エイトシークエンスの存在価値
エイトシークエンスが見ている世界をお伝えできればと思い、ここに綴ります。
根底の思想は「好きにしたらいい」
エイトシークエンスが創業時から変わらないのは「好きにしたらいい」というスタンスです。
そしてこれを私自身、今もとても気に入っています。
私は人が何かをすることに善も悪もなく、ただ、それをしたかっただけだし、その人は良いと思ってしたのだから、それはそれで良いのではと思っています。
それに、人を見かけで判断するのもなんとなく好きではありません。
どれだけ怖そうな人でも誰かの親だったり、友達の前では屈託のない笑顔をするし、悲しい時には泣く。
ただ、怖そうに見せているのは、なにか理由があるだけで、その人が良かれと思ってやってるのだから、それはそれで良しなのです。
そんなだから、普段、基本的には誰が何をしていても、別にええんちゃうで終わらせることが多い。
良し悪しなんてものは、見る人によって変わるし、キリスト教のように時間が立てば悪と裁かれたことですら、神に変わる。
優勝すればすべてが成功法則になるし、どれだけ期待されてても負ければダメ出しにされる。
世の中、適当だなと思うのです。
だから、自分が良いと信じたことを徹底してやり抜くこと。
それが誰から何を言われようが、自分にとって大事だと思えることに没頭できるような、そんな世界観が素敵だなと思います。
一方で、世の中や人間のDNAはそうさせてくれないように見えます。
人は誰かを引きずり落とすのも好きだし、自分のほうが上だと思いたい。
人間は社会的な動物で、弱いから一人では生きていけない割には、
種の保存のせいか、自分が誰よりも強く、尊い生き物だと主張せずにはいられない側面も持ち合わせているように思います。
大変に面倒くさい生き物だと思いますが、
私は、そんな面倒くさい一面を毛頭否定するつもりもありません。
むしろ、それが良くも悪くも人間という生き物なんだなぁと時に面白く眺めている感じなのです。
そんなだから、エイトシークエンスという世界は、良いも悪いもなく、
一人ひとりをきちんと肯定するのが普通でありたいと思います。
自分が思うことを誰も否定しない
エイトシークエンスは、人が思うことや行動のすべてに理由があり、誰もが良かれと思って行動していることを知っている。
好きなものは好きでいい。
好きでないものは好きでなくていい。
好きなものが変わってもいい。
そんな思想が根底に流れるのがエイトシークエンスです。
エイトシークエンスの存在目的
エイトシークエンスは、人が心穏やかに豊かに生きる世界をつくるための場所です。
そして誰もが、「好きにしたいけどできない」と抱えてしまう不安や恐怖と向き合い、乗り越えられるように、
こと。
誰もが心豊かに生きるために、自分や世界と向き合えるよう伴走役でいたい。
エイトシークエンスはこの方向に向かっていると感じており、
みんなでこの世界をつくりあげたいと考えています。
創業から10年以上、存在目的が表現できなかったことで、大変に苦労をしました。
さまざまな解釈のもとで人が集まり、
それぞれの解釈で行動し、喜怒哀楽に溢れるいろいろな出来事を経験しました。
でも常に自分の心を締めつけていたのは、この場所を通じて何を成したいのかをうまく言葉にできないことでした。
私は格好つけで、いつも余裕があるように見せたいところがあり、
「そういうことじゃないんだけどなぁ」
と思っていても、相手の前では「まぁ、ええんちゃう」と言ってしまっていました。
また、どうしても言いたいことがあっても、
自分の中に明確な言葉がないので、「違う」としか言えず、相手を否定することでしか自分のことを伝えることができないもどかしさに、何度も悔し涙を流してきました。
人がなにをしても「好きにしたらいい」なのですが、
エイトシークエンスが実現したいことではないことに対しては、明確に「違う」と言いたい。
でもうまく言えない。言葉が紡げない。
こんなもどかしさに、
経営者としての自分の才覚や語彙力、そして自分に対する嫌悪感すら感じていました。
ただ、その強い刺激のお陰で、自らに問い続ける機会を得ることができ、
おぼろげながらでも、こうして皆さんに伝えることができるようになってきたことを、無常の喜びに感じています。
「世界から恐れをなくし、誰もが心穏やかに豊かに生きられるようにする」
この言葉について、もう少し触れたいと思います。
世の中は不安だらけに見えます。
かつて日本人が目指した一律のモノサシが変わり、
「自分らしさ」というモノサシが急に現れました。
私は自分らしく人生を歩めているのか。
今のキャリアは?人間関係は?自分はこれから?家族はこれからどうなるのか?
この問いに正解を求めるほど、不安が持ち上がるのではないでしょうか。
自分らしさを考えるためにはどうすれば良いのか。
親も学校も職場も教えてくれなかったことを、今になって自分だけで考えるなんてできるのだろうか。
自信を持って生きるとはなんなのか。どうすればよいのか。
当然、一律の答えを私が持っているわけではありません。
ただ思うことは、まずは不安や恐れを消し去りたいということです。
もっといえば、不安や恐れを理解すれば、しあわせになる方法も同時に見えてくると思うのです。
そこからはただ、自分の存在目的に向かって進めば良い(好きにしたらいい)のだということを考えていきたいのです。
人生とは、自分の存在目的を知る旅なのではないでしょうか。
自分が何に怯え、戦ったり逃げたり、怒ったり泣いたりしているのか、そして何に幸せを感じ、笑ったり、ほっこりした気分になったり、心を潤わしているのかを知ること。
そのような自分自身を知り続けた先に、自分が追い求めたいものがみつかるのはないかと思います。
それがすぐに見つかる人もいれば、なかなか見つからない人もいる。
私もまだ、なんとなくです。
でも、こういう「自分をみつけられる場所」がとても重要なことはわかるのです。
エイトシークエンスは人間らしさを受け入れ、自分の存在目的に向かって自分らしく時間を過ごすきっかけをくれる場所
エイトシークエンスは、自分らしくあるためにエゴと向き合い、自分を理解し、自分を慈しむ。そして自分をゴキゲンにする。
そんなことができる場所です。
では、我々はどのようにしてそのような場所を提供するのでしょうか。
それが「対話の力」だと考えています。
対話によって互いの自己理解が深まっていく時間をどれくらい創ることができるのか。
これがとても重要なことだと考えています。
そして、自己理解を深める対話力は、
「目の前の相手を理解する力」によって高められていきます。
人は自分を理解してくれる相手に自己開示をし、自己開示によって自らを知る機会を得ます。
では、「相手を理解する力」はどうやって養うのか。
これは自己理解を高めることで養われると言われています。
相手を知るにはまず、自分を知ることから。
ということです。
相手が何を経験し、何を感じ、そこから何を学び取るかという対話に伴走する時、
自分も類似した(同じである必要はありません)経験から何かを感じ、何を学び取ったかについて考えたことがないと、共感も共鳴もできません。
自己理解を深めることが他者理解につながるということを、
エイトシークエンスは知っておく必要があると思います。
そして、能動的な信頼。
これも相手を理解する行為があってこそだと思います。
相手のことを理解せず、信頼することは非常に困難です。
そして相手を理解する力は自己理解により深まるとすれば、
つまりは、深い自己理解を得ているほど、能動的な信頼も深くなるのだと思います。
自分と深く向き合える人は、相手と深く向き合える。
自分を知ることが、私たちがエイトシークエンスの存在目的を果たすうえでとても重要です。
最後に、先日、「ドライブ・マイ・カー」というカンヌ国際映画賞受賞作品の中でもこんな一節があったのでご紹介します。
誰かを理解したいなら、自分自身をまっすぐに見つめ理解すること。
私たち自身が自己理解を深めることで、すべてのお客様を理解する深さが変わる。
理解する深さが変われば、お客様が何に不安を感じているかが鮮明にわかるようになる。
その不安を少しでも取り除くことができるのであれば、心穏やかに豊かに生きるきっかけとなる。
私たちは、毎日誰かと触れ合っています。
私たちは、その誰かが、私たちとの対話やサービスを通じて、
「恐れや不安はなくなっているだろうか」
「自分らしくあるために、自分を少しでも知っていただけただろうか」
「この経営者の方は、我々との仕事を通じて、企業の存在目的を感じる瞬間は生まれただろうか」
こういうことを問い続けたい。
働くすべての人たちが、恐れや不安を感じることなく、
心穏やかに豊かに生きられるよう、人間的な関りを紡いでいくこと。
そして私たち自身も、たくさんの方々との人間的な関りを自分自身を知る機会とし、より深く、何のためにこの仕事をし、自分は何を求めているのだろうかを考え続けていく。
自己理解が他者理解を生み、
他者理解が相手の自己理解を生み、
相手の自己理解が世界から恐れをなくす。
そして心穏やかに、豊かに生きることができるようになる。
そんな世界をつくりたいと願い、これからもエイトシークエンスという街を育んでいきたいと思います。