「筋肉増強外来」はいったい身体の何を治療するのか?~ドーピングと医療行為の違いについて考える~
自分自身の、競技における「ドーピング」に対する基本的な考え方は、以前の記事で書きました。
ところが、最近では一部の病院で「筋肉増強外来」という部門が人気だと聞き、こうして新たな記事を書いています。
具体的な病院名についてはここでは触れません。
気になる方は検索エンジンで調べてみてください。
あるいは、こんな動画もあります。
ひとことでいってしまうと、その病院では、医療行為としていわゆる「ドーピング」を行ってくれるようです。
もちろん、ここで「ドーピング」といっているのは、あくまでも競技スポーツの立場から見たものです。
競技スポーツにかかわらない人からすれば、これはたしかに「医療行為」であり、非難される筋合いのものではありません。
一般に、中高年の男性は加齢によって男性ホルモンが減ってくることが知られています。
(女性の場合は、女性ホルモンの減少によって同様の問題が起こります)
人は年齢を経ることで、様々な心身の変調に見舞われます。
具体的に言うと
気分が落ち込みやすくなる
身体が疲れやすくなる
新しいこと、行動することへの意欲が減る
性欲が減る
など、の変化が起こります。
いわゆる更年期障害ですね。
これに対する医学的な治療法の一つとして、「テストステロン補充療法」はあります。
テストステロン、つまり男性ホルモンを経口や注射で摂取し、その体内量を人為的に増やすのです。
いつまでも精力的に活動したい人達、バリバリ働きたいビジネスマンや事業家などの間で人気のある医療だといいます。
他にも、体の発達が著しく遅れている小児や、性自認について悩みを抱える人なども、こうした療法を行うといいます。
男性ホルモンが増えると、積極的、活動的になります。
気持も前向きになり、集中力や意欲も向上します。
そして何より、筋肉が発達します。
その効果はすさまじく、筋トレをするよりも、ただテストステロンを摂取した方が、筋肉が増えることが分かっています。
注射を打つだけで、筋肉が増える。
まさに魔法の薬ですね。
ここで挙げたテストステロン以外にも、様々な薬物、ないしは療法が存在します。
「悪魔」との取引には代償が必要?
しかし、この夢のような薬には、当然ながら副作用、デメリットが伴います。
その代表的なものを挙げると
血管、心臓へのダメージ
肝機能の低下
睾丸の萎縮、精子の減少(男性のみ、女性の場合は無月経など)
うつなどの気分障害
などがあります。
あと、他に有名なところでは「顔のむくみ(ムーンフェイス)」や「ニキビが増える」というものもあります。
興味深いのは、テストステロンの減少によって気分の落ち込みが生じるのに、テストステロンを人為的に増やしても、同じく気分障害が発生するという点です。
それぐらい、ホルモンバランスの変化というのは人間の心理に強い影響をもたらすということです。
だからこそ、医療行為に区分されるのです。
国家資格である医師免許を取得した医師の監督のもと、用法用量を注意深く調整し、また副作用を緩和するケア剤なども摂取することで、デメリットを最小限に抑える必要があります。
ところが、この医療行為とされる治療も、スポーツ競技の世界ではれっきとしたルール違反になってしまいます。
(しかし、スポーツ競技の世界でも「選手が持病等を抱えていて、そのための医療行為であれば可とする場合がある」というルールがあって、問題をより複雑にしています)
飲むだけで、注射を打つだけで筋トレよりも筋肉が増やせるような薬があれば、誰だって使用したいのは当然です。
そしてひとたび誰かが使用してしまえば、他の選手も使用しないワケにはいきません。
1人だけが使用して他の選手は使わないとなると、圧倒的なアドバンテージ、不平等が生まれてしまうでしょう。
そうしているうちに競争は激化し、やがて命を危険にさらすレベルまでドーピングをしないと、その競技で結果を出せないような状況が訪れることでしょう。
それではスポーツの「人を健康にする、人生を豊かにする」という基本理念と矛盾するので、ルールで規制されているのです。
しかしながら、すでにドーピングチェックのない(ことが暗黙の前提になってしまっている)一部競技では、それに近い状況が起こっています。
具体的にいうと、プロのボディビル分野などです。
残念なことに、斯界では「世界最高峰」とされている大会が、すでにそうなっているといいます。
度を超えたドーピングによって、選手たちが次々に心身の異常をきたし、若くして死んでしまうような競技。
そんな世界に、いったいなんの魅力があるでしょうか?
その大会を、胸を張って子供たちに見せられるでしょうか?
とはいえ悲しいことに、そんな「異常な世界」が世界的人気を博しているのも、またまぎれもないこの世の現実です。
競技に熟達すればするほど、不健康になる世界。
命を削らないと、高みに到達できない世界。
他人に迷惑をかけてないから構わない?
違います。
ドーピングしないと勝てない、勝負にならないという状況を生み出している、もしくは手を貸している時点で、その行為はれっきとした「悪」なのです。
悪魔の甘いささやきには、誰も逆らえない
さて、病院の外来で「筋肉増強」が簡単に行えるとすると、今後の競技界はどうなるでしょうか?
単純に考えて、安易に手を出す人がもっと増えてしまうのではないでしょうか?
とはいえ、少なくともネット上の怪しげな知識にたよって薬品を個人輸入して摂取するよりは、リスクが下がっているのは間違いありません。
国家資格をもつ医師の、監督と指導を受けられるのですから。
その点に関してだけは「いいこと」かもしれませんが、同時にそれはドーピングを行いやすい環境が整備された、ということでもあります。
いくらアンチドーピングの理念があっても、アマチュアスポーツの大会などではそう簡単にドーピングチェックを行えないのが実情です。
単純に、費用や手間の問題です。
特に、地区レベルの大会となれば厳格な実施は難しいでしょう。
そうなると、「どうせトップ選手にはなれないのだから、それだったら町の病院でちょっとテストステロン補充してもらおうか?」
そんな人が、今後どんどん増えてくるのではないでしょうか。
もちろん、そこは病院で医師がいますから、生き死ににかかわるようなレベルの過激な「治療」は行わないでしょう。
患者の健康を損なったり、ましてや死なせてしまっては大問題ですから、かなり厳密な安全性が担保されているはずです。
(いっぽう、世界最高峰の競技レベルでは、命を危険にさらすレベルの用量を打たないと競争には勝てない、とも聞きます)
しかし、「筋肉増強外来」が隆盛すると、こんな状況が発生することが予想されます。
明らかに特別な体つきをしていて、フィジカルがどう見てもアマチュアのそれではない。
しかし、特に上部のカテゴリーを目指すでもなく、あくまでもレクリエーションとして競技を行っている。
こんな人たちが、あちこちの競技分野で増えるのです。
下手をすると、ドーピングチェックが厳しい競技では、トップの下部層よりも、アマチュアの上位層の方がレベルが高いという、奇妙な逆転現象さえ起こってしまうのではないでしょうか。
(最近、Youtubeなどで、明らかにその辺のコンテストビルダー以上の凄まじいバルクがあるのに、なぜか試合には出場していない、という人をちらほら見かけるようになりました)
要は、「真面目にドーピングなしで取り組んでいる人」と、「そこまで真剣じゃないけど、ドーピングして身体を強化している人」が、競技における立場を逆転させてしまうということです。
特にボディメイクの分野では、そうなる蓋然性が高いように思います。
球技などの分野では、技術など筋肉量以外の要素が選手の能力を左右しますが、ボディビルやフィジークなどボディメイクの分野では、筋量がほぼそのまま選手の能力と直結しています。
なんでも、ある有名なボディメイク大会には、「医師の部」というカテゴリーがあって、そこに出場する医師の選手は、当然のようにドーピングを行っているという話も聞きます。
筋肉増強外来で行う医療を、自分にも行うわけです。
個人的には、真面目に「ナチュラル」で頑張っている医師の方も多いと信じていますが。
免許取得の難易度が高く、世間的には「エリート」とされる医師の中にも、そうした倫理観を持った人がすでに一定数存在するということです。
医師なので人体のことに詳しいから効率よく筋肉を鍛えられる……のではありません。
医学に精通していてドーピングのノウハウに優れているので、筋肉を大きくできるのです。
しかし、ごく一般の人は「医師の部」と言われてもそんな状況には思いもよらず、「高学歴な上にマッチョだなんてすごい」と純粋に思うだけなのかもしれません。
ドーピングの存在も、ましてやそのデメリットも知らないでしょうから。
また、そもそもの問題として、見る側、観客がドーピングのことを一切知らなければ、パッと見て「いい体をしている選手が多い」団体の方が人気が出るでしょう。
そうなると、ドーピングに厳格で真面目な団体が淘汰され、ドーピングチェックの緩い不誠実な団体が人気を博す、という可能性も考えられます。
まさに、「悪貨は良貨を駆逐する」という悪夢です。
これは「終わりの始まり」なのだろうか?
議論の大前提として、テストステロン補充療法が医療行為である以上、それによって救われている人が必ず存在します。
だから、療法を全面的に禁止することはできません。
しかし、「誰でも簡単にテストステロンを補充出来て、筋肉を増強できてしまう」という現状を放置すると、今後のスポーツ競技の世界がひどく歪んだものになってしまう恐れがあります。
いや、プロスポーツやオリンピックのような、大金が動いたりや国家の威信がかかっているような領域では、もうすでに状況は歪みきってしまっているのかもしれません。
「筋肉増強外来」が世間に浸透するということは、スポーツ界の頂点で生じていたと思われるその「歪み」が、ついに一般のレベルまで下りてくる、ということなのかもしれません。
これまでは一部のトップ選手だけが直面していた問題に、裾野の競技者も直面させられるということです。
そんな時代が、すぐそこまで迫っているのです。
嘆くばかりではダメなので
さて、そんなディストピア的状況がすぐそこまで迫っているとはいえ。
しかし、その時代を生きる人間にとっては、それは絶望でもなんでもなくて、ただそこにある現実でしかありません。
これからは、
「更年期障害に悩んでテストステロン補充療法を受ける」
「理想の体を目指すためにテストステロン補充療法を受ける」
という、いわば「困りごと、悩みごと」と「やりたいこと、望むこと」との差が、限りなく小さくなってしまうような時代がやってきたのです。
あるいは、その2つは究極的には同じことなのかも知れません。
「これは嫌だ、困る」と「こうしたい、こうなりたい」は、いってみればコインの表裏のようなものです。
では、そんな時代を生きるために必要なことはなんでしょうか。
やや陳腐かも知れませんが、
常に情報収集を怠らず、また得た情報を精査すること
ではないでしょうか。
たとえば、あなたがボクシングや総合格闘技のような打撃攻撃を伴う格闘技をやっていたとして、日ごろの練習の成果を試すため試合に出場するとしましょう。
その時、あなたは試合を主宰する団体のアンチドーピングポリシーや、あるいは出場者の参加資格等について、これまで以上によく調べないといけないでしょう。
試合の進め方、試合中のレフェリーの対応など、ルール面についても。
あえて、最悪の事態を想定してみましょう。
あなたがドーピングチェックなどのずさんな団体の試合に出てしまった場合、対戦相手がテストステロン補充療法によって「エンハンス」された選手かも知れません。
そんな対戦で、なおかつその団体のレフェリングが試合の盛り上がり重視で、ダウンなどでストップをかけるタイミングが遅れがちなものだったとしたら。
その場合、試合に出場したあなたは必要以上のダメージを負わされる危険があります。
直接打撃の競技であれば、後遺症を負う恐れもあります。
これは、プロ興行の格闘技大会では本当にあった話です。
気になる方は、ためしにこんな記事をご覧ください。
プロであれば、まだ出場する選手側の覚悟もそれなりにあるでしょう。
しかし、本質的にはそれと同等のリスクに、今後は一般人もさらされる可能性があるのです。
そうなると、もし対戦中に「明らかに対戦相手の筋力や体力が尋常でない」と感じた場合、潔くその場で棄権する勇気を持つことも、大事なことではないでしょうか。
ラグビーやレスリングなど、組み合ったりぶつかったりといった場面の発生するスポーツ競技を行っている場合も、やはりリスクは同様でしょう。
常に情報を得て、自衛を心がけること。
それでも、防げない時はあるかも知れません。
科学技術が進歩すると、次々に厄介な問題が生じるだろうことは、以前から指摘されていました。
そういう時代に、いよいよ私たちは飛び込まねばならないのです。
望むと望まざるとにかかわらず。
自分も常に情報を得るべく努力し、また情報を必要とする人に、役立つ内容を届けていきたいと思います。
今回も、最後までありがとうございました。