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一生の後悔として、君に放った言葉と添い遂げるよ

「いつか、」


雨の強い日だった。席に座る彼の背景に曇り空が広がっている。電気のついていない教室には私たちしかいない。灰色の空と薄青のカーテン、濃い緑の黒板が白い壁と汚れた床に反射して、青灰色の色彩を放っていた。

一歩。また一歩とそちらへ近づく。彼は私に気づき顔をこちらへ向ける。私は椅子を引っ張り机の横につけて持っていたノートを開いた。

「これさ、」

何を話したかは分からない。ただ、どこにでもあるような他愛ない会話。思い返せないほど当たり前であった日々の欠片。今となっては紅茶に入れた角砂糖のように、人生に溶け込んで甘さだけを残し形さえ思い出せなくなった時間。

会話を繰り返し笑い合って、席を立ち帰りの準備をした。外は肌寒く激しい雨が打ち付ける。マフラーを巻き直し一本の傘に身を寄せ合って歩き始めた。

夜は更け、信号と街灯、車のライトが雨に濡れたアスファルトをオレンジ色に輝かせ、時折水溜りが緑色に点滅する。

どちらかともなく指を絡ませ雨に濡れるのも構わず抱きしめ合った。

唇が触れそうな距離、傘は地面に落ち水溜りを作り始め、身体を離し見つめ合う。

「いつか、」

彼の唇は震えていた。寒さではなく、込み上げた感情からなのだろう。

「いつか、お互いに頑張って生きてやりたい事をやりきったら」

「その時は一緒になろう」

瞬間、私の視界が歪む。

それは頭上から降る冷たい雫ではない。瞳から零れ出す、感情の熱だった。

絶え間なく落ちる熱に、目の前の彼も涙を流す。嗚咽が夜の街に響き渡る。ボロボロになるまで泣いて、それでもお互いの手を離そうとしなかったのは言葉とは反対に終わりが分かっていたから。


だって、それは永遠に叶わないじゃん。

どれだけ頑張って生きても、やりたい事をやり切っても。

その先の未来に、君はいないじゃん。

一緒になんてもうなれないんだよ。この命が終わっても、きっと来世があったとしても無理なんだよ。言葉に出来なかった一言。言えばよかったのに言えなかった言葉たち。口を開けば言えるはずなのに、嗚咽が邪魔をして伝えられない。

それでも言いたい事は分かっていて、ゆっくりと手を離す。


さよならも言えずに。



「いや何でやねん」

AM7:50。アラームが鳴る前に目が覚めた。寝覚めは近年稀に見るくらい良い。白い天井、遮光カーテンの隙間から陽の光が覗き込んで床に線を作っていた。

起きた私は何となく腑に落ちる。ああ、また見た。そりゃ寝覚めがいいはずですわ。

その人の夢を見た後は、酷く寝覚めがいい。

普段はぎりぎりまでむにゃむにゃして、起きるのも遅く二度寝をかましに行くことだって多いのに、その人の夢を見る日の私は必ず早く起きて昼寝も満足に出来ないまま夜になる。

「何その展開。期待してないよ」

前日の残り飯であるフレンチトーストを温めながら洗面台の鏡越しに自分を嘲笑した。何でそんな恋愛展開なんだ。誰も求めてないし、そんな夢を見てしまう私もどうかしている。

今日は何が起きるのだろう。珍しく外仕事が入っているせいか、そんな事を思ったのは今までその人の夢を見ると必ず何かが起きるから。

ある時は時計が壊れ、ある時はその人に似た人に会ったり、またある時は思い返せば人生の選択だったり、いつもいつも、何かある日は夢を見る。

不思議なものでメカニズムは解明されておらず、何故なのかは未だに分からない。スピリチュアル現象とでも言えるだろうか。最も、私にしか適応されないわけだが。

夢の中で言われた言葉が脳内を何度も反復している。一字一句、忘れられそうにない。

「馬鹿げてるねぇ」

日焼け止めを手に取り入念に塗り始めた。下地にファンデーション。コンシーラーで気になる部分を隠しパウダーをはたく。ここまでで既に、あの頃の自分がしていなかった事をしている。

眉毛もシェーディングもアイメイクもリップも、良い感じに出来て今日は調子がいいと思いながら着替えを手に取る。鏡に映る今の私は、あの頃の面影を残しながらも一人の大人として立っていた。


「そんな事永遠にないんだよ」

ぽつりと呟けば夢の中の自分と感情がリンクする。まるで本当にあったかのような記憶。随分と大人になった私が、過去を思い出し目を伏せて笑うしかないような気持ち。実際、そんな台詞も状況にさえなっていないのだが。

さて、私は一体いつまでこの人の夢を見るのだろう。今更かもしれないけど、めちゃくちゃ好きになった人が出来て、めちゃくちゃ愛してもらえて、過去も全て包んで生きていこうと思える人が現れてくれるまで、永遠に続くんじゃなかろうか。最悪、そんな人がいても見るんじゃないだろうか。

夢は時折、現実へ何かのメッセージを送るための手段であると聞いた事がある。正直信じていないのだが、これに関してはあまりにも身に覚えがあり過ぎて信じざるを得ないのかもしれないと思っている。

ふと、先日元担当さんと食事に行った時の事を思い出す。

『その人って今も生きてるんですか?』

『もし生きてなかったら、夢に現れるのって有り得ない話かもしれないけど何かあると思っちゃいますよね』

盲点だった。生きていると思ってるけど、人なんて簡単に死ぬから死んでてもおかしくない。何より、今の私には生死を確認する術が何もない。元々付き合いがいい方ではなく、群れるタイプでも無かったのに、あまりにプライベートの人間関係を絞って疎かにしたせいで、同級生が今何をしているのかなんて知らないのだ。

詰まる所、今何をしているか知らない人たちが、私が作家だと知っている確率の方が高いのである。これには色々理由があるんだけど、恩師だとか少ない交友関係の中でも、まぁばれるもんはばれる。悪気なく、あいつ作家になったんだよ!って言った瞬間にばれるので、しゃあない。

そうやって広まった中で連絡してきた人たちには当たり障りのない返事をして友達解除したり、場合によってはブロックしたりするんですけどね。止めとこう、この話。下手な知り合いが一番面倒ごとを巻き起こすと思ってます。


私よりはましだと思うが、その人もだいぶ人間関係に対して希薄だったと思う。深く関わらない相手に対して、結構な切り方をしていたイメージが強い。そのせいか、今どこで何をしているのか、私は本当に分からない。

本気を出せば分かるのだろうけど、そこまでする気もなく。そんな事をして何になるわけでもないから。どこかで生きて幸せになっていればいいよとしか思えない。

でも、そうか。死んでるのも有り得るんだ。お酒を飲みながら確かにと言って、何となくそれは知りたくないと思った。

だってどこかで幸せでいてくれればいいと、満たされて平凡な幸福と愛に包まれていればいいと思っていた時間が全て意味のない物だと気づいてしまった時、私がずっと、その人を利用しているみたいに思えてしまったから。

夢の中で見るのも、始まりも。全部、自分を酔うために相手を使っている気になってしまって申し訳ないから。お願いだから誰よりも幸せでいて欲しい。誰よりも愛されて欲しい。もし死んでいたとしても、最期の瞬間まで幸福と愛に満ち溢れていたものであって欲しかったと思う。

後悔なんて生涯晴れないから。それでいいと、私はもう分かっているけど死んでるのは違う。


仕事で尊敬していた人に、尊敬していると伝えた。何だこいつと思われたであろう。何となく表情が困惑していたので。ただきっと、もう二度と会う事はないだろうから、今言わなくちゃ後悔すると思って伝えた。貴方は凄いんですよ。私は本当にそう思うんです。だから誇ってください。素晴らしい人だから。そんな気持ちを込めて伝えた。

伝えるようになったのは、皆から沢山の感想や愛に溢れた文章を貰うにつれ、感動は言葉にしないと意味がないと気づいたから。

同時に、言ってしまって後悔をして、伝えなくて二度と戻れなくなったんだから言わなきゃ駄目だろと思っているから。

人間は何のために言葉を作ったんだ。想いを相手に伝えるためだろ。そのために言葉があるのに、私がそれを使わないなんて馬鹿げた事しちゃ駄目だろ。だって私は、言葉で人に伝える仕事をしてるんだから。

帰り道、電車で目を閉じ脳内で独り言ちる。

『ねぇ、何も起きなかったよ』

『時計は壊れなかったし、君に似た人は現れなかった』

『もしかすると、振り返ったら人生に大きく関わるような選択がどこかにあったのかもしれないけど』

『少なくとも"今"は何も起きてないよ』

『せっかく出演したのに、今回は外したかもねぇ』

もう顔も薄れてきた。声も、記憶通りか判別出来なくなっていた。

『一緒にいようなんて、ずっと、私は思えないよ』

『君は幸せになるべきだし、間違いなく私とはいない方が幸せだろうよ』

『だって私好きな事して生きてるし。よくある癒しとか母性とか、支えてくれる女みたいな理想像からかけ離れてるし』

『隣にいても、よっしゃ頑張るぞ!って一緒に走り出して、良い事があればハイタッチ、悪い事があるなら頬杖をついて何とかしようと話し合うような女になっちゃったから』

『大丈夫だよなんて支える事も、癒しを与える事も世話を焼く事も、出来るかもしれないけどやりたくないの。だから求められるとしんどいし、知らねえ~って言いながら書き物をして笑う人生を選んだよ』

『もしかしたらこの先さ、そんな自分でもいいよって言う人が現れるかもしれないけど、少なくとも今は考えられないなあ』

『だって私の人生は、恋愛よりも私がやりたい事のために動いて回っているから』

でもさ――。

イヤホン越しに降車駅が聞こえ目を開ける。曇り空から晴れ間が覗き、午後一時半の陽射しは五月を温かく包み込んでいた。

激しい雨とは、正反対の姿で。

私は立ち上がり開いたドアから駅のホームに降りる。風が髪を攫い乱れた前髪を直しながら階段へ向かった。

『でもさ、言われた時は悲しさが勝ったけど嬉しさもあったんだよ』

『きっと私、一生の後悔として、君に放った言葉と添い遂げるよ』

『あの短い時間で何があったかのか、海の底に沈殿したプランクトンみたいに視認出来なくなって、紅茶に入れた角砂糖のように溶けて見えなくなってしまっても』

『一生の後悔として、添い遂げるよ』

何となく足取りが軽やかになって階段を上がる。乗り換えの電車に飛び乗って席に座り、窓の外に視線をやった。

責めるようで包み込むような、眩しいくらいの陽射しに目を細め苦笑して瞼を閉じた時、裏側に沈殿した思い出が一瞬舞い上がった気がした。

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