「手の倫理」が見せてくれたのは、道徳と倫理の違い、そして、自分の中にある「無限性」
小学校の道徳の授業ほど、つまらないものはありませんでした。
タカシくんが、友達の家で花瓶を割ってしまう。その事実を隠そうとするのだけれど、失敗する。最終的には、その友達に正直に謝って仲直りをする。
こういったお話をクラス全員で朗読をした後に、先生が質問をします。タカシくんの良くなかったところはどこですか?
隠そうとしたことです。そうです。私たちはウソをついてはいけません。正直じゃなければいけません。
それだけで、授業は終わりました。私に残ったのは、ウソ=悪、正直=善という構造だけです。
しかし、この構造が現実社会では全く当てはまらないことをすぐに気付きます。大人はウソをつくという話ではありません。大人に限らず、子どもだった自分たちもウソをつきます。
いいウソ、悪いウソ、どうでもいいウソ、面白いウソ。世の中にはたくさんのウソがあることに気付きます。そして、それら大量のウソをひとまとめにして、悪とラベルを貼ってしまうことに違和感を覚えます。
この違和感について、道徳の授業は一切教えてくれません。なぜなら、この違和感は、倫理の領域だからです。
道徳とは普遍であり、倫理とは個別です。
ウソをついてはいけないという画一的な「善」を説明するのが道徳で、ウソをつくべきではないが、ウソをついてしまうという「自分の生き方」を考えるのが倫理です。
しかし、学校の授業がそうであったように、社会の中では道徳がはびこっています。「こうすべきだ」という命令文を振りかざし、そうできない人を仲間外れにしています。
これは、多様性という言葉の使われ方にも感じられます。ここ最近の"多様性"ブームの中には、みんな違うのだからお互いに干渉しないようにしようね、という意味合いが含まれています。
「やったこともないくせに言うな」「本人にしかわからないでしょ」「部外者は黙ってろ」「こっちの自由だから放っておいてくれ」
こんな言葉が、あらゆるところで聞かれます。それは、お互いの違いには、もう触れないようにしようと言う意味での"多様性"です。この"多様性"は分断を生みます。
障害者とはこう関わるべきだ。ホームレスとはこう関わるべきだ。加害者はこうあるべきだ。そのような道徳的な思考は、多様性を認めているようで、ラベルを貼り付けているだけです。これ以上、考えなくていいように。
本当に必要なことは、考え抜かれたより良いラベルを用意することではありません。そのラベルを剥がして、あなたはどんな人ですか?と改めて問い直すことです。出会いなおすことです。異なる考え方をつなぐための土台となる多様性をつくることです。
そのために必要なことは、相手の中にある「無限性」を見つめることです。
たとえば、障害者は、同時に母親でもありえます。ホームレスは、同時にある専門的な知識を持っている先生でもありえます。加害者は同時に、誰かの息子でもありえます。
あらゆる人が、ラベル一枚では語ることのできない無限性を抱えています。「目の前にいるこの人には、必ず自分に見えていない側面がある」という前提で人と接することができるかどうか。
それは、障害者に優しくしましょう、困っている人に手を差し伸べましょうという道徳的配慮の問題ではなく、目の前にいる人、一人ひとりに、個別に敬意を払うこと、を意味します。
「多様性」という耳障りのいい言葉を超えて、具体的な社会を考えるために、無限性を忘れないこと。それが、道徳ではなく、倫理で人とつながることを意味します。
道徳の授業で学んだ、普遍的な善悪は社会に出るためには必要かもしれません。でも、その善悪だけで渡りきれるほど、この社会は単純ではありません。
どれだけめんどくさくても、時間がかかっても、一人ひとりに向き合い、出会いなおすことが、多様性のある社会のために必要なのです。