は大丈夫、濡れても風邪引かないし」
「じゃあこのままダッシュで駅まで行くのはどう?」
「行けるけど他の乗客の迷惑になるじゃん」
「そこはちゃんとしてるんだ……」
ああ、この相合傘も明日には噂になっちゃうかな。友人のからかいを思い出し少し憂鬱になる。けれど彼はそんな事さえ気づかず楽しそうに話を続ける。
「この前はありがとな」
「どういたしましてー。てか私だいぶ借り作ってると思うんだけど、その点どうお考えです?」
「ありがとうございます。大変助かっております」
「もっと褒め称えてもいいくらいだよ」
わざとらしい口調に文句を返す。私も大概可愛くない。ここで優しい言葉の一つくらいかければいいのに、それが出来ないから今がある。もっとも、彼がそれを望んでいるとは思えないが。
「じゃあ何か一個言う事聞く」
「例えば?」
「何でもいいよ。飯連れて行けって言われたら行くし、パシリも荷物持ちも何でもしますぜ」
「三百円しかないくせに……」
「おいそれは禁句」
何でも、か。歩きながらしばし考える。突然言われてもぱっと思いつかないのが人間だ。
それに、この何でもはあくまで彼の許容範囲の内で。そこから外れた何かを聞いてくれるわけではない。
さて、どうしたものか。考えれば考えるほど何も出て来なくて困ってしまう。
「どう?思いついた?」
「うーん……」
本当は、ある。けれどこれはきっと、今を変えてしまう言葉で。そして、彼が求めていない答えでもあって。一歩踏み出せば変わるのかもしれない。でも、私にとっては終わりへの第一歩だから、声にならず唇の隙間から息だけが漏れる。
でも、もしかしたら。終わりではなく、始まりの言葉になるのは、今なのかもしれない。足を止め息を吸う。
「どうした?」
顔を覗いた柔らかな表情に、何故だか鼻の奥がつんとした。
「あのね、」
「――!」
言いかけた言葉は、彼の名を呼ぶ可愛らしい声によって遮られる。視線の先、長いウェーブがかった髪の綺麗な女性が立っていた。
「あ、」
漏れた声、眉間へ僅かに皺を寄せた彼に私は口を閉じる。傘を奪い返して広い背中を強く押した。
「なっ、にすんだよ濡れる!」
「早く行きなよ」
「でも……」
「いいから」
「――」
再び彼の名前が呼ばれ、女性が腕に抱き着いてくる。
「ごめんね、私どうしても話したくてっ」
涙交じりの声は可愛らしくて、けれどこちらを見る目は酷く冷たく、ああ、どうしたってこの人の事を許せそうにないと再認識させられる。でも、私の出る幕はどこにもない。
だって彼は彼女から離れるつもりもないんだから。
「アイスやっぱりいいや、後何も思いつかなかったからいらない」
「じゃあね」
「待、」
「濡れちゃうから私の傘入って、家に行こう」
続く会話に背を向け歩き始める。私の名を呼ぶ声が聞こえても、振り返らず足を速め離れていく。やがて何も聞こえなくなり、曲がり角を曲がって、濡れた壁に背を預けた。
好きな人の好きな人は年上の綺麗なお姉さんで、酷い人だった。
弄び、浮気を繰り返し、その度に泣いては許しを乞う人。そんな人さっさと別れればいいのに。初めて話を聞いた時、どうして別れないんだろうと思ったものだ。
けれどどれだけ傷つけられようと、好きが消えなくて苦しいと彼は涙を流した。
馬鹿みたいだよなと思う。裏切られて馬鹿にされて、それでも好きだなんて愚かにもほどがある。顔を合わすのさえ辛くなって、でも会ったら流され唇を重ね、また好きだと言われ次こそはと信じる。そんな無意味な事を繰り返すのは、自分を傷つけているだけだ。
でも、それは私も同じで。
正直に想いを伝えれば何かが変わるかもしれないのに、あの時見た涙が、苦しくても消えない好きが、私に自分の想いを伝えるのではなく理解者である事を選ばせた。選ばせたというより、そうするしかなかったのだと思う。
だってあんなの見たら、自分には絶対あの感情が向けられないと思うじゃないか。
「馬鹿なのは私もか」
相談に乗るしか出来なくて、むしろ乗る事で彼の中に自分の価値を与えた。彼女が現れない学校内であれば、私が彼を一番に知っていると、叶うはずもないのに独占欲を見せつけて寄り添おうとした。
馬鹿みたいな恋心。
「そんな最低女辞めちゃえよ」
君にはもっといい人がいる。隣のクラスのソフトボール部の子とかさ、同じ委員会の後輩でもいいんじゃない?どんな人でも彼女よりはよっぽどいいと思うよ。
「私が選ばれれば良かったのに」
あの最低女と同じくらい私も最低だから。邪な気持ちで相談に乗って、敵わないから友達の立場を得た女ですもの。最低でしょ。浮気はしないし、他も見ない。でも、隣にいるために手段を選んでここにいるんだから、よっぽど最低だと思ってるよ。
「ほんと、馬鹿みたい」
この恋心はいつ消えるだろうか。卒業して、会わなくなって。何年も経ったら初めて消えてくれるのだろうか。彼の事を忘れ、彼女の事さえ見なくなって初めて、心の安寧を得るのだろうか。
どれだけ時が経とうとも、共に過ごした時間は事実として記憶に残るのに。
頭上から雨粒が落ち全身を濡らしていく。傘を差す気すら出ず、滴る冷たい水に目を伏せた。
「相合傘で濡れている方が好きだなんて嘘だよ」
彼の心にいられるのは、きっと濡れた肩の分だけだ。
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