Paradise Regained
薪を割る音が冷たい空気を裂くように響いた。
かじかんだ手で切り株から跳んだ薪を拾う。雪は足跡を残した。曇天から温かな陽射しが差し込む事はない。一人、薪を抱え片手は斧を引きずりながら歩を速めた。崖の上に立つ小屋は石造りで外壁。崖の下に広がる海から吹く潮風によって隙間風が吹くようになってしまった。
小屋の前まで着いた時聞こえた大きな波音に扉を開けようとした手が止まる。薪と斧を投げ捨て、小屋の壁を伝い崖の先へ足を進めた。
海は荒れ白い飛沫は何百年も前に描かれた浮世絵のようだった。カモメが荒れた海から逃げ惑うように飛んでいる。錆びれた埠頭に船は無く、灯台は本来の役割を失った。
目を細めれば微かに対岸が見える。青銅で出来た鐘が決まった時間になる時計台、同じ色の屋根が続いている。あちら側の波は幾分か穏やかに思えた。
カモメが、小屋の屋根に止まった。屋根をつつき中に入りたがっているが、いくら隙間風が吹くほどに脆くなったとはいえ石壁がくちばしごときに負けるわけもない。
「何もないよ」
そこで今日初めて、自分が喋った事に気づいた。
「魚は塩漬けしたものしかないから、あなたが食べるには塩分が高すぎる」
カモメは首を傾げる。
「私の所に来るより仲間の所に行った方がいいもの食べられると思うよ」
「せっかく、孤独じゃないんだから」
こちらの言葉が分かったのか、カモメは羽をばたつかせ飛んで行く。灰色の世界に白い鳥が飛んでも感動を憶えなかった。
薪と斧を拾い直し扉を開ける。狭い小屋の中にあるのは薄いシーツのベッド、足の折れたテーブルに破れて綿が出たソファー、流し場に大きめの桶。天井には塩漬けされた魚やハーブ類が吊るされ風で揺れていた。
暖炉に薪を投げ入れマッチを擦り火をつけた。じんわりと小屋の中が温まるのを感じて上着を脱ぐ。マフラーを外し棚の上に置いた。横には留め具が壊れた木箱。蓋を開けると、中には手紙と小さな灰色の小瓶が入っている。小瓶をひと撫でし木箱を戻す。女は髪をまとめ流し場に向かった。
この島に人は住んでいない。
五十年以上前までこの島には人が住んでいた。美しい海を一望できる列車、石壁で作られた住居群、繊細なステンドグラスが魅力の教会には信心深い信者たちが集まり、毎週末に祈りを捧げていた。
しかし、対岸からやってきた人間たちにより島は破壊された。彼らは自分たちと違う神を信仰する島民たちを陵辱し、男は殺され女は奴隷として売り飛ばされた。神を愛し、神に愛された島は破壊され、信仰を失い海が荒れるようになった。
無人となった島に人は近寄らなくなった。
塩漬けされた魚を焼き、カビの部分を切り落としたパンを皿に入れる。ソファーに腰を下ろし、食事を前に手を合わせ指を組む。目を閉じ組んだ手に額を預けた。
十数秒、呼吸だけをし目を開ける。先端が一本欠けたフォークで魚を刺す。塩気とたんぱくな白身が口内に広がった。
食事を終えた女は木箱を手に戻って来る。テーブルにそれを置き、手紙を全て掴んだ後、ソファーに寝転がり封筒を開いた。
『降り続けていた雨が止んで、久方ぶりに太陽を見た。海面に反射して宝石のように輝いていたよ。もしかしたら、どんな宝石よりも綺麗かもしれない。薬指に輝く石よりも』
『……冗談だ。忘れてくれ。君は仕方ないと納得していたけれど、それを渡せない事に俺はまだ納得出来ないままでいる。君もきっと、納得した振りをしただけだと思いたい』
『花のしおりをありがとう。この花は何と言うのか植物図鑑で調べようと思ったんだが、図書館に行く時間を得られないままこれを書いている。この町では見かけない花だ。君のいる場所が美しい物で溢れている事を手紙で知れて安心している』
『そうだ。次からこちらの住所に送って欲しい。両親がやり取りに勘付いているようなんだ。郵便の検閲も厳しくなっていく。君からの手紙を奪われるのも、時間の問題かもしれない』
『俺はもう疲れた。自分を偽るのも、隠し続けるのも。この手紙を送ってから、君の元へ行こうと思う』
『二人で生きていけるだけの金を貯めていたんだ。国境を越えられれば、自由に生きる事が出来る』
『方法は君に直接話すよ。どうか、俺の手を取って欲しい』
『君と愛する未来が欲しいんだ』
手紙を封筒に戻し木箱へ仕舞う。立ち上がり刃物を手に取る。首筋に当て力を入れた瞬間、木箱がテーブルから音を立てて落ちた。女は息を吐き刃物を元の場所に戻す。そして木箱を拾いそれを抱きしめてから棚の上に置いた。
「酷い人」
その日も空は鈍色だった。
女は一人、破壊された島を歩いている。錆びた線路に両手を伸ばしバランスを取りながら足を進める。少し歩くと駅だったものに辿り着いた。
遮るものがないホームを潮風が襲う。扉の外れた電話ボックスが目に入り、髪を押さえながらそちらへ近づいた。受話器が垂れさがり真っ黒な電話のボタンは錆びていて押せない。
女は受話器を取った。番号を指で押す。耳を澄ましても風と波音が聞こえるだけだ。
「もしもし」
ポケットから取り出した藍色の小瓶を片手に、独り言を続けた。
「邪魔しないでもらっていいですか」
酷く冷たい声音をいさめるように風が止んだ。
「それともまだだって言いたいの?」
「生きて天国にでも行けって?」
床に溜まった水溜りに藍色の小瓶が映り込む。角度を変え光るそれは、まるで月光のようだった。
「天国に行っても意味無いでしょ」
「神様は受け入れてくれないよ」
「邪魔出来るなら返事くらいしてよ」
受話器越しに聞こえる声はない。目を閉じ想いを馳せても涙は流れない。受話器を戻し電話ボックスを出た。
歩き続け教会に辿り着く。屋根が壊された教会ははりぼてのようだと考えた女は中に入る。長椅子の破片が腐り、神の像は砕け散っている。ご自慢のステンドグラスは割れ、光すら反射していなかった。
腕を失くした半身の小さな硝子の女神像が目に入り、女はそちらへ歩みを進めた。すると瓦礫に足を取られ受け身も取れず顔から転んでしまった。手に持っていた藍色の小瓶がすり抜け宙を舞う。顔が地面に当たった瞬間、聞こえたのは瓶が割れた音だった。
痛む鼻を押さえ上体を起こす。視線の先、割れた瓶の欠片が飛び散っていた。女神像に灰が被っている。女は唇を噛み締め四つん這いで女神像の前に辿り着く。
「なにそれ」
唇を噛み締め女神像ごと灰を救い上げた。
「もういいって事?」
女は女神像の尖った部分を自身の心臓に突き刺そうとした。鋭利なそれは命を奪うには充分過ぎるほどの凶器になり得る。しかし、それは叶わなかった。途端に吹いた風が灰を攫ってしまったからだ。
掴む事も出来ず風に舞い消えてしまった灰に、女は呆然と唇を開く。
「あなたが、私を生かそうとしないでよ」
一筋の涙が乾き切った女神像に落ちた。
愛した人がいた。
出会いは単純。落としたハンカチを拾ってもらったから。ベタで擦られ過ぎた展開。けれど私たちは恋に落ちた。
素敵な人だった。両親の仕事を手伝いながらいつか自分で商売をするために勉強をし続けていた彼は、真面目で優しくて、多くの人から愛される存在だった。
好きになるのに時間はかからなかった。よその町から来た私を彼はよく案内してくれた。決まった時間になる青銅の鐘。博愛主義と謳う神様。変わらぬ景観に統一された街並み。彼は私の手を掴んで歩き続けた。海は輝き、花は咲き誇り、太陽は私たちを照らしていた。
けれど、私たちの関係をお互いの両親は否定した。顔を見るなり別れなさいと言われ、嫌だと言えば以前住んでいた町へ逆戻り。電話さえ出来なくなり、なぜ否定されたのかも分からぬまま恋人の安否だけを願った。
ある日、弟がこっそり私に手紙を渡してくれた。それは彼からの手紙で、中には信じられない事実が書かれていた。
『俺は赤ん坊の頃、両親に養子として引き取られた。実の両親は、君の父と母』
『俺たちは血の繋がった双子なんだ』
博愛主義を謳う神様は、どんな人でも平等に愛すると言っていたけれど、二つほど許さないものがあった。
一つが双子。後に産まれた子供は血を絶やす存在となる。
二つ目が近親相姦。相手に感情を抱く事は悪魔が宿っている証拠である。
愛した人が生き別れの片割れだった。私は絶望した。今でも彼への想いは消えない。目を閉じれば瞼の裏で彼が笑う。愛している。どうしようもないほど、彼を愛している。
けれど神様は、世界は私たちを受け入れない。
手紙を返すのを躊躇った。ここでさよならをした方が、お互いのためになるのではないだろうか。きっと、この先彼以上に愛する人なんて出て来ないだろう。
でも、この愛は罪だ。
手紙は続く。最後の一文。綺麗な筆跡で続いた文字は、そこだけ震えていた。
『それでも俺は、君を愛している』
真っ白な便箋を雫が濡らしていく。愛している。たった一言。これを書くのに、どれだけの覚悟が必要だったのだろう。想う事さえ罪であり、私たちは神様にとって悪魔だ。
けれど、この想いは止められなかった。
こっそりと、ばれないように文通を始めた。返事が来る度、彼が罪に問われていない事に安堵した。半年ほど経ったある日、彼がこちらに来るという手紙が来た。
国境を越えれば、隣の国はどんな愛でも許容する宗教だから、私たちは生きていける。子供を作る事は叶わないだろう。けれど、隣で生きる事を許されるのなら、そこはどこでも楽園だと思えた。
荷物をまとめ指定された場所に駆けた。先に着いていた彼は小さな鞄一つを背負っていた。顔はやつれていて、けれど私を見た瞬間涙を流しながら駆けてきた。私も同じように泣きながら彼の腕の中に飛び込んだ。
「覚悟は出来てる?」
「あなたとならどこへでも」
国境の検閲を超えるのは不可能だと言った彼は、海を経由して隣国に入る計画を話した。隣国の国境付近にある港は、この国で受け入れられない事情を抱えた者たちを受け入れる港でもあった。
「あの島が生きていたのなら、俺たちはそこに行ったのに」
「でもあそこは流刑地だわ。勝手に近づけば殺されてしまう」
五十年以上前は生きていた島は、流刑地となった。と言っても島流しされる罪は限られている。
島で信仰されていたのは隣国と同じ、どんな愛でも受け入れ祝福する神様だった。隣国の土地だったそこを攻め落とした事で、私たちの国は一瞬にして他国から狙われるようになった。軍は強化され続け、停戦協定を結んだ隣国に攻め入る時はそう遠くないと言われている。
「それでも、君と一緒なら楽園だよ」
私たちの逃避行は失敗した。
国境付近にて軍に捕らえられ、抵抗も虚しく監獄へ連れて行かれた。彼の姿を見たのは、それが最後だった。私の名前を必死に呼び、何度も手を伸ばしては殴られ縛られ連れて行かれた。私は牢で膝を抱え奇跡が起きるのを願うしかなかった。
しかし、神様は罪人を救わない。
「これ」
両親の目を盗みやって来た弟が渡してきたのは藍色の小瓶だった。
「彼だ」
中には灰。まさか。私は鉄格子を掴み嘘だと言ってと、何度も繰り返した。けれど弟は首を横に振るだけで。
「三日三晩、火炙りの刑に処されて死んだ。これは僅かに残った遺灰だよ」
瓶の中でさらさらと灰が流れる。
虚しかった。
心にぽっかり穴が空いて、悲しみを超えた感情が押し寄せ涙さえ出なかった。吐き気がしてえづく。しかし、何も口にしていない胃から出るものはなかった。
死んだ。
彼が死んだ。
「悪魔を殺すには火炙りしかないって……でも、助かる可能性もあったんだ」
弟は言葉を続ける。
「自分は悪魔に惑わされた。姉さんこそ悪魔だと口にすればね。けれど彼はそれを拒んだ。彼女は悪魔じゃない。自分こそ悪魔で、彼女は惑わされただけに過ぎないって」
私の代わりに、彼は焼かれた。
生きたまま、縛られ吊るされ、三日三晩。
火炙りにされた。
「な、んで」
ただ、愛しただけなのに。ただ、相手が生き別れた片割れだっただけなのに。
ただ、二人で平和に暮らしたかっただけなのに。
青銅の鐘が鳴り、遠くから足音が近づいてくる。無情にも、罰が下った。
「流刑地で、生涯罪を償い続ける事」
木箱だけを抱え島に着いてから、何十回、何百回も死のうとした。けれどその度に何かしらの邪魔が入り、私は自死する事さえ叶わなかった。
始めは罰だと思った。片割れを愛した罰。双子として産まれた罪。しかし段々と、別の思考に変わっていた。
神様は罪を犯した者には等しく死を望んだ。罪人の私は自死を選ぶ方が神にとってより良い結末である。神は私の死を望んでいる。ならば邪魔はしないだろう、と。
そしたら、私を邪魔するのは誰?
たった一人、私が死ぬのを望まぬ人がいたのを思い出す。一足先に地獄へ落ちた彼だ。生きて罪を償い続ける一生を過ごせば、人は天国に行けるらしい。彼がもし、それを望んでいたのなら。
私だけを、天国に連れていくために生かしているのなら。死のうとする度に彼が止めに来てくれるのなら。
私は、もう少しだけ生きてみようと思えた。
女神像をそっと包み込む。
「生きてても絶望しかない」
だって、私の行き着く未来に、彼はどこにもいない。
この世にも、天国にさえ、彼はいない。
「私、ずっと生かされている」
彼との記憶が私の毎日を救い、彼の愛が私の自死を止める。
「今もずっと、あなたに生かされている」
そんなもの、望んでいないのに。
「あなたとならどこでも楽園よ。地獄だってあなたがいれば」
お願いだから、もう生かさないで欲しい。
「罪を償う気なんてないの。だって償ってしまえば、私はあなたへの愛を否定する事になる」
お願いだから、もう嘘をつかせないで欲しい。
「それだけは嫌なの。私は今でも、あなたを愛して良かったと、心からそう思っているから」
私が償うのは、たった一つ。
「あなたを一人、火の海へ行かせた事。これが、私の償うべき一番の罪」
あの時、私も悪魔だと言えたなら。彼と同じく火に炙られただろう。けれど絶望に支配された脳に、そんな考えは思いつかなかった。
「あなたを一人、地獄に落とし今も私はあなたに生かされている事。それこそ、あなたが私の愛を考えてくれない証拠よ」
同じ立場なら生かしたいと思うだろう。自ら火の海に飛び込むだろう。ただ彼が先に私を庇っただけ。ただ私が彼を庇えなかっただけ。
私が、弱かっただけ。
「私を愛しているのなら、私の気持ちだって考えてよ。私を愛しているのなら、私を殺してよ」
愛によって生かされている。それほどまで幸福で残酷な事はないだろう。
「一緒に、罰を受けてよ」
痛む身体に視線を落とす。膝から血が滲んでいる。手の平の皮が剥けていた。けれど、私の未来に彼がいない事の方がよっぽど辛い。
涙を我慢し唇を血が出るほど噛み締めた。不意に、地面に光が差し込んだのに気づく。
顔を上げると割れたステンドグラスの隙間から、陽の光が差し込み、私を照らしていた。
まるで、祝福するように。
「……神様、もしいるのなら私の願いを聞いてください」
女神像を胸に抱え、光の方向を仰ぎ見る。
「私は地獄に落ちようと思います。例えそこに彼がいなくとも、私は彼を一人で行かせた罪を償うため、どんな痛みも苦しみも耐え抜き罪を償う事を誓います」
光が微笑んだ気がした。
「だからもし……もし罪を償い終えたなら、今度こそ彼と幸せになりたいです。共に生き、共に泣き、共に笑い、例え何億光年先になろうとも、彼との幸せな未来を紡がせてください」
女神像の先端を胸に押し当てる。今度こそ、邪魔は入らなかった。
「海街にて、彼を待ち続けます」
心臓は、そこで動きを止めた。
『アテンション、アテンション。地球を離れてから――』
「いたツヅミ」
珍しく廊下に座り込んで何かを見ていたツヅミはセレネの声に顔を上げる。
「何でこんな所にいるの?」
「何となく」
「何見てるの?」
隣に腰を下ろしたセレネはツヅミの持っていた端末の画面を覗き込む。そこには海が映っていた。
「あ、白いワンピース」
「唐突に何?」
「ううん、内緒~」
「……本当に何だ?」
画面の奥、光が差し込む島が見えた。
「この島明るいね」
「祝福された土地だったらしいよ」
「祝福されると照らされるの?非科学的だね……」
「まぁ、昔は宗教も信仰も息をしていたから」
興味深く画面を見るセレネに、ツヅミは目を閉じ受け継がれてきた記憶を垣間見る。
初めて会った時、あの海街で、白いワンピースを着た一等星が、
「やっと会えた」
そう言い涙を流しながら笑った理由を、彼はまだ分かりそうにない。
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