たかが、21g分の物語。
21g、彷徨い、巡り、天に消える。
「やあ、おはよう」
いや、こんばんは?男は眼鏡をくいっと上げた。土の中から顔を出したばかりのこちらを見下げている。
「本当に生き返っちゃった。やってみるもんだね」
男は自身を褒め称えている。這い上がり地面に足をつけた。真っ暗な夜の片隅を照らすのは男が持っている懐中電灯だけだ。辺りを見渡すとここが墓地だという事に気づく。自分が出てきた所に、大きな穴が空いていた。
無我夢中で土を掻いた後だ。やけに他人事みたいで首を傾げる。何故なら掻いても掻いても、息は上がらず苦しさもなかったからだ。自分の手が目に入る。継ぎ接ぎだらけの皮膚は所々灰色だった。全身に目を向ける。継ぎ目は腐った肉を隠そうと強く縫われていて、肌色はどこにも無くなっていた。
「君は今ここから生き返ったんだよ」
ここ、分かる?男が指差した墓地に一度頷く。
「君はゾンビ。僕が生み出した生ける屍だ」
生前というものがあったらしい。記憶は一つもない。名前も分からない。ただ土の中から這い出てきたこの身体は、男の手によって生み出されたものだということだ。
男が言うには、十年前にあった戦争のせいで多くの兵士が死んだらしい。家族や友人、恋人を失った人の多くがもう一度亡くなった兵士に会いたいと願った。医学を極めた男は彼らの願いを叶えるために死者を蘇生しようとした。しかしそれは失敗した。
男は研究にのめり込んだ結果、ある一つの可能性を思いついた。それは墓地を掘り返し、一番状態が良かった死体に他の死体の状態がいい部分だけを繋ぎ合わせるというものである。マッドサイエンティストはそれを実行した。しかし、死した命が再び戻る事はなかった。男は諦めて継ぎ接ぎだらけの死体を埋め直した。
が、その死体が今になって意思を宿し土から這い出てきた。それが自分。十年前に死んだ兵士の中で、一番状態が良かった死体である。
「君の名前何がいい?」
「何でもいい」
「集団墓地に埋められてたから元の名前が分からないんだよね」
男は悩ましげな顔で食事を摂っていたがフォークを止めた。
「シェリーはどうかな?」
「シェリー?」
「かの有名なフランケンシュタインの作者、メアリー・シェリーの姓さ。君はゾンビだけど継ぎ接ぎだらけのその身体はフランケンシュタインみたいだし」
どう?と男は満足げにこちらを見てきたが、何でも良かったのでそれでいいと返す。この日、自分の名前がシェリーになった。女の名前と勘違いされそうだが、呼称が出来たのは良い事だと男は楽しげである。
生き返ったものの、やる事が無いのが現状だった。死者との再会を夢見た遺された人々に、死体をくっつけてゾンビを作りました。貴方の知り合いはこの皮膚かも?なんて言えるわけがない。
結果、男の住む墓地近くの研究室で家事をやるしかなくなった。しかし腐った身体は床を汚し、洗濯物に腐敗臭をまとわせる。男は自分の身体に包帯を巻き服を着るよう指示した。おかげで幾分かましになり床は綺麗に、洗濯はビニール製の手袋をつけ極力触らない事を意識した事で出来るようになった。
しかし料理は出来ない。生前からやっていなかったのだろう。ナイフでゆびごと切り落とした日には男にこっぴどく怒られた。痛みはなく、ただ取れたとしか思わなかったが縫い合わせるのが大変なんだとぶつぶつ文句を言われたため、キッチンには立ち入り禁止になった。
何より味も分からないのだ。この身体は睡眠も食事も排泄さえ必要ない。生ける屍とはよく言ったもので、人が人として生きるための機能がごっそり削げ落ちている。
そして一番が感情だ。何をしても心が動かされない。男はこれに不満を示した。
「ゾンビにだって感情はあるはずなんだけど」
「分からない」
「記憶が無くなってるせいかな。元が人間だったんだ、君だって何かに心を突き動かされるはず」
「どうすればいい?」
「どうしようね?とりあえず手当たり次第芸術に触れてみるとか?」
その日から男に与えられた部屋には数多の本が積まれるようになった。指示された通りに本を読む生活が始まり、時には映画も見て人の感情に触れた。しかし、どれだけ切ない恋模様が繰り広げられても、心が動かされる感覚はなかった。
男は困り果てた。彼は人と遜色ない感情を持つゾンビを最高傑作として作り出したかったからだ。けれど自分には感情がない。
「やっぱり他の人間に会うしかないのかな」
「俺がここにいる事って他に知ってる人間いるのか?」
「いないよ。君がいるなんて知れたら僕は投獄されるし、シェリーは捕まって実験体待ったなしだ」
いくら頼まれたからとはいえ、死者の身体をもてあそんだ罪は大きい。男の言葉に溜息を吐く。空虚な身体を埋めるものは見つかりそうにもない。
「考えものだなー」
その日の夜、シェリーは墓地に向かった。自分が出てきた場所に何かヒントがあるのではないかと考えたからだ。夜であれば人は訪れない。もっとも、この集団墓地に寄りつく人はほとんどいない。男の話だと、死者との再会を願ったほとんどの人たちは戦火に巻き込まれて亡くなったようだ。
真っ暗な夜の底、月明かりだけが墓地を照らしている。名前の刻まれていない十字架が所狭しと土に突き刺さっていた。それだけで地面に眠る亡骸がどれだけ凄惨な死を迎えたのか物語っていた。名前が分からないという事は確認が取れない状態だったという事だ。
顔が分からないほど傷ついていたか、身体の一部しか残らなかったか。考える要因は様々だが、穏やかな眠りにつけなかった事は確かだろう。
考えながら足を進めていた時、遠くに人の姿が見えた。
まさか。こんな夜遅くに人間がいるわけない。シェリーの身体は固まった。後退り墓石の陰に隠れようと考えたが、それより先に人の声が響く。
「誰かいるの?」
女の声だった。足は膠着し動けなくなる。ここで見つかってしまえば男も自分もどうなるか分からないと思っていたのにもかかわらず、いざ人を前にすると頭は真っ白になった。
足音を立てた自分とは対照的に、女は音もなく近づいてくる。そして雲に隠れた月が顔を出した時、お互いの目が合った。
金の髪が照らされ透けるように輝いていた。女の目は大きく見開かれ人ならざるシェリーを映す。そして、女は何故か苦笑した。唇を噛み締め、こんばんはと呟く。こちらに警戒する事もなく、一歩ずつ近づいてきた。
「怪物?」
「……ゾンビらしい」
「この下から出てきたの?それにしては継ぎ接ぎだらけの顔…」
「死んだ兵士たちの身体をくっつけて生み出されたから」
「……そう、じゃあ貴方は自分でありながら誰かであるのね」
女は物怖じせずシェリーの前に立つ。反対にシェリーは初めて恐れを抱いた。男と過ごす間、鏡で何度も自分の顔を見た。生前の記憶は無くとも、これが酷い形相だという事は理解出来た。
「……怖くないのか?」
「貴方が?全然」
「人ではないのに?」
「ええ。あ、もしかして人を食べたりする?」
「いや、何も食べない」
「じゃあ問題ないじゃない」
女は鼻歌を口ずさみながら見定めるようシェリーの周りを一周する。
「息は?してる?」
「してない」
「眠るの?」
「眠らない」
「腐ってるけど大丈夫?」
「包帯を巻いている。肉体が大きく削れた事はない」
「力は?やっぱり凄い強い?」
「普通だ」
ふーん。女は興味津々でシェリーに質問を続ける。
「名前は?」
「シェリー」
その瞬間、女の鼻歌が止まった。瞬きを繰り返し、何でその名前?と問う。自分を作った男がフランケンシュタインの作者から取ったと言えば女は納得した様子で、そっかと何度も頷いた。
「生きてた時の記憶はないの?」
「ない」
「…まぁ沢山の人の身体を継ぎ接いで生まれたんだからそうか。もしあったら色んな人の記憶が混じって大変だったかもね」
「頭はほとんど自分の物だと聞いている」
「でも脳が完全に残ってるわけじゃなくない?」
きっと脳汁が垂れてるかも、と表情も変えず自分の頭を指差した女にシェリーは困惑した。今まで男としか話してこなかったから、それ以外の人間との接し方が分からなかったのだ。
この女が変わっているのはシェリーでも分かった。普通の女なら見た瞬間泣き叫び逃げるだろう。脳汁がどうのなど、聞くわけもない。男とは違う、どこか変わった存在だった。
「…ここで何を?」
初めてシェリーは自分から問いかけを投げた。女は墓参りだよと返す。
「こんな時間にか」
「この時間しか来れないの」
「女が一人で、夜に?」
「まぁ理由なんて人それぞれじゃない」
とにかく墓参り!女はシェリーに背を向け墓地を歩き始める。
「知り合いだったのか?」
「大切な人」
「……ここに眠っている確証が?」
「うん。兵士だったから」
「なら―」
自分の中に入っているかもしれない。言いかけて口を閉じる。女も気づいたのだろう、眉を下げ笑んだ。
「ぐちゃぐちゃになって死んだと思ってて」
「戦争、か」
「知ってる?」
「詳しくはない」
「じゃあ教えてあげる」
女は月を背に話し始める。隣国との小競り合いがやがて大きな戦いに発展し、国を滅ぼしかねないほどの戦争が勃発した事。爆撃により街は破壊され多くの人々が死に絶えた事、残った人々も捉えられては拷問を受け殺された事。それは悲惨な状況であったという。
結果として戦争は勝利を収め終結したが、勝ったとは言えない状態になった。生き残った人々は満足のいく食事が取れず餓死したり、攫われ酷い目に遭ったり、お金が無く臓器を売りさばく事で生計を立てた人間も多かったという。
男が話していた、兵士たちに遺された人々が戦火によって死んだという事実をより加速させるような終結後の国の有様だった。
「だからここに死んだ兵士たちが埋まっている事を憶えている人は、ほとんどいないから誰も寄り付かない」
「お前は憶えているのか」
「ええ。ずっと」
女は溜息を吐く。そしてこちらに向き合った。
「ねぇ、明日もここに来ない?」
「明日…」
「会いたいから。眠れないなら話し相手が欲しいと思わない?」
女の提案にシェリーは男が自分に求めていたものを思い出す。彼女といれば感情が分かるかもしれない。
「分かった」
「じゃあ約束ね」
名前も知らない女は手を振って夜闇に消えていった。
その日から毎晩、二人は墓地で会うようになった。女が話し、シェリーはそれを聞くだけだったが随分と心地よく感じられた。
女は様々な話をした。まだ戦争が始まる前の田舎で生まれ育ったという。麦畑が広がるそこは秋になると黄金色に輝いていて、それがとても好きだったと嬉しそうに語った。
「丘があって、そこから畑を見下ろすのが好きだったの」
「丘……」
「幼馴染がいて、よく一緒に走り回っていたわ」
「何をしていたんだ?」
「色々。悪さもしたし、家の手伝いをサボって二人でよく遊んでは親に怒られていたわ。思い返すとあの頃が一番幸せだったかも」
「なぜ?」
「だって戦争もなかったし、何も考えずにいられたもの。ただ楽しいだけで毎日が過ぎていったから」
シェリーには楽しいという感覚が分からなかった。しかし生きていた頃には感じていたのだろう。女が思い出に浸り楽しげに笑う様子を見て、きっと自分も同じ顔をしていた瞬間があったと思うようになった。
何度も会うにつれ、女の話は他愛もない思い出話から、彼女の大切だと言っていた兵士の話に変わっていった。
「幼馴染なの」
「前に言っていた人間か」
「そう、私たちが十七歳の時に戦争が始まって。彼は志願して軍に入った」
「自ら兵士になった…」
「正義漢が強い人だったの。自分一人で何かが変わるとは思えないけれど、戦わなければ守る者も守れないと言って」
女は切なげな表情を浮かべた。これが、傷ついているのだと分かったのは男に与えられた多くの芸術作品のおかげだろう。
「でも前線に出る事はなくてね、たまたま空きが出たから首都の防衛兵士になれたの」
「首都は…確かここから一時間ほど行った所か」
「当時は古い建物でいっぱいだったのよ。素敵な街並みだったわ。私は彼に会いたい一心で田舎から出て首都にやって来たの。戦地である国境付近の地元より首都の方がずっと平和だったから」
「会えたのか?」
「ええ。そこから何度も逢瀬を重ねて、二十歳の頃に結婚した」
「……既婚者だったのか」
女の姿が若かったので結婚していたとは思わなかった。女はプッと噴き出す。
「そうよね、二十歳で結婚するのは早いもの。でもいつ死ぬか分からない世界だったから、少しでも一緒にいたくて」
「実際一緒にいれたのか?」
「ええ。結婚して一年ほどは戦いが落ち着いていたから、比較的一緒にいられたわ。でも」
「でも?」
女が口を閉ざす。ぎゅっと両手指を合わせて俯いた。
「負け戦になると分かった隣国が、首都に爆撃を落とすようになった」
「あ……」
爆撃で、多くの人が死んだ。
「そこから敵国の兵士がなだれ込んできた。私は逃げるしか出来なくて、必死に街を走ったわ。でも逃げる場所なんてない。火に包まれた街を行く当てもなく彷徨った。阿鼻叫喚が響いてた。けれどきっと、彼も戦っているから、必ず帰ってきてくれるから、私は生きて帰りを待たなきゃって奮い立たせて何とか生き延びた」
「……その相手は」
「…私が首都を出たすぐ後にひと際大きな爆発が起きた。その時に亡くなったと知ったのはそれから半年後よ」
「そうか」
女は地面を見つめる。恐らくこの下に眠っているのだろう。
「でも認めたくなかったわ。だって死体を見る事もなく死んだなんて言われても実感が湧かないでしょ?」
「そうかもな」
「それに、恐らく死んだって言われたの。あまりに人が死んで判別できないほどだったから、まとめて集団墓地に放った話を聞いて、そんなのあんまりだわと思った」
「……でも、それが戦争なんだろう」
「……そうね、その通りだわ。戦争中の人の命は、硬貨一枚よりも軽い」
さよならも言えず、死んだと確信も出来ず二度と会えなくなった人々がここに埋まっているのだと思うとやるせなかった。そして、それを集めた結果が自分だというのが、何とも言い難い。
「それからどうしたんだ?」
「地獄みたいな日々よ。親戚のつてをたどって、逃げるしか出来なかった。墓参りすら行けなかった」
「でも今来れているだろう?」
「ええ。本当に今更よ」
もう遅いと言っているようだった。形容しがたい感覚に襲われる。女は時間だと言ってその日は別れを告げた。
「それ、きっと感情じゃないか!?」
次の日の昼、男は大層喜んだ。女と会っている事を話しても良かったのだが、何となく隠すべきだと思い口にはしなかったが、この感覚は男曰く、感情らしい。
「悲しいとか?それとも不快感?」
「いや、分からない」
「何でそんな状況になったんだい?」
男の問いに、返事をするのが遅れた。映画を見たと誤魔化せば、何の映画だと問われたので、先日見た恋愛映画のタイトルを返すと納得してもらえたらしい。
「あの映画はね、悲しいからねぇ」
「悲しい」
「いやでも良かったよ。君の身体に魂は宿っていないのかと思ったから」
「魂?なぜそんな事を」
「君は生ける屍だろう?生前はあったはずの魂も、多くの兵士の身体を継ぎ接いだ事によってごちゃ混ぜになり消えたとか―」
「とか?」
「そもそも死者蘇生は倫理に反するからね。神様がいるというならきっと、何かしらの罰を僕らに与えるんじゃないかと思った」
罰?男の言葉に首を傾げる。すると彼はお互いを指差した。
「僕は創造者として死んだ後、地獄に落とされる。君は魂もない状態で死ぬ事も出来ずこの世界を一生彷徨い続けるんじゃないかとね」
「死ぬ…そうか、死ぬ事がないなら終わりがないのか」
「まぁ本当に君が死なないのかは分からないんだけど」
「何故だ?」
「だっていくら自我を持ったゾンビとはいえ、作られた以上どこかで終わりは来ると思うんだ。その身体を維持するのは難しいしね」
男の言葉に納得する。確かに、この身体は腐っている。継ぎ接ぎされたおかげで何とか形を保っているが、崩壊する事もあるだろう。
「問題は身体が崩壊しても、君の自我が残るかだけど」
「脳があれば動いている可能性は?」
「有り得るけど無理だろうね。その脳だって腐ってるんだ。腐敗を止める事は出来ない。ベースとなった君の生前の記憶が無いのも記憶を司る部分が腐ってるからだよ、ゾンビになってから憶えた事は脳っていうより多分身体で憶えてるんだと思う」
僕にも全ては分からない、と男は眼鏡を上げる。考えれば納得出来る。記憶を司る部分が腐っているのなら、ゾンビになってから憶えている全ては脳以外のどこかで憶えているのだろう。
「やっぱり21gか」
「21g?」
男は科学者にも分からない人体の問題だ、と人差し指を立てた。
「人が五体満足の状態で死ぬとする。すると何故か死後、身体から21gが減っているんだ」
「水分とかじゃないのか」
「違うね。色んな仮説があるけど、一つ有名な説がある」
「それは?」
「魂だよ」
男の指がシェリーの胸元を差した。
「非現実的な事だが、人間は消えた21gを魂の重さと考えた。死後役目を終えた魂が天界へ向かったが故に、身体が軽くなるのだとね」
「魂の、重さ」
「こんな科学的に証明出来ない事言いたくないんだけど、僕は君が蘇ってからずっと、そんな事を考えている」
「そんな事って、魂の事か?」
「ああ。感情が無いのは魂が無いからなんじゃないかって。心が脳ではない、別の部分に存在するというのなら、それは魂に関わるんじゃないかとね」
心とはどこにあるのだろうか。僅かに芽生えた感情は、どこで感じ取っているのだろうか。
「死者に魂はないというのは、古来から様々な創作で言われてきた事だよ」
「何かあった?」
女の言葉に顔を上げる。夜の墓地で、昼間話した男との会話を思い出していた。
「記憶というのは、どこで保管しているのか分かるか」
「突然ね」
そうだな、と女は腕を組み考え始める。
「やはり脳か」
「確かに脳が記憶するけれど、それだけではないと思うの」
「違うのか?」
「ええ。心や身体で憶えている事だってあるわ」
心。自分にはないものだとシェリーは思った。しかし女は、貴方にもあるじゃないと言う。
「私の話を聞いて表情を変えているんだから、あるわよ」
「変わっている?」
「本当に僅かだけど。私は分かる」
自分の口の端に指を当てにっと笑って見せた女に不思議な気持ちを抱いた。形容しがたい、けれど以前感じた物よりも心地が良い。
「21gが無いと話したんだ」
「21g?…ああ、魂の重さね」
「知っているのか」
「ええ、戦争中あまりにも多くの人が亡くなったから、その人たちがどうか天国で幸せであるのを願って魂の重さに触れる事が増えたのよ」
宗教あるある、と女は言葉を続けた。
「死者には魂が無いのではないかと、男は言っていた。俺もそう思っている」
「なぜ?」
「この身体は確かにベースがあるけれど、多くの死体で作られている。今シェリーという名をつけられた人格も、ベースであった身体の思考だとは言えない。そもそも死体で作られたのなら、魂は全て抜け落ちていると、俺は思う」
手の平を強く握ると切れ目から腐った血が顔を出す。皮膚は剥がれ落ちる。生ける屍。ただ動いているだけの死体。
「ベースよ」
女は唐突にそう言った。
「ベースの思考よ」
「なぜそう言えるんだ?」
「私には分かる」
女は何故か唇を震わせながら微笑んだ。映画で何度も見た、悲しみながらも気丈に振舞う姿だ。
「魂があろうがなかろうが、シェリーの思考はベースの身体の思考だわ。それだけは分かる」
「……魂は天国に行くのか」
「そう言われてるけど分からないわ、だって誰もその瞬間を見たわけではないから。遺された人間が悲しくて仕方ないから作った戯言と言ってしまえばそれまでだもの」
女の言い分はその通りだった。けれど、と女は目を伏せる。
「そうであれば、いいと思う」
女の手が頬に伸びた。しかし、触れる事はなかった。女は手を引き、拳を握り締める。月明かりに照らされたその手は、透けるように白かった。
「あの墓地に人は来るのか?」
「唐突だね?」
研究室で怪しげな液体を調合している男の背に問いかける。彼は振り返り目を瞬かせた。
「誰かと会った?」
「……いや」
「会ったんだね、その反応で分かるよ」
目を逸らした瞬間ばれてしまった事実を、男は大丈夫だった?とだけ返してくる。全く驚かれなかった事を伝えると、思ってもない様子で良かったと言われた。
「慌てないのか」
「ばれたら終わりだとは思ってたんだけど、君の様子で大丈夫かなと思った」
「なぜ?」
「もし本当にまずそうだったら最初から人と会ったって言うだろ普通」
普通が分からないが、言っている事はごもっともだった。
「それで?どんな人だい?」
「女だ」
「おいおい、人間とゾンビの恋物語かよ」
最高だな!男は液体から手を離し立ち上がる。ニヤニヤしながらこちらに近づいてくる姿は見た事が無かった。
「名前は?」
「知らない」
「何で?」
「聞いた事もない」
「そこに興味湧かないのか…」
男は紙の束を机に置いた。ペンを握り締めた所で、彼が研究記録を取るつもりだと気づいたが止める気もないので質問を返していく。
「年齢は?」
「分からないが、二十歳の時に結婚したと話していた。戦争中だったと」
「じゃあ今は三十代とかかな。容姿は?」
「金の髪、あと透けそうなくらい白い肌」
「美人?」
「美人……?」
「映画の中に出てくる女優とどっちが綺麗だと思う?」
「……分からない」
男はペンを走らせる。そんな事を聞く必要はあるのかと思ったが、恐らく彼は女の素性を知ろうとしているのだろう。
「他には?何か話してた?」
「田舎の生まれだと言っていた。戦地だった国境付近の、麦畑が印象的な」
「ああ、分かるよそこ。焼け野原になって見る影も失ったんだ。……悲しいね」
故郷が見る影もなくなったのを、女は知っているのだろう。丘の上から見た黄金色の麦畑は彼女の記憶の中にしかいない。
「兵士の旦那がいたと話していた」
「ここに眠っているのか」
「首都で起きた爆撃で死んだのを、逃げ延びた半年後に伝えられたらしい」
「でも曖昧に言われたんじゃない?本人か分からないから、多分死んだみたいな」
「ああ、その通りだ」
なるほどね、と男は頬杖をつきながら目を閉じ、それにしても、と口を開く。
「生きてる人いたのか」
「ほとんど死んだと話していたな」
「ああ。僕の記憶が正しければ、この数年は墓参りなんて誰も来ていないよ」
「墓参りに行けなかったと言っていた。それに夜間しか来れないとも」
「夜間だけ…?」
男の瞼が開かれる。
「このご時世に女一人で夜に出歩くなんて有り得ない。男でもしないよ」
「危ないから?」
「襲われたり、人身売買のために捕まって売られるくらいだよ?何で来れるんだろう」
そう言われても、女は理由を話さなかった。触れるなと言っているようにも思えた。
「他には?何か言ってた?」
会話を思い返す。女の人生の話、戦争の事、大切な人。―ふと、昨晩彼女が言い切った言葉が浮かんだ。
「ベースの思考だと言われた」
「ベースの?」
「シェリーの思考はベースとなった身体の思考だと、自分には分かると言い切った。理由は言われなかったが」
「身体の……」
男は黙り込んだ。そしておもむろに立ち上がり棚からファイルを取り出す。
「……僕は科学者だ。目に見えない物を信じるのは難しい。21g理論も、実際の所は分からない」
机の上にファイルを置き何かを探すようにページをめくり始めた。
「君が土から這い上がって来たのは僕の実験が成功したからとも思ってる。でも世の中には証明出来ない事ばかりでね」
そして、手を止めた。
「シェリー、僕が君にこの名前を付けたのは偶然だけど、思えば最初から決められていたのかもしれない」
そこに挟まっていた写真に、男の言いたかった全てが詰め込まれていた。
「こんばんは」
月の輝く夜だった。女はいつも通り、足音もなく遠くからやってきた。立ったまま動かないシェリーに首を傾げたが女は両手を広げる。
「今日ハロウィンなの知ってる?」
「ああ」
「子供の頃お菓子を求めて近所を練り回ったわ。懐かしい」
ふふ、と口を押さえ笑う女はこちらに向き合う。
「トリックオアトリート!」
お菓子かいたずらか。定番の台詞を楽し気に口にした女にシェリーは口を開く。
「いたずら」
「え」
「いたずら」
もう一度、念を押すように言えば女の顔は険しくなっていく。
「いいから触れよ」
その言葉で、女は目を大きく見開いた後苦笑した。
「……ずるいねぇ」
それが答えだった。伸ばされた手は継ぎ接ぎだらけの頬に触れる、はずだった。けれどいつまで経っても感覚はない。以前も同じような事があった。その時は触れる前に女が止まったからだと思っていた。
けれど違う。添えられた手を握るためにシェリーは手を動かす。しかしその手に触れる事はなく頬に自分の手が当たった。
「シェリー・ミシェル」
女の目がひときわ大きく開かれる。
「首都爆撃により死んだ若き兵士、オスカー・ミシェルの妻。東部の田舎町出身。オスカーの遺体は他の兵士たちと共に集団墓地に埋葬されたとされている」
そして、手が身体を通過し宙へ落ちていく。
「首都爆撃後、親戚の家を転々としていたが病にかかり戦争が終わる前に死亡」
服のポケットにしまっていた写真を取り出す。昼間に男が見ていたファイルの中に入っていた写真だ。
「これは君だ」
写真に写っていたのは長い金の髪が印象的な女性、目の前の女だった。女はばれちゃった、と頬を掻く。
「何で写真持ってるの?」
「戦後、この墓地に眠っているはずである兵士たちの存在を親族に知らせるために軍が調査を行った。それを、あのマッドサイエンティストが持っていた」
あの男は元々、優秀な軍医であった。戦時中、上からの命令で人体実験を行い続けおかしくなってしまった。死者蘇生も、戦時中に命じられた実験の一環だったと、写真を渡された時に教えてくれた。
「君は21gだけをこの世に残して彷徨っている、幽霊だ」
ゾンビがいるなら、幽霊だっている。結論付けた男は非常に悔しそうな顔をした。科学者としての自分の立場がないようなものであるからだ。証明できない事象は、科学者のプライドをへし折るようなものだ、と。
女は目を伏せる。写真の中の女は健康そうな肌色だったが、今は透けるように白い。否、透けていたのだ。ずっと、暗い夜の底にいたから気づかなかっただけで。
「行けなかったの」
女は口を開く。
「そこに眠っているのかも分からなくて、認めたくなくて。機会すら与えられず病にかかって死んだ」
ぽつり、ぽつりと、零れる言葉にただ耳を傾ける。
「死んだら会えると思ったんだけど気づいたらここにいた」
「未練があったから?」
「私もそう思ったんだけど、ちょっと違った」
顔を上げた女と目が合う。
「貴方がここにいるから、私がここにいるのよ」
「俺が……?」
「シェリー。…ううん、オスカー」
オスカー。旦那の名前を呼んだ女は透ける手を再び伸ばす。
「何でベースの思考だと言い切れたか。貴方の喋り方、オスカーそのものなのよ。不器用で言葉足らず、基本無表情で付き合いの長い人しか感情が読めない」
両手が、頬に添えられた。
「顔も継ぎ接ぎだらけだけど貴方よ」
女の、シェリーの顔が涙を堪えながら笑った。無意識にゾンビは、否、オスカーはその両手を包み込む。どうやって触れていたのかを、身体は憶えていた。壊れ物を扱うように虚空を包む。そこにあると信じている。
「きっと貴方の事を迎えに来たのよ私は」
写真が滑りシェリーの身体をすり抜け地面に落ちる。憶えていない。何も思い出せない。けれど名前を呼ばれた瞬間空虚な身体に何かが宿った。何かが、はまった。それをきっと―
人は心と呼ぶ。
「行けない」
唇が動いた。シェリーはどうして?と問う。
「死ねない。魂がない。生ける屍に終わりなんてない」
「終わるわ」
「なぜそう言えるんだ」
「終わらないものなんて、この世のどこにもありはしないから」
永遠に思えた幸福も、地獄のような日々も、全て終わったとシェリーは言う。
「本当は会った瞬間、一生同じ所に行けないと思った。でも違う。貴方は会う度に腐っていって、腐っていく度に人になっていった」
「何を…」
「もういいの」
シェリーは首を横に振った。
「もう、全部終わったのよ」
シェリーの話を思い出した。旦那は生真面目で正義漢が強く、前線に行けなかった事を酷く悔やんでいた。戦わなければ守る者も守れない、死んでも死にきれないと繰り返した彼に、じゃあ置いていくなんて事しないでと返したらしい。すると彼は、死んだって会いに行くと言われた、と。
死んだって、会いに行く。
「何で、俺なのか疑問を抱いていた」
ずっと、蘇ってから考えた。ベースになった身体だからだとも思った。けれど他の死体でも有り得たのではないか。結論なんて出ない。だから、これはただの思い込み。男が嫌がる、有り得ない話。
「多分、君に会おうとしたんだ」
瞬間、シェリーの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。頬を伝い消えていくそれは、地面に落ちず触れる事さえ出来ない。それでも絶え間なく零れ落ちる涙をこの手は拭おうとした。
「憶えていない。何も思い出せない。それなのに君に名前を呼ばれた瞬間、何かが宿ったと思った。それを、君が心と呼ぶのなら」
シェリーは泣きながら微笑む。頬に、何かが伝った。熱くも冷たくもない、けれど瞳から零れたのは間違いなく目の前の彼女と同じものだ。
「魂はここにあったんだ」
他の死体の21gはきっと、先に旅立って。ただ一人残された魂はずっと、この地に眠り続けた。無いと思ったのは気づかなかっただけ。ずっと、ずっと。
この身体で息をしていた。
突然足の力を失いバランスを崩す。腐った身体が崩壊を始めた。糸が切れ継ぎ目から腐った身体がただれていく。シェリーは驚き目の前で膝をついたがオスカーは納得していた。彼は触れられない彼女の唇に自身の唇を寄せる。熱すら感じない口づけは、思い出せないはずの在りし日を彷彿させた。
壊れ物を包み込むように彼女の身体を抱きしめる。腕の中でシェリーの身体はどんどん透けていく。
「終わりかしら」
「ああ、きっと」
死ねない身体は心を自覚した瞬間役目を果たしたかのように崩れていく。触れられない身体は共に消え去ろうとしている。
「天国、あるかな」
シェリーの言葉に目を閉じる。
「きっと」
21g、向こうに着いたら思い出せるだろうか。腕の中にいる彼女と生きた長い人生の物語を。
月明かりが墓地を照らす。腐った肉塊は元の形を留める事無く地面に散らばっていた。写真が一枚、肉塊の傍に落ちている。柔らかに微笑む女性はその場で起きた全てを物語っているようだった。
あるハロウィンの夜に起きた、たかが21g分の物語を。