悔恨の涙が紡いだもの #わたしたちの人生会議(リレー連載)
この記事は、緩和ケア医の西智弘さんが主催の、「わたしたちの暮らしにある人生会議」という公募出版イベント(くわしくはこちら)のエキシビジョンとして書かれました。「人生会議って名前は聞いたことがあるけど、どういうことだろう」。お話を書くのは「発信する医師団」のメンバーたち。命をみつめる医師たちの、個人的なお話をリレー形式で連載します。
第一回 外科医 中山祐次郎
第二回 循環器内科医/産業医 福田芽森
第三回 病理医 榎木英介
第四回 リハビリ医 あつひろ
悔恨の涙が紡いだもの
わたしは祖母が憎かった。
でも今はそれと同じくらい、いや、それ以上に当時の自分を憎んでいる。
日常において、ふとした瞬間に祖母のことを想う時、今でも自責の念とともに呟く。
「ごめんな、おばあちゃん。」
正確には思い出せないが、腸閉塞で重篤な状態になった祖母が近くの救命センターに運ばれたのは、大学生の時だった。
当時のわたしは閉鎖的な価値観と敷かれたレールを歩む人生を変えるべく、機会を見つけては東南アジアを飛び回っていた。
バンコクの安宿で繋がった国際電話はわたしをリアルな世界に引き戻し、母から祖母の状態を告げられた。「生きるか死ぬかは五分五分かな」「明日の帰国の便で間に合うかな」と医学生なりに冷静に考えたことを断片的に覚えている。
祖母は地方のプロテスタントの家に生まれ、縁あって歯科医の祖父と結婚。その後も裁判所の判事を努めながら、当時としては珍しく仕事と家庭を両立していたそうだ。
父が18歳の時に祖父が亡くなってからは、祖母が全てを担いながら父を歯科大学に通わせ、無事に歯科医に育てあげた。
姉とわたしが生まれてからは東京で家族五人で一つ屋根の下で暮らし、祖母には姉とともに可愛がってもらった。ひき肉から作っていく祖母の特製手作りコロッケが楽しみだったことや、祖母の部屋にあった祖父の遺影の前でキリスト教のお祈りを一緒にしたことは今でもいい思い出だ。
雲行きが怪しくなったのは、自分が思春期を迎えた頃からか。
以前より認めていたであろう俗に言う嫁と姑の問題が表面化し、それは家族間にも飛び火した。全く祖母の面倒を見ない親戚の無神経さも油を注ぎ、家は重苦しい雰囲気になることも増えるようになった。
反抗期を迎えていた私は、この状態を招いている根源を老齢の祖母に向け、挨拶をしない、聞こえるように話をしないなど、今思えばひどい態度をとるようになっていた。
「どうしてそんなひどい態度をとるの」
「おばあちゃんが何かした?」
考えてみると、記憶として思い出すのは辛い顔をした祖母の表情ばかりだ。
そんな態度をとっても何も変わらないこと、これまで大切に見守ってくれた人に恩を仇で返していることはわかっており、そんな自分も嫌ではあったが、家族を保つことが優先で変えることができずにいた。
だからだろうか、祖母が救命センターに運ばれたという話を異国の地で聞いたときも、突然の連絡で驚いたという感情はあっても、悲しいとか動揺したとか涙したとかはなく、家族全体のことを考えたらむしろホッとすらしていたかもしれない。
祖母は当時としてはまだ珍しい尊厳死のカードを持っていた。
キリスト教徒として自然な死を望み、延命治療など受けずに若くして亡くなった祖父の所に会いに行きたかったのかも知れない。
ところがそのカードは1番大事な時に使われることはなかった。虫の息で救命センターに運ばれたとき、その大事なカードを救急車と共に持参できなかった故に(カードの存在は救急医に伝えたが••)、使命に燃えた救命医により挿管され、祖母の命は見事に取り留められた。
救命医はベストを尽くしたため否定することはできないが、相当な重症であった祖母は回復が思うように進まず、人工呼吸器は外れたものの気管切開となり声を失い、祖父が眠る自宅には帰れないまま老人保健施設を転々とした。
そして数年後、最期は両手をミトンで縛られ、体には抑制帯をつけられて自由も尊厳も失い、同じような患者が数名いる無機質な大部屋でしばらく過ごした後、ようやく祖父が待つ天国へと旅立っていった。
当時研修医だった私は、その連絡をうけて心のどこかでというよりは、心からホッとしたことを覚えている。あれだけ気高かった祖母が、生前に個人の尊厳を表示していたにも関わらず、本人の希望とは全く逆の方向で最期を迎えようとしてるのを、見るに耐えなかったのだ。
だから、その時も涙は出なかった。
心の底から初めて泣いたのは、それから1年後だった。
祖母の故郷で一周忌の法要が執り行われ、縁のある友人や知人が多く参列し、一人ずつ昔の話や祖母との思い出を語っていった。祖母は自分が思っていたよりも高名で、人々から慕われていたことを知った。
多くの人は、ひとしきり思い出を話した後に必ずこういった話で締めくくった。
「旦那さんが早くに亡くなって大変でしたけど、息子さんやお嫁さん、お孫さんたちと暮らせて、とても幸せだったでしょうね」と。
号泣だった。
自分でもびっくりするほどに泣いていた。
感動したからではなく、心の底から後悔していたのだ。
故郷の人々からこれほど尊敬され、慕われていた祖母とどうしてちゃんと向き合わなかったのか。
かわいがってきた孫からひどい態度を取られたときの祖母の悲しい顔が、目の前に浮かんだまま消えなかった。
ようやく、祖母の死を、もう会えないという事実を心から悲しんだ。
時の流れは一方向で、過ぎたことはもう取り戻すことはできない。
これからも自分は祖母の悲しい顔と向き合わないといけないし、自分がしたことの責任として忘れてはならないと思っている。
ただ、祖母が最後に自分に残してくれたものがある。
祖母の死は自分の医師人生の一つのきっかけとなり、「救命」と「延命」の意味とは何かを知るべく初期研修医終了後も救命センター中心の勤務を続けた。
その経験は外科医となった今でも貴重なものとなっており、生と死の境を迎えようとする患者を担当する際は、できるだけ本人と家族の意思決定が尊重されるよう、説明に丁寧に時間を割いている。
人生の最期の選択においては何が正解かという答えはないが、本人・家族それぞれが納得して人生の最期が迎えられるようにこれからも医師としてサポートしていきたい。
それができたときは、いつも頭に浮かぶ祖母の悲しい顔が、優しく微笑んだ顔に変わっているような気がする。
その時は素直に呟きたいと思う。
「ありがとう、おばあちゃん。」